『オトナのひろしま修学旅行2023』感想集③ 何をなすべきか?次の世代に何をどう伝えられるか?

庭で使う巻き取り式のホースがダメになったとMさん。

ホームセンターはあちこちあるが、それではと東林間のユニディへ。

ユニディには「単品」では行かない。

駐車場にクルマを停めて、買い物の前に歩いて3分の「蕎澤」へ。

前回はフラれたので、今回は営業を確認してある。久しぶりの外食ランチ。

ここは蕎麦もいいが、それ以外の料理が丁寧でうまい。ビールにお酒を少し。

 

Mさんは豆腐づくし。

私は野菜天ぷら。野菜は皆小ぶりで胡麻油でカラッとあがっている。いつものことだが実にうまい。豆腐づくしの白和えや手作り豆腐をつまませてもらう。どれも一品。蕎麦は、今日は中太の田舎蕎麦が会津産地粉。ほそい方が埼玉産。滋味を感じる。

 

ユニディでホースを買って車に戻ると、外気温が39℃。駐車していたからだろうと思ったが、走って20分しても変わらない。予報では35℃だったが。

 

オトナのひろしま、もう1ヶ月が経つ。

今朝の中国新聞、広電が路面電車を1割減便。乗客の少ない区間を合理化。市内線の1割132便をカットするとのこと。たまにしか行かない人間には影響はわからない。地元の人はどう受け止めてるのだろう。

さて、感想集の3回目。

 

 戦争、あるいは戦後の雰囲気を知っている我々だから

     

                        埼玉・川越市・70代

 

はじめに

 私自身の修学旅行を振り返ってみると小学校はなし(後の世代からは、会津に行ったようだ)、中学校は東京、高校は奈良・京都で、広島へは行っていない。個人的に訪れたのは17年前で「勤続30年リフレッシュ休暇」という制度を使って、福岡での裁判の傍聴の前に立ち寄り、一泊したことがある。が、1月末というシーズンオフに資料館を含む平和公園と宮島へ行ったのみだった。公園はガラガラ、連絡船も空気を運んでいるような感じだった。

被爆体験講話

 今回の旅行、一番の関心事は現地で被爆者の生の声を聴くことができるということだった。自分で設定することは難しく、滅多にない機会だし、私にとっては初めてのことだ。二人のお話を聞くことができたが、特に豊永さんの話は、被爆者手帳や地図などを使い、視覚的にもわかりやすかった。                   

 ライフワークとしての韓国人被爆者問題に取り組んでいることも語られたが、特に印象に残ったのが、被爆当日の様子。最初に原子雲を見た時、中にチャーチルルーズベルトの顔が見えたというのは当時の「鬼畜米英」教育の成果なのだろう。その後、祖父母の家がある坂駅のホームに降りてくる人は「髪の毛はバラバラ、服はボロボロ、ダラーとした手から皮膚が垂れている。よろよろ歩いている」という証言に、丸木さんの描いた絵が現実の描写だったのだとよみがえった。

 翌日、祖父といとことの3人で大八車を引いて広島の家族を探しに行って母と弟を見つけたなどの様子も息をのむような展開でリアルだった。家に帰って、風呂桶に残っていた水を飲んだが「これがとってもうまかった」という話が、被爆直後「水を、水を」と求めていたという報道と重なった。

 被爆者の話というのは、これまでテレビ等で何度も聞いてきたが、やはり目の前で話しているのを聞くというのとは違う。当時の話の中で最後に「多くの被爆者の中では私は運がいい」と言っていた。前日に話を聞いた植田さんも「ここまで生きてこれた私はラッキーだった」と繰り返していたが、確かに、被爆して健康不安を抱えながら、高齢になるまで生きてきて、講話をしているのだから実感なのだと思う。豊永さんの話で最後の言葉、「核と人類は共存できない」。たぶん一か月前のG7ヒロシマサミットで出た「核廃絶」ではなく「核抑止」という方針への批判を念頭に置いた発言だと思うが、心に残った。

 

被爆遺構

 平和公園の原爆関連碑や学校に併設された資料館などを巡ったが、現役の小学校にこういったものが残されパンフレットまで準備されていることは知らなかった。爆心近くの本川小学校では、児童と教職員410名もが犠牲になったという。今回行った2校ではそれぞれに当時の建物(あるいは壁面)を残している。

 特に袋町小平和資料館には当時、救護所として使われた時の「伝言文字」が書かれた壁面が残っている。近年、校舎解体の際に発見されたものとのことで、広島には今後もこういう形で見つかるものがあるのかもしれないと思った。

 このあと訪れた縮景園(6月21日の「NHK列島ニュース」にここのアジサイが満開との映像が出ていた)にも「被爆銀杏」(被爆した樹木)というのがあり、沢山の実をつけていた。

 時間が前後するが、旧陸軍被服支廠があんなに大規模でしかも30年ぐらい前まで広島大学学生寮として使われていたというのも驚きだった。ほかにも移動中に医院前の爆心地プレートを見たり…。平和記念資料館で買ってきた図録を見ると、市内には他にも被爆の痕跡が多くあるようで、もう一度訪れて、今度はゆっくり巡ってみたいと思った。

被服支廠

 

広島平和記念資料館

 ここは1時間以上、ゆっくりと周ることができた。学生と外国人が多かった。17年前と展示が変わっているようだったが、被爆当日の「火傷と負傷にあえぐ被爆者」の写真には見覚えがあった。出口付近の展示には、戦後、アメリカから贈られたというララ物資のボール紙でできたドラム缶のようなものがあり、たぶん私が小学生の時、給食室で見た脱脂粉乳の入った容器だと思うが、思わぬ再会だった。

 なお、資料館のことを、この夜の食事会で近くの中澤晶子さんに話したら、「資料館の改装にあたり、博物館などの展示を専門にやっている会社に任せた結果、構成内容や照明など問題が多い結果になった」と言っていた。

あとへとつなぐ

 現地には修学旅行生が沢山いた。私たちの修学旅行では、宿にそれぞれ米を持参した記憶がある(この話をしたら、同じ経験のある人が複数いた)。それがどういった役割を果たしていたのかは覚えていないが「米穀通帳」というものがあった時代だ。小6で東京の親戚の家に遊びに行った時には、上野公園の階段の下にアコーディオンを弾いた白装束の傷痍軍人がいた。戦争、あるいは戦後の雰囲気を知っている我々だから、被爆遺構も被爆者の話も、心に通じるものがある。今の時代に生まれている修学旅行生に、これらのモノクロの時代はピンとこないとは思うが、戦争や平和についての何らかのものを学び取ってほしいと思う。なんて、最後は教員目線になってしまった。

さいごに

今回の旅行にあたっては、緻密な計画から始まり、現地との連絡、お土産の用意、施設の鍵の管理、さらに二次会の飲み屋の選定まで赤田さんには大変お世話になりました。おかげで深く心に残る修学旅行になりました。感謝、感謝です。

 

 

 

            何をなすべきか?    

 ―2023年 「オトナのひろしま修学旅行」を終えてー

                          

                          埼玉・流山市・70代

 

はじめに

 二拍三日にわたっての見学先と話を伺った方を改めて記しておきたい。

一日目(6月13日)

 平和公園原爆ドーム前での中澤晶子さんとの対面後、 相生橋 本川小平和資料館

公園に戻り原爆供養塔 韓国人慰霊碑 広島二中原爆慰霊碑 市立高女の碑 レストハウス(元大正屋呉服店・燃料会館) 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 被爆遺構展示館 

峠三吉詩碑 広島平和記念資料館

二日目(6月14日)

陸軍被服支廠 植田䂓子さんのお話(平和公園レストハウス) 袋町小平和資料館

縮景園ヒロシマ宗教協力平和センター波多野愛子さん他お二方の案内)

三日目(6月15日)

 豊永恵三郎さんのお話(平和公園レストハウス) 加納美紀代資料室サゴリ

 

 被爆されてからの辛い経験と闘いについてもお話下さった植田䂓子さんと豊永惠三郎さん、これらの多くの見学先で私たちに帯同され、忘れられない貴重な説明、案内をして下さった中澤晶子さんに心から感謝の気持ちを伝えたい。18人の参加者全員の気持ちである。

3日間の思い

 広島から自宅に戻って日々を送っている時にもしやと思い、以前広島を訪れ平和記念資料館に入館した時のチケットが残っていたかもしれないと箱を漁ってみたところ、観覧券(大人券)に50円と記載されたものが出てきた(今は200円)。当時の観覧券に使われている写真は俯瞰して下半分が資料館全体になっており、上半分の背景には1棟だけ建った超高層のビルが屹立し市街の景色も見渡せるものだ。意図してかは分からないが、将来の街の「発展」を写真に込めたとも言えないこともない。それ以来の広島訪問だった。在職時には生徒の修学旅行で広島に行くことは無かったので、今回はそれ以来の広島訪問だった。

 一日目の平和公園内外の被爆慰霊碑見学では、個人で碑文を読んだだけでは決して伝わらなかったであろう貴重な説明を中澤晶子さんから伺うことが出来て、それだけでも心が締め付けられる思いであった。亡くなった人の無念さと、ひとり一人の名前を記し石碑の形にしかできなかったという、生き続けてきた人々の思いが伝わってきた。

 被爆された高齢のお二人のお話を直接伺えたことは、原爆投下から78年たった現在では得難いものだった。妹を被爆で亡くしても自分はまだ幸運だったと振り返り、その後の逞しく生きざるを得なかった生活も含め話される植田さんのお話には辛かった年月の重さを感じさせないものがあった。最終日の豊永さんのお話は、豊永さん自身が原爆手帳(被爆者健康手帳)を持つ被爆者でありながら、朝鮮半島から連れてこられた外国人(主に朝鮮人被爆者の援護の必要性を長期間訴え続け、闘い続けてきたことを淡々と語られる姿に尊敬の念を禁じえなかった。御年87歳の正に闘士である。

植田䂓子さん

 今回の修学旅行は「オトナの」と付いたところがミソである。教育学的な位置づけなどどうでも良いことかもしれないが、参加者のほとんどが元教員であり、その観点から評価する人もいるようなので、蛇足で触れることにする。アンドラジー(Andragogy)という言葉があり、成人教育とか自ら学ぶことの意味で、ペダゴジー(pedagogy)「子ども教育」と対比的に使われることが多いようだが、その定義に即しても、今回の私たちの修学旅行は能動性や問題意識の多様さから言っても非常に大きな意味があったと言って良いのではないか。勿論、ひとり一人の動機は様々であってそれぞれの思いはあるのだが。皆長年共に闘ってきて年代も近い仲間で気心も知れているという気安さがあるからこそ、20人近い団体でありながらも参加の期待があったのだろうと思う。

 

何をなすべきか?次の世代に何をどう伝えられるか?

 広島から帰ってから、地域で続けている学習支援の場でお土産のもみじ饅頭を配りながら少しだけ話をする機会があった。一つは自主夜間中学での場であるが、スタッフは元教員が多いせいもあって、自分たちが以前修学旅行の引率で行った頃に比べ今の展示はどう変わったかなどの話に花が咲いた。高校で国語を教えていた元教員からは、原民喜の「夏の花」の文章や「「はだしのゲン」が問いかけるもの」と題する文章が送られてきた。「抑止力」などという核兵器を正当化する論が大手を振ってまかり通ろうとする現在、それぞれの持ち場で反核の話をする糸口になれたことは意義あることであった。

 私の住む千葉の東葛地域でも毎年市民グループによる朗読劇などがいくつかの市で開かれるが、内容にクレームをつけようとする或いは無関心な自治体があるのは事実である、単なる定例行事にされてしまう危険性を常に孕みながらも全国各地で続けてくことの重要性を改めて思う。

 現在周りは多くが職場などを持たない退職者となっている現実がある。そうであっても最小限自分の家族ー子や孫には広島に行ってこんなことを見て、こんなことを考えたと伝えることがキチンとできるだろうか?広島に行く前に、紹介された中澤晶子さんの作品『ひろしまの満月』を小4になる孫に贈ったところ、真剣に読んでいたという。中澤さんの力に負ってしまったけれど、直接孫に話す機会もこの夏には持ちたいと思う。末の息子には、峠三吉の原爆詩集(復刻版)をお土産にしたが、果たして読んでくれるだろうか?

 話のついでに。自分の高校時代に「倫理・社会」を担当してくれたのは「原爆許すまじ」や「死んだ女の子」等を作曲(!)した木下航二先生だった。授業では残念ながら原爆や作曲の話は聞くことはなかったけれど、そのことについてここでは書ききれない。直接の被爆体験が無くても多くの人を感動させることが出来た歌の作曲者であったことを知っただけでも意味のあることだった。

おわりに

 今回の企画を立ててくれた赤田圭亮さんと中心になって案内してくださった中澤さんには、文末ながら改めて感謝の気持ちを伝えます。そして広島で貴重なお話をして下さった皆さんにも紙上ながらお礼を申し上げます。

 

 闘わなければ 核廃絶はできない!

 

 

 被服支廠、当時陸軍が持っていた権力とその財力を実感

 

                       大阪・高槻・70代

 

 6月13日から15日の3日間、赤田圭亮さんの企画、中澤晶子さんの協力によるオトナのための修学旅行に参加しました。大変充実した中味でした。おふたりと現地でお話と協力いただいた方々に感謝します。いくつか感想を記します。

1)2日目に植田䂓子さん、3日目に豊永惠三郎さんに被爆体験と市民運動に関わって来られたお話を聞きました。植田さんは87歳、豊永さんは91歳のご高齢にも関わらず、かくしゃくとして当時の体験を語られ、その姿に強い感動を受けました。植田さんは悲惨な体験にも関わらずからっと明るく前向きに語られました。また豊永さんには長い間の地道な在朝被爆者への支援運動と在外被爆者裁判の取り組みについて具体的に話していただきました。戦後の歴史において、在外被爆者救援運動が大きな意味を持ったことが大変よく分かりました。ご高齢のお二人のお話をお聞きし、私がテーマとしている戦没者遺児靖国参拝(私はその戦後の経験者です)、その戦前の体験者を探しお話を聞くことは、まだまだ可能性があると確信しました。今回のお話の感銘をもとに、その戦前の体験者(90歳を越えられています)を探そうと思いました。

2)昨年5月に、赤田さん企画の広島ツアーに参加し、4年ぶりに広島に行きました。あの時は、似島に行きましたが、残念ながら被服支廠に行けませんでした。今回の企画では被服支廠が組まれており、楽しみにしていました。2日目の朝に被服支廠に行きました。赤田さんが事前に県庁で鍵を預かり、被服支廠に入りました。その広大さに驚きました。当時陸軍が持っていた権力とその財力を実感しました。またこれだけの広大な土地と建物を廃棄(破壊)しようとする当局の計画を広島の市民運動が阻止し、保存を決定させたことに敬意を感じました。これからも被服支廠の運動に関心を持っていきたいと思いました。

3)3日目に加納実紀代資料室サゴリに行きましたが、大変印象深い見学でした。広島に行く前に、本の整理をしていたところ、昔入手した加納実紀代著『天皇制とジェンダー』が出てきました。加納さんとは出版社(今回の訪問で中央公論社と分かりました。)に勤めておられた頃にお会いしたことがありました。その後加納さんがお書きになるものに興味を持ち、読んできました。今回、サゴリで加納さんの蔵書と取材ファイル等を見ることができ、また事務局の高雄きくえさんからの生前の加納さんのお仕事に関するお話を聞け、大変よかったと思います。

高雄きくえさん

 今回の余録になりますが、1日目の平和公園慰霊碑巡りからぬけさせてもらい、5年以上会っていない知人と会いました。彼はメンタル的不調と闘ってきたのですが、最近だいぶよくになってきたとのことでした。彼から私家版のフォート・エッセイをもらいました。私は最近入稿した『戦後の修学旅行の推移』に関する文章を渡しました。

 ツアーが終わって、赤田さんと昔の独立組合の仲間と飲みましたが、赤田さんから「来年、もし似島のツアーを組んだら行きますか?」と聞かれましたが、「行きます、行きます!」と答えました。3日間、ありがとうございました!