『やすらぎの森』(2019年製作/126分/G/カナダ/原題:Il pleuvait des oiseaux/ゲンサク:ジョスリーヌ・ソシエ/監督:ルイーズ・アルシャンボー/出演:アンドレ・ラシャペル ジルべーと・スコット他/2021年5月21日公開)年老いてやすらぎのうちに消えていくといった「老い」イメージでは語り切れない「生」が、この映画の中にはある。『やすらぎの森』という邦題だけがだめな映画である。

映画備忘録

7月27日の2本目。

『やすらぎの森』(2019年製作/126分/G/カナダ/原題:Il pleuvait des oiseaux/ゲンサク:ジョスリーヌ・ソシエ/監督:ルイーズ・アルシャンボー/出演:アンドレ・ラシャペル ジルべーと・スコット他/2021年5月21日公開)

 

配給会社も簡便かつ安易なタイトルをつけるものだ。

映画は、つかの間のやすらぎの場を追われる人たちの話。

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その中心が、山で気ままに暮らす老人たちの中に突如入りこんでくる老女ジェルトルード。彼女は新しい生活の中で名前をマリー・デネージュと変える。

 

カナダ・ケベック州の深い森で静かに暮らす年老いた世捨て人たちの姿を描いた人間ドラマ。カナダ・ケベック州、人里離れた深い森にある湖のほとり。その場所にたたずむ小屋で、それぞれの理由で社会に背を向けて世捨て人となった年老いた3人の男性が愛犬たちと一緒に静かな暮らしを営んでいた。そんな彼らの前に、思いがけない来訪者が現れる。ジェルトルードという80歳の女性は、少女時代の不当な措置により精神科療養所に入れられ、60年以上も外界と隔絶した生活を強いられていた。世捨て人たちに受け入れられたジェルトルードはマリー・デネージュという新たな名前で第二の人生を踏み出した。日に日に活力を取り戻した彼女と彼らの穏やかな生活。しかし、そんな森の日常を揺るがす緊急事態が巻き起こり、彼らは重大な決断を迫られるようになる。

                     映画ドットコムから

 

これだけを読むととってもわかりやすい「人間ドラマ」?なのだが、この映画、「やすらぎ」とは程遠い。

山中で大麻を育てながら(これが彼らの現金収入のようだ)世捨て人のように生活する3人の老人たち。

ひとりは画家ボイチョク。自分のイメージをひたすらキャンバスに埋め込む。彼はジェルとルードが来る前に亡くなってしまう。

犬と一緒に罠を確かめ、ウサギを捕獲。家に戻りウサギをさばいているうちに気分が悪くなり、ベッドで亡くなる、隣には犬のジャックも一緒に。

残された絵に価値を見出して、発表して自分の成果としたい若い女性が3人の生活に入り込んでくる。映画のラストに彼の作品がこの若い女性のアートの一部として公開される。映画はこれに対し何ら批評しない。

二人目の男トムは、アルコール依存症とがんを発症しているが、ジェルとルードや若い女性が入り込み静かな生活が壊されていくことに我慢がならない。命が長くないことを察し、みずから死を選ぶ。3人はそれぞれ青酸カリを準備していたのだ。トムがチャーリーとジェルとルードの二人に送られるこのシーンが印象的。一枚の絵のようだ。

森の中で暮らす3人の老人の生活の自由さ、自然さを十分に引き立たせるのが森の自然の風景だ。

 

遠くから山火事が数日間かけてじわじわと迫ってくる。

この山火事こそ、彼らの精神的な安息地を脅かすメタファーとなっている。それは時にジェルとルードであり、若い女性でもある。

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ジェルとルードは60年間の精神病棟で生活から抜け出す。ひたすら静かに守り切ってきた内的な心理を、チャーリーとの間に解放していく。

ジェルとルードとチャーリーのベッドシーン、カナダケベック地方の雄大な自然と年老いた男女の性的な営み。老いていくことが引き算のようにたくさんのことを失くしていくことではなく、関係の中に新たに積みかさねられていくものがあるということを考えさせる素晴らしいシーンだ。

ジェルとルードはおなかの帝王切開のあとをチャーリーに見せる。

子どもの性別も生死もジェルとルードは知らない。セックスはいつも看護人や収容者との間で小階段や踊り場でするもの。チャーリーとの行為にジェルとルードは「こんなにやさしくしてもらったのははじめてよ」。

予言遊びをするうちに父親に精神病ときめつけられ、60年間精神病院に収容されていたジェルトルードが、自然やチャーリーとの交流の中でやわらかい部分がどんどん開いていく。演じたアンドレ・ラシャペルの演技は自然この上ない。彼女はこの撮影が終わった直後、88歳で亡くなっている。

 

年老いてやすらぎのうちに消えていくといった「老い」イメージでは語り切れない「生」の強さが、この映画の中にはある。『やすらぎの森』という邦題だけがだめな映画である。

 

 

 

 

 

『夕霧花園』7月24日、全国でたった4館での公開は寂しい。旧日本軍の残虐行為が背景だが、たくさんの題材が埋め込まれているのに、映画全体に静かな通奏低音がずっと流れている。急いでいない。頑として視点をずらさないぞという決意が見える。

映画備忘録。7月27日、あつぎのえいがかんkikiで二本続けて。

1本目。

『夕霧花園』(2019年製作/120分/PG12/マレーシア/原題:夕霧花園 The Garden of Evening Mists/原作:タントウ・アンエン/監督:トム・リン/出演:リー・シンジエ(1940~50年代テオ・ユンリン シルビア・チャン(1980年代テオ・ユンリン)阿部寛/日本公開2021年7月24日)

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タイトルの読ませ方は「ゆうぎりかえん」らしい。直訳ではあるが、阿部寛扮する中村有朋が戦後、日本に帰国せずマレーシアでつくり続ける庭の名前が「夕霧」であり、映画の行き先のメタファーとしても使われているようだ。媚びのないいいタイトルだと思う。

 

この映画、7月24日に封切りとなったが、調べてみると東京・渋谷のユーロ・スペースと私が見たあつぎのえいがかんkiki、名古屋の伏見ミリオン座、そして大分のシネマbisのたった4館での上映。

映画ドットコムのレビューも、この数日で平均が3.2になったが、数日前までは2.5。このままではこの映画、衆目に触れずにお蔵入りになってしまいかねない。

ぜひ見てほしい。独特の手触りの映画だ。私が見てみようと思ったのも、予告編への違和感から。こういう映画はあまりない。

 

感覚的な印象だが、たくさんの題材が埋め込まれているのに、映画全体に静かな通奏低音がずっと流れている。急いでいない。頑として視点をずらさないぞという決意が見える。

背景や物語の流れについての説明は決定的に省かれている。レビューを見ていても全体がつかめないといったものがいくつかあった。

私も初めは戸惑ったが、120分考え続け、帰りの電車でも考え、寝る前にも考えて、次の日、散歩のときにMさんに枠組みを説明して初めて「ああそうだった、こういう映画だった」と自分でも腑に落ちたのだ。

 

物語の外枠は、1941年12月8日、旧日本軍がイギリス支配下にあったマラヤ(マレーシア)コタバル近郊に上陸。占領する。

日本軍はここでも大東亜共栄圏の名のもとに、マラヤ人民に対しすさまじい弾圧を加える。若い女性を慰安所に放り込み、敗戦があきらかになると証拠隠滅の一環として女性らを行動の閉じこめ爆破して殺戮する。

 

この女性の中に、戦前の京都に旅行をして天竜寺の庭を見てとりこになるテオ・ユンホンがいる。その姉、テオ・ユンリンは慰安婦とはならずに強制労働に従事させられ、ユンホンの最期を確認して逃亡する。

 

戦後、妹を置き去りにした罪悪感にさいなまれながら、政府の機関に勤めながら日本人戦犯から日本に私信を代わって送ることを条件に、ユンホンのいた収容所の施設の場所を聴き出そうとする。かろうじて分かったことはその収容所の名前が「金のユリ」ということだけだった。

 

テオ・ユンリンは妹が書き溜めた庭の設計図をもとに実際に庭をつくるべく、戦後も日本に帰国せずにマレーシアで日本庭園を造り続けていた謎めいた日本人庭師中村有朋にたどりつき、庭の作成を依頼する。

 

ここまでが物語のはじまりと言っていいだろう。

 

依頼を断る中村は、テオ・ユンリンに作業員のひとりとして庭づくりを手伝えと命じる。その作業は、何度も同じ岩を据えなおすなどテオ・ユンリンは理解できず、重労働を弄ぶようなやり方に「あなたの中に設計図はあるのか」と中村に食って掛かる。

 

中村はテオ・ユンリンを座敷に招じ入れ、障子戸によって切り取られた庭の風景を見せる。借景ということの重要さを伝える。次第に二人は惹かれあっていくのだが、その部分も全く淡泊であり、つまらん恋愛話にならなくてよい。有朋は有朋のままでユンリンも毅然としたままだ。

 

ただ少しずつ事情が分かってくるのは中村のほの暗い背景だ。

ある日、日本から、遺骨収集団の一員として中村の帰国を促す使者がやってくる。

テオ・ユンリンはその男が戦中に憲兵隊だったこと、戦犯の裁判で無罪となって帰国していったことを伝える。

中村有朋という男がどういう男なのか、戦時中マラヤで何をしていた男なのか。

 

二人は共産党ゲリラに襲われ逃げるうちに離れ離れになってしまう。

テオ・ユンリンは中村を探すが、彼のゆくえはようとしてわからない。

 

1980年代、テオ・ユンリンはマレーシアで二人目の女性裁判官となっている。

中村有朋という日本人が、戦時中に日本軍が某地に埋めたとされる埋蔵金(山下財宝=山下奉文大将がフィリピンの山中に隠したとされる埋蔵金=この映画ではマレーシアの山中に隠されたというのが前提に)に関わるスパイではないかという嫌疑をかけられていることを知って、かつての友人をたどって中村をさがしはじめる。

 

これ以上はネタバレになるので書かない。

ウィキペディアには

「山下財宝は、日本が19世紀から1945年までかけて世界各地から略奪した『財宝』の一部である」と主張する人々もいるが、この話はアジアの近・現代史を背景にしたフィクション作品で著名な作家スターリング・シーグレーヴが著した、「The Yamato Dynasty」や「Gold Warriors」によって広く知られるようになったフィクションを、そのまま「真実」として読み違えたものである。「金の百合(ユリ)」 ("Golden Lily") と呼ばれる架空の財宝を巡るストーリーで、「第二次世界大戦終戦までに、財宝の一部が秩父宮雍仁親王の監督下でフィリピンに分散して隠されたため、一部が今なおフィリピンに取り残されたままになっている」といった内容であるが、虚実入り混ぜたシーグレーヴのストーリー展開の巧みさから、本当の話だと信じる人々が続出した。」

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とある。ユンホンが収容されていた「金のユリ」と合致するのだが、これに中村がどんなふうに関わっていたのかは、後段になって少しだけ明らかになっていく。

 

単なる埋蔵金をめぐる話ならば単純なのだが、この映画には「庭づくり」に込められた中村やテオ・ユンリンの思いがある。

 

テオ・ユンリンのからだに彫師でもある中村はある模様を掘るのだが、これと庭との関連は興味深いし、ユンリンにつながる謎がここに隠されている。借景という言葉が布石であったことが最後になってわかると、「ああそうだったのか」と驚かされる。

 

荒唐無稽ともとれるストーリーがある重さをもっているのは、監督のトム・リンの力量だろう。私はこの台湾人の監督の映画は『百日告別』(2015年)しか知らないが、強烈な印象が残っている。この映画も説明がない映画だったが、やはり静かな通奏低音が流れていた。

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テオ・ユンリンを演じる二人の女優、マレーシアでは著名な女優だが、ふたりとも凛としていてほんとうに美しい。映画を品のあるものしている。

 

あの阿部寛もいい。劇中一度も笑顔を見せない。朴訥とした和製英語がリアリテイを高めている。

 

ネタバレしたい欲求にかられるが、我慢する。かなり面白いネタがこの映画には隠されている。

 

日本、台湾や香港、本土中国の映画でもないマレーシア映画。新鮮この上ない。

 

全国たった4館の上映で終わらせるのはもったいない。横浜ではこのあとジャックアンドベテイでも上映。九州では4館に増えるらしい。

 

 最後にひとことだけ。

たくさんのテーマの裏には、日本のマレーシア蹂躙の歴史があるのだが、それにとどまらない日本へのアンビバレントな憧憬、それは日本の庭であり、有朋であり、日本の文化に対する捨てがたい親近感のようなものがあるようだ。それが府の歴史を払しょくすることなどないのだが、監督のトム・リンの中にはそうしたものが確かにあるようだ。『百日告別』でも同じことを感じた。

 

広島市、8月6日までに84人の原告に被爆者健康手帳交付の予定。問題は、原告と同じような事情にあった人たちに対する対応だ。「談話」は政治判断で上告を断念するとしていて、必ずしも今までの国の立場を変更しているわけではないし、控訴審の判決を受け入れているわけではない。 だとすると、原告以外の人々の救済や、長崎の未認定の方々への手帳交付がすんなりとなされるのかどうか気がかりだ。また、国と広島・長崎県・市との間に齟齬が産まれやしないだろうか。

追記

黒い雨訴訟のことだが、広島市は原告84人に対し、8月6日までに被爆者健康手帳の交付を行いたい旨表明している。ぜひやってほしい。自分だけ超早くワクチンを打ってしまう市長だからこそ、こういうことも超早くやってほしいものだ。

 

問題は、原告と同じような事情にあった人たちに対する対応だ。「談話」は政治判断で上告を断念するとしていて、必ずしも今までの国の立場を変更しているわけではないし、控訴審の判決を受け入れているわけではない。

だとすると、原告以外の人々の救済や、長崎の未認定の方々への手帳交付がすんなりとなされるのかどうか気がかりだ。また、国と広島・長崎県・市との間に齟齬が産まれやしないだろうか。

 

「雨」にあたらなくとも、被ばくした多くの人々が生きるために口にした水や野菜には多量の放射性微粒子が含まれていたことはあきらか。存命のこの方たちを認定することが、今、国のできる最低限の贖罪ではないのか。

戦地に行ったかどうかで額面の違いはあるにしても、軍人に対しては軍人恩給が支給されているが、生活の場で戦争被害を受けた人々への救済はまったくなされていない。

被爆者健康手帳によって、医療費などが免除される被ばく者にしても、戦争がなければ、原爆投下が回避されていれば、被ばく後の人生はまったく違ったものになっていたはずだ。

本来ならば国のとるべき立場は、救済というやや上からの立場ではなく、国家の戦争責任を果たさせてほしいとお願いする立場ではないのか。

今後どのような経過をたどるか、注視していきたいと思う。

 

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Mさん丹精のキュウリ 成長が待たれます

 

 

黒い雨訴訟、政権、上告断念の談話を発表。今となって遅すぎると泉下で訴える多くの被爆者、それに対し、自分の責任は棚に上げ、もうずいぶん時間が経ってしまったから、ほんとうは認めたくはないけど、仕方ないので救済してあげようという「談話」こそもっと厳しく糾弾されなくてはならないのではないか。

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7月26日、菅首相は「黒い雨」訴訟の上告断念を発表した。

この日、松井広島市長と湯崎広島県知事は官邸で菅首相と面会の予定だった。市、県ともに被告として最高裁に上告しないことを国に強く要請する予定だった。一審時も県と市は控訴をしない方針を国に伝えたが、被告でもない(被爆者手帳交付は自治体の業務)国は被爆者援護の制度設計をした立場。

 

この面会に先立って菅首相が記者会見を開き「上告断念」を発表したのは、これもまた政治判断。要請を受けて、ではなく国が主体的に「上告断念」を判断したのだということを印象付けたかったのだろう。

 

コロナに適切な対応ができず、無謀とも思えるオリンピック開催を強行した菅政権は支持率が危険水域に入っている。これ以上の支持率低下を招かないためにも、何らかの手を打たねばならず、使える物は何でも使えのたとえのごとく「黒い雨」も使ったということだ。

判決内容に対し「政府として受け入れがたい部分もある」として「談話」を発表するとした。

 

受け入れがたい部分とは「談話」の中ほどに示されている。

 

 

「今回の判決には、原子爆弾の健康影響に関する過去の裁判例と整合しない点があるなど、重大な法律上の問題点があり、政府としては本来であれば受け入れ難いものです。とりわけ、「黒い雨」や飲食物の摂取による内部被ばくの健康影響を、科学的な線量推計によらず、広く認めるべきとした点については、これまでの被爆者援護制度の考え方と相いれないものであり、政府としては容認できるものではありません。」

 

科学的合理的な被爆の立証がなければ被爆者とは認めないというのが国の立場。これに対して高裁判決(引用は判決要旨から)

 

「黒い雨に放射性降下物が含まれていた可能性があったことから、黒い雨に直接打たれた者は無論のこと、たとえ打たれていなくても、空気中の放射性微粒子を吸引したり、地上に到達した放射性微粒子が混入した飲料水、井戸水を飲んだり、付着した野菜を摂取したりして、放射性微粒子を体内に取り込むことで内部被ばくによる健康被害を受ける可能性がある。/黒い雨に遭った者は、「原爆の放射能により健康被害が生ずることを否定することができないものであったこと」が認められ、被爆者援護法に寄る被爆者の認定要件に該当する。」

 

直接黒い雨に打たれなくても、放射性微粒子を体内に取り込んだ可能性は被ばく地域のいてはかなり高いということだ。さらに

「国が援護の対象とする特例区域を含め、それぞれの調査に基づき範囲が異なる三つの降雨域は、黒い雨が降ったと蓋然性が高いということができる。範囲外だからと言って黒い雨が降らなかったとするのは相当ではない。実際には特例区域よりも広範囲に黒い雨は降ったと推認される。/原告らは少なくとも原爆投下後、黒い雨降雨域の各地に雨が降り始めてから降りやむまでのいずれかの時点で、黒い雨降雨域に所在していたと認められるから、黒い雨に遭ったと認められる。」

 

76年前に原爆投下によって降った降雨域を「合理的」に特定し、それ以外のところに所在していたものは被爆者とは認めないという国の立場は、戦争遂行の主体としての国の立場から責任wもって救済を図るという視点が全く欠けている。

 

「談話」においても、

「・・・原子爆弾の投下から76年が経過しようとする今でも、多くの方々がその健康被害に苦しんでおられる現状に思いを致しながら、被爆者の皆様に寄り添った支援を行ってまいります。」

という言葉には、戦争を始めた、あるいは戦争を早期に終わらせることのできなかった国の戦争責任を厳しく認めようとする姿勢は全く感じられない。

「上告断念」など今となって遅すぎると泉下で訴える多くの被爆者、それに対し、自分の責任は棚に上げ、もうずいぶん時間が経ってしまったから、ほんとうは認めたくはないけど、仕方ないので救済してあげようという「談話」こそもっと厳しく糾弾されなくてはならないのではないか。

 

 

官邸を訪れた県知事、市長に対し

菅首相は午後5時からの知事と市長との面談では「熟慮に熟慮を重ねた」として被爆者援護法の理念を重んじる考えを伝えた。湯崎氏は面会後の取材に、「黒い雨を浴びた方々の痛みを理解してもらい、感謝したい」と述べた。」

 

互いにシャンシャン、である。とうてい彼らが「黒い雨を浴びた方々の痛みを理解」したなど信じることができないが、「救済」を決めた以上、長崎を含め原告となっていない人も含め、早急に被爆者手帳を交付すべきだ。

民間人への戦争被害は、東京大空襲をはじめ各地への多くの空襲、沖縄戦、占領地での被害も含めいまだに放置されたままだ。「痛みを理解」しているならば、国として「戦争責任」を明らかにし、被害者救済を進めるべきだ。

新作浪曲『中村哲』九州・筑豊に始まる生い立ちから、アフガニスタンに1000以上の井戸を掘るところまでを語る。途中、ギター伴奏の歌も入る。堂々の30分。創作浪曲を浪曲界の至宝と言われる豊子師匠の三味線で堂々と語り切った。これは大変なレアもの。いやいやレアであるだけでなく、中村哲さんの貴重な「語る評伝」である。

7月24日土曜日。朝からいい天気である。気温はどんどん上がり35度に近い。

6月19日に予定されていた『浪花の歌う巨人パギやん独演会』が、この日に延期。

時間も17時開演が13時開演に。どうしてこんなことに。

 

土休日はマークから南町田グランベリーパーク駅までのバスがかなり間引かれる。

特に昼間は、11時の次はが12時ちょうどだ。11時では早すぎる。12時では少し遅れてしまう。

「歩く!」と決めたのは、いつものようにMさん。

この激しい日盛りの中を20分歩くのか? 合掌。

11時半過ぎ。日傘を並べて出発。

 

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6月19日(土)⇒ 7月24日(土)

芸人三昧十五周年記念特別公演
浪花の歌う巨人・パギやん 独演会 Vol. 3in 大倉山記念館
■開演/17時00分(開場/16時30分)⇒ 13時00分(開場12時30分)
■入場料/前売り券:3,000 円 当日券:3,500 円
■出演者/パギやん(歌劇派芸人)、沢村 豊子(曲師)
■内容/芸人三昧十五周年記念特別公演として、日本一の曲師
沢村豊子」を迎えて、浪花の巨人・パギやんが、
新曲浪曲「医師・中村哲」のネタおろしを行います。
一席目が「紺屋高尾」、二席目が新作浪曲
「医師・中村哲」です。ライブ録音予定。

 

東横線大倉山駅を降りると、大倉山記念館は急坂を上って6~7分。

息が上がる。

 

開演10分前に到着。

楽屋ではなく客席工法で出番を待つ趙さんに声をかける。

始まる前によけいな話で集中力を鈍らせてるのは本意ではない。1~2分で。

 

きょうは5つやります!と趙さん。

最初に戦時歌謡を数曲。

この日は短縮版だったが、系統的に時系列で戦時体制を支える庶民の「うた」を取り上げてほしい。

 

続いて浪曲「紺屋高尾」。ここで曲師沢村豊子師匠登場。

趙さんの歌はもちろんのことだが、私はこの人に会いたくて、この人の三味線が聴きたくて、来る。今年84歳。

浪曲、落語の定番「紺屋高尾」は、染め物職人久蔵と花魁高尾が身分違いの所帯を持つところで終わる。趙さんの浪曲。もう板についたもの。何度聞いても久蔵の「喜び」が伝わってくる。豊子師匠の三味線はいつものように間も音程も完璧。

 

休憩後、最初に「悔心曲」。朝鮮に伝わる仏家の説話。生まれた時からこれまでの人生を振り返り、気がつけばいまわのきわに。「もう燃え尽きる命、逝く身を誰が止められるでしょう。友が多いと言えども誰が同行してくれましょうか。親戚一族が多いと言って、どの親戚が代わりに行ってくれるでしょうか。ご同朋諸氏よ。私のこの後悔の謡を、ゆめゆめお忘れなきよう。せいぜい親孝行な去って、なすべきこと話すべきうちに、ちゃんとなされよ。一足お先に失礼申します。南無・・・。」

 

初めて聴いた。この間ソン・ガンホの『王の願い』という映画について書いたが、朝鮮では仏家は少数派。中国の影響から儒教が強かったが、こういう歌って伝える仏法説話も残っている。

 

続いてあほだら経。江戸時代に始まった坊主が門付けをして歩いた話芸。漫才に取り込まれるなどして昭和まで生きのびたという。趙さんは自分なりの歌詞をつけて政治批判を含めた独自のあほだら経を小さな木魚が二つ付いたものを叩きながらうたう。

 

最後に浪曲中村哲」。今日がネタおろし。前編。中村医師の九州・筑豊に始まる生い立ちから、アフガニスタンに1000以上の井戸を掘るところまでを語る。途中、ギター伴奏の歌も入る。堂々の30分。創作浪曲浪曲界の至宝と言われる豊子師匠の三味線で堂々と語り切った。これは大変なレアもの。いやいやレアであるだけでなく、中村哲さんの貴重な「語る評伝」である。

 

後編は9月25日、同じここ大倉山記念館で。チケットは5月に手に入れてある。楽しみなことである。

 

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 Mさん、『グーチョキパーのうた』とCDを購入。超さんにサインをしてもらう。

趙さん、ひとこと。

NHKみんなのうたでも取り上げてくれたらうれしいんやけど」

同感である。

 

今年51本目。『茜色に焼かれる』、世の不幸と矛盾を並べてはみたけれど・・・。残念。

映画備忘録。7月17日。あつぎのえいがかんkiki で

『茜色に焼かれる』(2021年製作/144分/R15+/日本/脚本・監督:石井裕也/出演:尾野真千子 和田庵 オダギリジョーほか 2021年5月21日公開)

今年、これが映画館で見る51本目。

 タイトルはいい。意表をついている。でも、それだけだった。

面白くなかったかといわれれば、そこそこ面白かった、でもどこかチープで、長いのに

最後は無理やり映画まとめましたふう、を否定できない。

 

ネットのレビューを見ると4~5点をつけている人が多い。

たくさんのシーンの中には、キレのあるセリフのシーンも多いし、笑わせてくれるリアリルなシーンもある。だからか、受け入れられているんだなあと思った。

でも世の中の不幸、矛盾を横に並べてみただけというふうも。

 

田中好子は不幸や矛盾にキレるシングルマザーではなく、どこかずれていて、力が抜けていて、でもよくよく見ていると裏には怒りがこもってもいそうで…よくわからない。

 

尾野真千子が気合の入った演技をしているのはわかる。

でも、田中良子というシングルマザーの人格が、脚本上で統合されていないというか言動が場当たり的で並列的、焦点化してこない。監督がやりたいことをやっていいるうちに、田中良子は空中分解。最後はアクション映画に。

 

社会の一つひとつの矛盾をもう少し丁寧にちゃんと描くべき。

矛盾の捉え方が一辺倒すぎる。

コロナ禍で首を吊った経営者もいれば、支援金で儲かっている店主もいる。今稼がないでどうする?という人だってたくさんいる。

誰もが一辺倒にコロナに懲らしめられているわけではない。石井裕也監督の脚本は、社会の見え方、捉え方が単眼的でワイドショーレベル。劣情を煽る?

 

高給官僚の老人による交通事故も世間の怨嗟に同調するにとどまっている。いやさらに怨嗟を拡大して見せようとしている。それで終わり、それでいいの?

実際に起きた事件を扱うならそれなりの想像力でもって向き合わないと。映画なんだから(笑)

ひとことも謝ってくれないから示談金は一切もらわないという田中良子。その老人が亡くなると葬儀にいく。「顔を見に来た」というが追い返される。啖呵の一つも切ればいいい。はっきりしない。息子に問われると「まあ、頑張りましょう」。

 

風俗勤めの田中良子が中学時代に好きだった熊木と出会ってラブホテル。いざというときに「わたしのような汚れた女でいいの?」それはないだろうと思う。

と思えば、中学の担任との面談。若い担任に向かって「ちゃんと責任取らないと絶対許さない」と恫喝。

とにかく統合されない多重人格のような田中良子だ。

冒頭、画面の片隅に「田中良子は芝居が上手」のようなテロップが入るが、これも不発。死んだ旦那の父親が入る老人施設で芝居をやるが、私には意味不明。

 

人間の、とりわけ男の下卑た品性に田中良子が一矢を報いるような場面がラストシーン。必然性感じない。

 

 

結局、いいのはタイトルだけ。そのタイトルも単なる「色」にとどまってしまった。

 

『ジョーカー』のような映画をみてみたい。どん詰まりの隘路の中にたぎるような怒りの詰まった・・・。

        

  

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『ファーザー』を見た。アンソニー・ホプキンスは、ハンニバル・レクター博士の不気味さもよいが、俳優としては『日の名残り』と『ファーザー』だなと思った。『日の名残り』は30年近く前の映画なのに、現在の彼の実年齢に近い男を演じている。

映画の備忘録

先週の土曜日。ようやく『ファーザー』を見た。

アンソニー・ホプキンスをはっきりと認識したのは『羊たちの沈黙』(1991)だ。『エレファントマン』(1980)はみた記憶があるが、アンソニー・ホプキンスが出ていたことは知らない。『羊たちの沈黙』はDVDも購入しているから、かなり気に入った作品。もちろんジョデイ・フォスターの鮮烈な印象とセットだが。

ほかに印象に残っているのは執事を演じた『日の名残り』(1993)ハンニバル・レクターを演じた『ハンニバル』(2001)『レッドドラゴン』(2002)、あとは『ブレインゲーム』(2015)『二人の教皇』(2019)くらい。熱心なファンとは言えないが、大好きな俳優だ。

 

 

『ファーザー』(2020年製作/97分/イギリス・フランス合作/原題:The Father/原作・脚本・監督:フロリアン・ぜレール/出演:アンソニー・ホプキンス オリビア・コールマンほか 日本公開2021年5月14日)

 

ひとりの老人の視点と心理を描くために、映画的な技法をことさらに使うことなく、かといって同じような似ている場所を使いながらするっとそれが変わっていく。

いつのまにか老人の視点と不安な心理を追体験させられていた。

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アンソニーが現実と自分のアタマのなかのずれを何とかして一致させようとするように見ている自分も現実の不一致を何とかして統一しようとしている。しかしそれがうまくいかない。

そうしたことを全く説明なく、ただシーンが重ねられていく。

もともとは演劇として発表されたものらしいが、演劇を映画に翻案したというより、映画として愚直に表現したことが成功していると感じるのは、やはりアンソニー・ホプキンスの演技によるところが大きい。

 

見ながら何度も、認知症を患って逝った義母の言動を思い出した。10年間、生活を共にしたが、思い出すのは義母の言動以上に私自身の心理だ。

認知症の義母と50代の自分は架橋できない懸隔があると感じていたし、それが自分の言動にも表れていただろう。

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この映画をみながら考えたのは、義母やアンソニー(劇中の名前)は間違いなく自分の中に同居しているということだ。

 

十分に集中してスクリーンを見つめ、考えてみていたのに、最後の数分間、不覚にも記憶を失っていた。

珍しく一緒に見に来ていたMさんにラストシーンを聴いたのだが、見ていないのだからそれについて書くのはやめようと思う。

 

アンソニー・ホプキンスは、ハンニバル・レクター博士の不気味さもよいが、俳優としては『日の名残り』と『ファーザー』だなと思った。『日の名残り』は30年近く前の映画なのに、現在の彼の実年齢に近い男を演じている。

 

日本では誰が演じられるだろうか、と帰り道、Mさんと話した。

「スーさんでしょう」とMさん。

三國連太郎か、そうだね」と同意。

いまとなっては望むべくもないが。

息子ではまだまだ難しい。

 

ところで、俳優の松重豊がエッセイ集『空洞のなかみ』で、ロンドンで芝居をしたときに地元の俳優が楽屋を訪ねてきて話したというエピソードを書いている。

英語でよくわからない話をしたあと、松重は「あんたも頑張ってね」と軽くあしらったというのだが、その役者がじつはアンソニー・ホプキンスだったということが後でわかるというオチ。

 

二本とも忘れられない映画になりそうだ。

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