大方緋沙子と池谷のぶえ・・・2人のバイプレーヤーが印象的。 2024年4月の映画寸評③ 『水平線』 『52ヘルツのクジラたち』

2024年4月の映画寸評③

<自分なりのめやす>

お勧めしたい   ⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️

みる価値あり   ⭐️⭐️⭐️⭐️

時間があれば    ⭐️⭐️⭐️

無理しなくても  ⭐️⭐️

後悔するかも   ⭐️

 

㊲『水平線』(2023年製作/119分/G/日本/脚本:斎藤孝/監督:小林且弥/出演:ピエール瀧 栗林藍希他/劇場公開日:2024年3月1日)  

                        4月11日 kiki ⭐️⭐️

「ロストパラダイス・イン・トーキョー」などの俳優・小林且弥が長編初メガホンをとり、「凶悪」で共演したピエール瀧を主演に迎えたヒューマンドラマ。福島県のとある港町を舞台に、大切な人ときちんとお別れできないまま立ち止まってしまった父娘の複雑な心情を描く。

震災で妻を亡くした井口真吾は、個人で散骨業を営みながら、水産加工場で働く娘・奈生と2人で暮らしている。高齢者や生活困窮者を相手に散骨を請け負う彼のもとに、かつて世間を震撼させた通り魔殺人事件の犯人の遺骨が持ち込まれる。苦しい選択を迫られた真吾は、ある決断を下す。(映画.comから)

ピエール瀧が少しずつ復帰し始めている。昨年は『福田村事件』で見た。今回、精彩を欠いていると感じたのは、演出のせいか。脚本が良くないせいもあるだろう。オリジナルであるのはいいとして、全体に締まりが感じられない。娘、父親の微妙な距離感が描かれていない。

一番わからなかったのは、通り魔殺人の死刑囚の弟が、兄の遺骨の散骨を井口に依頼してくるのだが、弟の辛そうな表情はわかるが、なぜフクシマの海に散骨したいのかが描かれていない。推測できるのは、弟が近くの現場で働いているということだけ。

また横須賀で起きた通り魔事件の被害者が、井口に対し「フクシマで散骨しても海は繋がっている」として散骨をしないよう要請するのだが、その理由もよくわからない。加害者であるにしても、その遺骨の行方をそんなに追求するものだろうか。それ以上に、そうした要請を散骨業者に行うのは筋が違うと思う。一義的にはまず死刑囚の弟に散骨を止めるよう要請するものではないか。ここが一番わからないところ。

さらに周りの漁師は「そんな遺骨を散骨したら風評が立って漁に影響が出る」と井口を責めるが、そうだろうか。汚染水(処理水)に比べれば何の問題もないのではないか。「死刑囚の遺骨をフクシマの海に散骨」という事実にそれほど大きなインパクトがあるものだろうか。ルポライターがその辺りを激しく喧伝するが、腑に落ちてこない。

井口の娘もまた散骨に反対する。母親が眠っている海に死刑囚の遺骨を散骨する父親が許せないということだろうが、その怒りが、漁師らの取り囲まれて本意を迫られている父親のところに行き、頬を張るという行為となるのもよくわからない。

 

一人ひとりの登場人物の心理描写が浅薄だと思う。

とりわけ井口の心理が見る側に迫ってこない。意味のないスナックで酒を飲むシーンが全く成功していない。

方言も役者によって濃淡が激しすぎる。大方緋沙子だけは福島出身というだけでなく、演技としても方言を自在に駆使していていい味を出していた。

逡巡の末、散骨をしないと決めた井口は、ルポラーターたちと死刑囚の弟のところに向かうが、弟の姿を見て前言を翻してしまう。

 

妻は津波に流されて遺骨が戻って来ない漁師である井口、という設定からストーリーが始まっているが、フクシマへのこだわりはわかるが、全体にストーリーの流れが不自然で入り込めなかった。

 

画像4

大方緋沙子

shさん㊳『52ヘルツのクジラたち』2024年製作/135分/G/日本/原作:町田そのこ 脚本:龍居由佳里/監督:成島出/出演:杉咲花 志尊淳 宮沢氷魚 小野花梨 余貴美子 倍賞美津子/劇場公開日:2024年3月1日)  kiki 4月10日 ⭐️⭐️⭐️

 

2021年本屋大賞を受賞した町田そのこの同名ベストセラー小説を、杉咲花主演で映画化したヒューマンドラマ。

自分の人生を家族に搾取されて生きてきた女性・三島貴瑚。ある痛みを抱えて東京から海辺の街の一軒家へ引っ越してきた彼女は、そこで母親から「ムシ」と呼ばれて虐待される、声を発することのできない少年と出会う。貴瑚は少年との交流を通し、かつて自分の声なきSOSに気づいて救い出してくれたアンさんとの日々を思い起こしていく。

杉咲が演じる貴瑚を救おうとするアンさんこと岡田安吾を志尊淳、貴瑚の初めての恋人となる上司・新名主税を宮沢氷魚、貴瑚の親友・牧岡美晴を小野花梨「ムシ」と呼ばれる少年を映画初出演の桑名桃李が演じる。「八日目の蝉」「銀河鉄道の父」の成島出監督がメガホンをとり、「四月は君の嘘」「ロストケア」の龍居由佳里が脚本を担当。タイトルの「52ヘルツのクジラ」とは、他のクジラが聞き取れないほど高い周波数で鳴く、世界で1頭だけの孤独なクジラのこと。(映画.comから)

本屋大賞受賞の原作のツボをしっかり押さえていてわかりやすくテーマを伝えている。いくつもの布石をしっかりきれいに回収してまとめている。演出も丁寧。役者もしっかりそれに応えている。面白くなかったわけじゃない。愉しめたのだけれど、どこかソツがなさすぎて物足りない。昨年の『銀河鉄道の父』もそうだった。2作に共通するのはつくりものっぽさ。そうそうそっちの手には乗らないよといったところ。

気になったところ。原作を読んでみないとわからないが、前半の三島貴瑚と後半の三島貴瑚がつながらない。壮絶な虐待を受けて育った三島貴瑚が、アンさんによって過去をどう整理することができたのかがよくわからなかった。

杉咲花宮沢氷魚、志尊淳、余貴美子倍賞美津子、上手な人たち。中でも宮沢氷魚という役者、いい。池谷のぶえというバイプレーヤーの演技がとっても自然で印象的。

 

中教審、二つのアドバルーン。問題の先送りと無用な階層化が教員の働き方を変えられるかだが、そもそもアドバルーンがいつの間にか萎んでしまうのが今までの通例。

この4月から、医療や各種ドライバー、建設などで「働き方改革」が始まった。

ひと月の残業時間は、原則45時間、年間360時間という規制。

報道番組で取り上げられるのは物流、運送関係が多い。

 

経営者側にとっては、運送量の減少、ドライバーの確保、経営コストの増加が問題。

労働者側からすれば、労働時間遵守は大切だが、一方残業時間の実質的減少による減収も気になるところだ。

 

厳しいのは医療現場だ。

街中の医院の多くはは別として、大学病院や地域の中核病院の勤務実態だ。

もう5年前になるが、大学病院に入院した時に垣間見た助教のドクターの働き方は大変なものだった。朝なゆうなに、さらには夜に病棟を訪れ、手術、診察がぎっしり詰まっていた。

給与は他の職種に比べ高いことは間違いないが、救急医療なども含め医師の不足、偏在の問題は大きい。

 

同じ働き方改革でも、公立学校の教員の場合は全く違う問題がある。

2019年の給特法改正によって、「時間外在校等時間」は原則月45時間、年間360時間と定められた。教員には労基法が原則適用されているにもかかわらず、労基法上の「時間外労働」は存在しない、とされてきた。時間外におこなった労働は、全て自発的なものとされ、実態的には全ての時間外労働はサービス残業としておこなわれてきた。

しかし、あるものをないとする強弁も、過労死ライン超えが8割という実態には堪えられず、苦し紛れにつくられたのが「時間外在校等時間」だ。労働法制にはない給特法の中だけで使われる概念だ。これによって労基法36条、37条の時間外手当支給に関する条項は適用除外となる。

 

改正では、これと合わせて1年間を単位とする「変形労働時間」も導入された。これは労基法上の変形労働時間とは趣をかなり異にするもの。実質的にはほとんど使えない代物。使うとしても45時間360時間が守られるのが条件となるから、これが運用されている実態は現場には全くない。

 

時間外手当支給がない代わりに、公立学校の教員は、本俸の4%をあらかじめ支払われる。

 

給特法は72年に定められた法律であり、4%は当時時間外8時間程度の額にあたる。

 

50年近くもの間、労基法を原則適用せずに、ダラダラと問題を先延ばししてきた結果、教員不足は深刻化し、採用試験の倍率は2倍を切ることが珍しくなくなってきている。

 

12日、この問題を検討している中教審特別部会が、4%の教職調整額を10%に増額するという案を持っていることが報道された。

新聞の見出しだけ見ると、いよいよ教員の働き方改革も実質的な改革に歩を進めるかのような印象を受けるが、違うと思う。

これはアドバルーン、だと思う。

 

文部官僚と中教審委員は、まずは大きくぶち上げ、世間に改革の目玉を示し、財務省との交渉を有利に進めようということだ。

いつものテである。

夏の概算要求と同様、省として方針を決め予算化を公表しても、その後の財務省との交渉で、気がつけばアドバルーンは空気が抜けて小さくなっていく。

 

 

さらに地方自治体の公費負担問題もある。

 

4%を10%に引き上げた場合の財源の公費負担は2100億円と試算されている。

国の負担は三分の一だから700億円、それに対し地方は1400億円の負担となる。

 

地方財政がこれほどの増額を全国的に受け止められるだろうか。

 

10%が仮に実現したとしても、これもまた問題の先送り。

実際に「時間外在校等時間」は、昨年の日教組、全教二つの連合体の調査でも平均90時間を超えている。10%を単純計算しても20時間分にしか充当せず、残り70時間はサービス残業ということになる。

 

さらに中教審は、若手教員を指導する新ポストを新設、給与も増額することを提案している。これも予算が伴う。いかほどを考えているのか。

 

2008年に新設された主幹教諭が、組織の活性化にどれほど寄与しているか、疑わしい。

管理職とまでは言えない主幹教諭が、無責任に組織を掻き回してしまう実態もある。

おべっかとゴマスリの蔓延?

新しいポストをつくっても、階層意識だけが強まり、組織は弱体化する。

ナベブタと言われる教員組織の原形は、養育や教育、あるいは子育てという境界の見えない労働にあって、それなりに機能してきた、と私は考えている。境界をはっきりさせずに協働する文化が教員の集団には一定に根付いてきた。

それを壊してきたのが、00年代に始まる教員の個人化、人事評価制度と新ポストの新設だった。

 

複雑化する子どもの問題を解決するには、それに合わせた柔軟で想像力のある組織が求められる。

 

東京都ではすでに「主任教諭」という形で導入されているが、新設にどれほどの意義があったのか。

 

向かう方向が違うのではないか、と思った二つの中教審案である。



4年半ぶりの会津。

久しぶりの帰省。コロナに阻まれた4年半。

大学入学で会津を出てから、こんなに長いこと帰らなかったことはない。

2泊3日の小旅行。

新横浜から新幹線を乗り継いで北上する。

こだまは案外込んでいる。通勤の人たちだろうか。

東北新幹線からは旅気分。久しぶりに午前中のビール。

 

郡山から磐越西線に乗り換える。

帰省するごとに乗り継ぎのいい時は乗るのだが、本数が少ないので、近年は磐越道を走る高速バスを利用することが多かった。込まなければこっちの方がかなりはやい。

久しぶりに車窓から眺める磐梯山はまばらに雪を抱いている。

遠くに見える飯豊連峰?は真っ白。冬と変わらない。富山市から見える立山連峰とまでは言わないが、違うのは高さだけ。(写真は会津美里町あたりから)

会津若松のホテルに2泊。2人の実家はもうない。

Mさん運転のレンタカーで、会津若松から会津坂下会津美里、喜多方、会津柳津などをめぐった。

横浜は桜が散りかけだったが、会津はちょうど真っ盛り。ソメイヨシノだけでなく、枝垂れ桜が至るところに。

 

通り過ぎる集落の中には、庭に桜の木が植えてある家が何軒も。横浜ではあまり見かけない珍しい光景。

大ぶりの桜で、花見に行かずとも、花見ができる。

阿賀川の支流の何本もの川の河岸にも等間隔に桜が植えてあって並木になっている。

親戚の人に案内してもらったが、しかし人出があるわけではない。

 

人出が多いのは特定の場所。

レンタカー屋にいく時に乗ったタクシーの運転手によると、13日には会津若松鶴ヶ城公園の駐車場は進入禁止になっていたとか。花見客で大渋滞だったそうだ。

 

もう一つ、近年、花見の名所となっている旧国鉄日中線あとしだれ桜ロード。こちらはMさんの親戚の方々とともに歩いたが、大変な人出。

ほとんどが旅行者のようだ。外国人も多い。

この通りが3キロほども続いている。SLや線路も展示されている。
サイクリングロードにもなっているらしい。

 

親戚まわりに2日。最終日は観光を少し。中田観音を経てパールラインという信号のない農道を西に向かう。柳津に近い道路の両側には水仙が数キロにわたって植えてある。

車はほとんど通らないが、人の手が入っているのが嬉しい。

 

会津柳津の斉藤清美術館。ちょうど新しい企画展が始まったばかり。

斎藤は1959年、損保会社AIGの創業者コーネリアス・ヴァンダー・スターの招きでパリの地を踏み、1ヶ月半にわたってパリの街を歩き尽くしたそうだ。その時の膨大なスケッチを帰国してから作品化していったという。

デッサン、版画が展示されている。どれもこれも声が出そうになる程、センスに溢れている。

 

時代は100年ほどもずれているが、絵の背後からエリック・サティの明るい三拍子のピアノが聴こえてくるようだ。

 

もう一つの企画は、PHISICAL BEAUTY 斉藤清✖️ヌード。

こちらは抽象度が増してデフォルメされた造形美の版画群。木肌の違いが面白い。

斉藤は会津を描いた作品群の印象が強く、常設もそうしたものが中心だったように考えていたが、今回全く違い傾向の作品が並んでいて新鮮だった。

 

www.town.yanaizu.fukushima.jp

館内には塗り絵のコーナーや版画のコーナーも。どちらも実際に作業ができるような仕組みになっている。

 

また、筑波大学の学生とのコラボによるさまざまな取り組みも展示されている。よくわからないが、どれも斬新で新鮮に感じられた。

館内の只見川に向かって開いている大きな窓から、桜と菜の花畑を散策する人々の様子が見える。

穏やかな春の日、私たちも風に吹かれながら散歩。この日の最高気温29℃。

もう1ヶ所、いつも寄るところがある。

私が生まれた町にある国指定の重要文化財、恵隆寺というお寺にある立木観音。高さ8.5mの千手観音だ。

一木彫で現在も床下には根があるのだそうだ。

その左右には二十八部衆が四段、一番上に風神雷神が配されている。

拝観できるのは、お堂の中のわずかなスペース。人が7、8人しか立てない。下から見上げる観音立像と二十八部衆はすごい迫力だ。

恵隆寺は真言宗のお寺。創建は舒明6年(634年)、恵隆によって高寺というところに作られる。

775年、北越蝦夷の反乱で焼失、804年に再興が企図され、空海坂上田村麻呂が協力したとされる。

808年、この千手観音像が開眼、伽藍も建立される。1190年に現在地に移転、再出発したとされる。奈良、平安から仏都会津と称された地域の一つのメルクマールだったようだ。

生家のあった会津坂下は昔も今もこれといった特徴のない町だが、こんな貴重な仏像がある。

町名は坂下と書いて「ばんげ」と読む。アイヌ語のバッケ(坂の下という意味)に由来するという。

 

観音堂もやはり国指定の重文。明治、大正時代にはともに国宝に指定されていたとリーフレットにある。

この観音と、野口英世の母がお参りしたという中田観音、喜多方の西、野沢というところにある鳥追い観音の三観音を「ころり観音」と称して、観光バスが訪れる。

いずれも抱きつき柱が堂内に配され、抱きつけば長患いすることなくころりといけるという。

恵隆寺の山門。本堂はこの奥にある。

 

 

2024年4月の映画寸評② 『青春ジャック止められるか、俺たちを2』 『戦雲(いくさふむ)』

2024年4月の映画寸評②

<自分なりのめやす>

お勧めしたい   ⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️

みる価値あり   ⭐️⭐️⭐️⭐️

時間があれば     ⭐️⭐️⭐️

無理しなくても  ⭐️⭐️

後悔するかも   ⭐️

 

『青春ジャック止められるか、俺たちを2』(2024年製作/119分/日本/脚本・監督:井上淳一/出演:井浦新 東出昌大 芋生悠 杉田雷麟 他/劇場公開日:2024年3月15日)   4月10日日kiki ⭐️⭐️⭐️

 

若松孝二監督が代表を務めた若松プロダクションの黎明期を描いた映画「止められるか、俺たちを」の続編で、若松監督が名古屋に作ったミニシアター「シネマスコーレ」を舞台に描いた青春群像劇。
熱くなることがカッコ悪いと思われるようになった1980年代。ビデオの普及によって人々の映画館離れが進む中、若松孝二はそんな時代に逆行するように名古屋にミニシアター「シネマスコーレ」を立ち上げる。支配人に抜てきされたのは、結婚を機に東京の文芸坐を辞めて地元名古屋でビデオカメラのセールスマンをしていた木全純治で、木全は若松に振り回されながらも持ち前の明るさで経済的危機を乗り越えていく。そんなシネマスコーレには、金本法子、井上淳一ら映画に人生をジャックされた若者たちが吸い寄せられてくる。

前作に続いて井浦新若松孝二を演じ、木全役を東出昌大、金本役を芋生悠、井上役を杉田雷麟が務める。前作で脚本を担当した井上淳一が監督・脚本を手がけ、自身の経験をもとに撮りあげた。

全編、80年代前半の小ネタ満載。懐かしいし、笑える。いつもはクールな役どころが多い井浦新がかなりデフォルメした形で若松孝二を演じる。解けることなく最後までなり切っていた。

木全を演じる東出も毒がなく、らしくないのがいい。監督自身を演じる杉田雷麟もちょっとありえないほど間抜け。

金本を演じる芋生悠は存在感あり演技もいい。80年代の在日の指紋押捺拒否の時代。

女で才能がなくて在日であることが三重苦だという「鬱屈」をよく表現していると思った。この辺りの脚本に共感した。

高校生で指紋押捺を拒否、大学卒業後、東京新聞に入社、スポーツライター記者となった横浜の辛仁夏さんのことを久しぶりに思い出した。

85年は指紋押捺をめぐるあつい時代だった。押捺拒否の運動を支援し、在日文学を意識的に読むようになったのもこの頃だ。

そんなこんなを思い出させる映画だった。

 

 

『戦雲(いくさふむ)』(2024年製作/132分/日本/監督:三上智恵/劇場公開日:2024年3月16日) 4月10日kiki ⭐️⭐️⭐️⭐️

 

「標的の村」「沖縄スパイ戦史」の三上智恵監督が、沖縄など南西諸島の急速な軍事要塞化の現状と、島々の暮らしや祭りを描いたドキュメンタリー。
日米両政府の主導のもと、自衛隊ミサイル部隊の配備や弾薬庫の大増設、全島民避難計画など、急速な戦力配備が進められている南西諸島。2022年には台湾有事を想定した日米共同軍事演習「キーン・ソード 23」と安保三文書の内容から、九州から南西諸島を主戦場とする防衛計画が露わになった。
三上監督が2015年から8年間にわたり沖縄本島与那国島宮古島石垣島奄美大島などをめぐって取材を続け、迫り来る戦争の脅威に警鐘を鳴らすとともに、過酷な歴史と豊かな自然に育まれた島の人々のかけがえのない暮らしや祭りを鮮やかに映し出す。(映画.com)

与那国、石垣、本島、奄美馬毛島と、九州から南西諸島に至る自衛隊の配備やミサイル部隊の配備などの実態が克明に描かれている。

数年前に石垣島を訪れた時に、自衛隊配備で揺れていたが、今ではかなり実体化が進んでおり、暗澹たる気持ちにさせられる。

映画は、島の歴史や反対運動の実相、賛成派、反対派の論理を丁寧に掬おうとしている。

見ておくべき映画だ。

ただ、テレ朝系のテレメンタリー2024は、宮古島石垣市への合併反対運動から説き起こし、自治体として台湾はじめ独自の自治体交流が、自衛隊配備によってその力が削がれていく過程を丁寧に描いていた。

自衛隊配備の問題を住民自治の問題としてきちんと捉え、その政治活動についてもしっかりレポートされていた。

それに比べ、「戦雲」はやや個人や文化に傾きすぎたかとも思えた。

タイトルの「いくさふむ」は、石垣につたわる「とぅばらーま」の歌詞「また戦雲(いくさふむ)が湧き出してくくる、恐ろしくて眠れない」に由来しているという。

 
 

「大丈夫、誰も私を刺すことは出来ないわ」という自信が小池にはあるのだろう。 権力者の間を渡り歩いてきた彼女なりの処世術が、今度もものを言うのだろうか。

小池百合子が記者会見。

文藝春秋youtube、テレビでのいくつかの学歴詐称についての報道にコメントをしている。

カイロ大学から卒業証書をもらっている、なんの問題もない、選挙になるとこの話題が出る、残念だ、といったところ。

堂々としたものである。

政治家が嘘をつく時は、逡巡や狼狽は御法度。悠揚迫らぬ態度で、が原則。

安倍元首相のように、だ。

先日の裏金問題での政治家諸氏はやや狼狽の色が見えた。

小池百合子には敵わない。嘘は彼女のようにつくべし。

凡人にはできないこと。

政治的判断というのは、事実を捻じ曲げてクロをひたすらシロと言い続けることだが、

中には、一度ついた嘘が事実だと勘違いし、そのまま思い込んでしまう人もいる。

こういう人は、証拠を突きつけられても、証拠が間違っていると言う。

 

 

石井妙子氏の『女帝 小池百合子』(2020年・文藝春秋・1650円)は、読み応えのある小池の一代記。カイロで都合3年間同居していたという女性は、文庫版では北原百代さんという実名で登場している。

今回はyoutubeで石井氏の質問に答えている。

 

また、都民ファーストの会の元事務総長小泉敏郎氏のyoutubeも見た。カイロ大学の声明は自分が小池氏に相談して画策したという。

 

しかし、状況証拠は山ほどあるが、いずれも確たる証拠はない。そこが小池の強みである。

 

政治家の学歴詐称は、公職選挙法235条で、当選をする目的で候補者の身分、職業、経歴などに関して虚偽の事項を公にした者は2年以下の禁錮または30万円以下の罰金に処する、としている。

しかし、規定は故意犯だけが対象で、仮に公表した経歴が虚偽でも、本人が認識していたと立証できなければ罪には問われない。

 

本人が認識していたどころか、小泉氏が自分で画策したことを暴露しているのだが、小池は「記憶にない」としらばくれている。

相談の時の録音があれば。証拠になるが。

 

同居していた北原百代さんは、小池が2年に編入したことと3年の試験に落ちたことをを記憶している。お話の信憑性は十分だが、これも伝聞証拠。

 

捜査当局が動かなければ、嘘は嘘にならない。

ここが政治。「大丈夫、誰も私を刺すことは出来ないわ」という自信が小池にはあるのだろう。

権力者の間を渡り歩いてきた彼女なりの処世術が、今度もものを言うのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

『椿の海の記』をみる。

ずいぶん春めいてきた。境川河畔をわたる風はやわらかく、微風が桜の花びらを散らしている。

今年の桜は長持ちした。入学式どころか今日明日の土日も十分花見が愉しめそうだ。

 

柴犬のリクちゃんを連れた安藤さん、オオシマザクラの下で3人+1匹で立ち話。安藤さんは、ソメイヨシノに比べオオシマザクラはどことなく品があるという。花びらが小さく凝縮しているからだという。

大ぶりなこのオオシマザクラは、片道30分ほどかかる散歩道の中で、ひと木ウェア目立つ存在。立ち止まって写真を撮っている人も多い。

安藤さんの話は、問わず語りに続く。

 

46年前の結婚したこと。大学が一緒だった奥さんは都心の会社のOLで、自分は相模原の三菱。やあ、差がつきましたよ、という話や、横浜線が冠水すると総務課の同僚に連絡し、早めの退社を催促し、実際15時ごろには退社できたこと、自分達の世代は会社のバッジを常時つけずに課長に怒られたこと、退職しても自分は退職者バッジは無くしてしまったことなど、伺うほどに安藤さんの人生が少しずつ見えてくる。団塊の世代の安藤さん、どこか反骨なのだろうか。同じ話は出ない。

 

岸政彦さんの『東京の生活史』(筑摩書房・2021年・4620円)は150人の市井の人々の個人史の聞き書きだが、安藤さんのお話はこの本を読むような感覚。

寝床に置いて、折々に読むのだが、面白い。昨年、『大阪の生活史』も出たが、こちらはまだ手が出ない。ごく普通の人々の人生は、百人百通りだが、その語り口によっても

受ける印象は違う。同じような経験ではあっても、人生の節々の出来事を心残りとして語るのか、心残りはあってもいくばくかの満足感を込めて語るのでは、受ける印象はかなり違う。東京と大阪でも語り口はかなり違うのではないか。

 

安藤さんのお話は、「いい人生を送ってきた」という満足感がこもっている。

自分はどうだろうか。個人史を個人的に話す機会などないが。

 

4月8日(月)鵠沼海岸井上弘久さんの

『椿の海の記 もうひとつのこの世を求めて 第2章「岩どんの提灯」より』(原作:石牟礼道子 出演・構成・演出井上弘久)

を見に、2人で出かける。

 

鵠沼海岸は、小田急江ノ島線藤沢駅から2つ目。初めて降りた。

駅前の通りは狭いが、下町ぽくっていい感じの街並み。

徒歩3分くらいのところにある「シネコヤ」という映画館が会場。

座席数20席という、日本でも極小の部類に入る映画館。

14時前に着いたが、すでに並んでいる人たちがいる。

入口を入ると、

サロン風のスペース。映画に関する本が並んでいる。

今かかっている映画は、エリセの『ミツバチのささやき』と『瞳をとじて』。

 

チケットは事前予約制。電話で予約した。電話口には井上さんが出た。

 

窓口で順に購入するのだが、人数は少ないのに、これがなかなか進まない。自分の番が近づいて理由がわかった。

皆それぞれ、チケットを受け取ると同時にドリンクを注文している。ドリンクはあとから座席まで届けてくれるシステム。

受付の女性は、穏やかなおっとりした雰囲気を纏っていて、急がない。

 

スクリーンは急な階段を上った2階。

こんな雰囲気。

普通の映画館の座席を並べれば、40人程度は入るかもしれないが、あえてソファとテーブルを備え付け、ゆったりと鑑賞できるようになっているようだ。

 

2人掛けのソファに坐ったらすぐに「赤田さん!」と声をかけられる。

教科書問題に取り組んでいる厚木のYさん。

通信を送ってくださるときには、必ず一言文章を添えてくださる方。

 

さて本編。

最初の30分は作品紹介。石牟礼道子と「椿の海の記」をめぐってのお話。

そして第二部が「カリンバ弾き語りによる独演「椿の梅の記」。

 

たった1人で、カリンバと鈴を伴奏にして語る。

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90年前の水俣の世界。4歳の幼児である石牟礼道子(みっちん)の視点から語られる水俣の川向こう「とんとん村」の人々。隠亡の岩どんやハンセン病患者の徳松どん、父親の亀太郎、祖父の松太郎。楽天的な母親の春乃。

ときにどっしりした老人、ときに精神を病むおもさまと呼ばれる祖母、ゆったりした岩どんを演じながら、井上さんはみっちんになったとき、顔もカラダもかわいらしく小さくなる。

語り手は執筆当時40歳後半の石牟礼道子

目の前に水俣の海がたゆたっているような、不思議な感覚。

井上さんの全身から伝わってくるなんとも言えない温かい世界。70分を超える舞台を井上さんは滞ることなく演じ切った。大変な熱演。

これもまた貴重な民衆の生活史。

 

いい時間をすごさせてもらった。

www.tsubaki-dokuen.com

 

 

 

 

 

辻原登さんと山内若菜さん

今朝、散歩時の気温が18℃。ツバメを見た。これもまた春の兆し。

鶴間小学校ではグランドで始業式だろうか、児童が全員整列して坐っているのがみえる。

「また、学校始まるんだね」とMさん。

 

帰途、再び鶴間小学校。式はまだ続いている。離退任式でもやっているのだろうか。

40分以上経っているが、児童は地面に体育すわりですわったまま。

曇り空とは言え、そこまでしてやることだろうか。

意味のある我慢ならわかるけれど。

 

昨日、神奈川近代文学館

   「文学・どこへいくのか 第II期 作家が受け継ぐもの」

 

講師は作家の辻原登さん。編集者・文芸評論家の湯川豊さんと尾崎真理子さん。

通路側の座席を取ろうと早めに着いた。

整理番号をもらってから、開催中の「帰って来た橋本治展」

を早足でみる。20日も来るので、そのときはゆっくりと。

 

2階ホールの会場前の長テーブル3つに本が積み上げられている。

全て辻原さんの著作。サイン会と販売かと思いきや、

「無料配布しています」

とのこと。びっくり。10数種類の著作がランダムに並んでいる。

中から読んだことのないもの5冊をいただく。どれもきちんと保管されていたことがわかる。

 

3人のお話、面白かった。

辻原さんは自分の作品の源流を谷崎潤一郎大岡昇平だという。

しかし、2人が源流だということを知られないように書くことに気をつけて来たそうだ。

大学で近代小説論を論じていただけに、ヨーロッパの近代小説の影響を受けた日本の小説についての分析が精細で興味深かった。

小説は所詮、放蕩息子と不良少女の話、だという。

 

湯川さんとのやりとりも面白かったのだが、最後に尾崎さんが

「現在のような風潮にあって作家はどのようにものを書いていくべきか」

といった質問をした。

辻原さんは、

「作家も編集者も、そういう流れに必要以上に敏感になっていて、なぜそうしたものが出て来たのかということを考えない思考停止状態になっているのではないか。」

「やっていけないのは、盗作だけ。作家は、自分が書きたいものを書き、物議を醸せばよい。作家というのはそういう存在」と。

 

 

朝、

東京新聞で山内若菜さんの文章を読んだ。

上・下2回の連載。

「上」を読んだ時、いい文章だと思い、その旨メールで伝えた。

「美術界からは嫌われているこの頃、なんだか勇気づけられました」と返信があった。
「下」には、
「善の顔をした悪は、正義の名の下に戦争を始めたり、原発を動かし事故があれば、なかったかのようにする。だが、どんな戦争も絶対悪であり、原発のように人道を脅かす存在には声を上げ、わかりやすく描き、絵で大騒ぎするのが、表現の中で最も大切なことのように思う」
とあった。
小説で「物議を醸す」という辻原さん、絵で大騒ぎするという山内さん、共通するものがあると思った。
 
20日松家仁之さんの話がある。楽しみである。