辺見庸『月』・・・主人公「わたし」あるいは「あたし」は、「きいちゃん」という「見えない」「動けない」「喋れない」いわゆる重度障がいをもつ女性。そして「あなたひとですか?」「ひとのこころ、ありますか?」と問うのが「さとくん」(きいちゃんが入所している施設の介護職員)。

辺見庸『月』の朗読、続いている。読者はらいとM さん。ともに熱心に?聴いてくれている。Mさんは夕食の準備をしながら、らいはうろうろしながらだが、それでも張り合いがあるものだ(笑)。

 

現在、17章まで。全部で37章だからようやく中間部に差し掛かるところだ。

本の帯には、

「あなた、ひとですか?ひとのこころ、ありますか?”さとくん”は、なぜ”かれら”を殺したのか?”さとくん”とは、いったいだれなのかー?」

現代社会にはびこる優生思想と人間存在への深いまなざし。実際の障がい者殺傷事件に着想した、大量殺人(マスマーダー)の静かなる物語。」

とある。

 

主人公「わたし」あるいは「あたし」は、「きいちゃん」という「見えない」「動けない」「喋れない」いわゆる重度障がいをもつ女性。そして「あなたひとですか?」「ひとのこころ、ありますか?」と問うのが「さとくん」(きいちゃんが入所している施設の介護職員)。

文章はときに詩的であり、登場する人物、動物、昆虫などイメージ豊かに語られる。一見、脈絡がないかに見えるが、物語は変転しながらもきいちゃんとさとくんの間をつねにいききする。

物語がいったいどこに向かっているのか、読み手の私も正直わからない。

事前に目を通さないので、全て初見の分、緊張が付きまとう。用語法も一定せず、ひらがなを多用しているので熟語と判別できない場合も多い。

わかっているのは、自分がこの作品を最後まで「読み続けなければ」と感じるようになってきていることだけだ。

辺見庸氏の渾身の力をはっきりと感じる。重い病を得ながら「書かないではいられない」という執念のようなものを感じる。

 

きのうから、都内が動き始めた。

そう感じたのは、朝刊のチラシがお店の再開を知らせるものがいくつかあったことと、昨年11月にオープンした南町田グランベリーパークが再開したこと。

2月ころからここのカット屋さんに行くようになって、閉まっている間は浮気をせず我慢、ようやくきのう出かけて髪を切ってきた。

3月までの活気は一日では戻りようもなく、にぎわっていたのは食の駅という八百屋さんぐらい。早めに帰ってきた。

 

覚書のブログだから書いておくのだが、5月29日に3か月ぶりの内視鏡検査の結果と診断を聞きに昭和大学藤が丘病院を受診した。

初診から1年になる。

結果は、傷跡他も順調に回復。食道から十二指腸に到るまでの上部消化器官、問題となる部位はないとのこと。

2月の内視鏡検査の費用の、今回は半分しかかからなかったから、安心はしていた。2月には一部切除して検査したせいで、倍ほどもかかった。今回は撮影だけで済んだということだ。

 

次の診察は1年後ということに。

 

 

【読み飛ばしの記録】の続き

 

パルチザン伝説』(2017年/桐山襲河出書房新社/1800円+税/底本は『パルチザン伝説 桐山襲作品集』(1884年作品社 ))

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35年ぶりの再読。友人のK君からいただいた。以前に読んだ時は、もっと生硬な文章だったように感じたことを憶えているが、一読してそんなことは全く感じず、かじられたのは、豊かなレトリックとある種のロマンチックさも兼ね備えたなかにある絶望のにある深さのようなもの。これほどの思索と物語の広がりの豊潤さを、35年前は感じ取れなったと思う。作家は夭逝してしまったが、作品は永く残っていくのではないか。

文中、何度か出てくるフランクのヴァイオリンソナタイ長調、そして前奏曲とフーガ(ピアノ)は、35年前には全く聴いたことがなかった曲。その思索の深さに今は共感できる。


ヒロシマを生き抜いて』(2019年/切明千枝子/ノーモア・ヒバクシャ継承センター広島/1000円)

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切明さんは、1945年8月6日、広島で被爆。当時は県立第二県女の女学生。私も何度か広島でお話を伺ったことがある。

本書はノーモア・ヒバクシャ継承センター広島という民間団体が切明さんから聞き起こしたもの。

遅くに「語り部」となった切明さんのお話は、個人的な思いを前面に出すというよりも具体的な事象をつぶさに伝えようという姿勢が強く感じられる。これは当たり前のようで、実はかなり稀有なことだ。91歳となる切明さんの記憶がいまだ鮮明で客観的なのは、ご自身の聡明さだけでなく、長く被爆体験をうちに抱えて生きてきたことによるのだろう。

どのページも心穏やかになど読むべくもない。被爆直後の友だちの様子や自分のふるまいも率直に書かれていて読むのが辛い。読むほどに、ここに至るまで、つまりこうして自分の経験を「表現」するまでに切明さんにどれほどの逡巡があったのかと思う。

被ばくから3週間あまり、9月はじめに切明さんに、髪が抜け、歯ぐきから出血して血便が出る、体に紫色の斑点が出てくる、などの原爆症の症状が出始める。切明さんは書く。

『こういう症状が出るともうおしまいだなと思いましたが、私は格別驚きませんでした。「あぁこれで死んでしまうなら楽になっていいわ」と思ったのです。私は同級生や下級生のお父さんとお母さんの眼が怖かったのです。「うちの子は死んだのに、なんであんたは生きてるの」と言われているように思えて仕方なかったのです。取り越し苦労かもしれませんが、にらみつけられているようでした。だから自分に原爆症が出た時には、ほっとしたのです。これで死ねば楽になれると思って。』

お母さんの必死の看護で助かった切明さんは『私は生かされたのだ』と思ったと言う。

『私が黙ったままでいれば、私の同級生や下級生がむごい死に方をしたことがなかったことにされてしまう。それではいけないと思って・・・』

 

文中には、峠三吉のありし日の姿もあり、資料的に貴重なものでもある。

本冊子を希望する方は、

広島市中区八丁堀5-22メゾン京口門404号足立・西法律事務所内

  ノーモア・ヒバクシャ継承センター広島

に連絡されたい。残部があれば対応してくださるのではないかと思う。

                        以下、次回。