一度も対面していない間柄ではあるが、画面上では20時間を共に過ごしてきた。 オンラインは物理的な距離も超え、つながるのも切れるのも一瞬だ。 「徐々に」とか「余韻」とか、そんなものはない。

今朝、外気温が4℃。

冬の朝、気温が下がっていないと、落胆している自分に気付く。

「お、今日はあったかいな!」とはならない。

張り合いのない日がやってきたように感じるのはなぜだろう。

寒がりなのに、である。

単に気温が低いとわくわくするのである。寒いのに氷が張っていると、少しうれしいのに似ているかもしれない。

 

氷と言えば、先日、飯能市のゴルフ場で、写真を撮ろうと集まった高校生5人が、凍った池に乗り、氷が割れ池に落ち、4人が自力で岸に上がるも、1人は死亡したという報道があった。

 

ラジオのニュースでやっていたが、自然の氷は、ある程度の厚さがあっても、氷に含まれる不純物のせいで割れやすいのだそうだ。

自然の氷を研究している学者は世界に数人もいないというのに驚いた。

 

 

東京のFさんから

「きのうは、やたら横田からオスプレイが飛びました。危ない、何か落ちてきそうで」

羽村駅前で見上げた時のオスプレイの写真が送られてきた。

 

境川の西側、大和市綾瀬市にまたがる厚木基地から飛び立つオスプレイを見たことがある。情報が刷り込まれているからか、それともあまりスピードが出ていないからか、「何か落ちてきそう」と思うのはよくわかる。

 

その大和市の向こう、厚木市の向こうに大山が見え、丹沢山塊が見える。

その先に富士山の頂上部分が見えるのだが、一昨日、平地には降らなかった雪が山岳部ではかなり降ったようで、今富士山はようやくいつもの冬の富士に。裾野の下のほうまで濃い白さに。

 

そして手前の大山、丹沢は青い地に上から白いゴマをまぶしたようで、山肌がいつもに比べてぐっとせり出してくるように感じられる。

 

毎年思うことだが、この景色、北陸か東北の地方都市の風景に近い。

横浜の風景とはだれも思わないだろう。

 

19日(火)、1週間前になるが、ようやく今年度の大学の授業が終わった。

週1回、15回の講義は、毎年秋口から始まって、大寒のころに終わる。季節の変化は着るものの変化であり、シャツ一枚で始めて、オーバーを着るまでということになるのだが、今年は違った。

 

授業はすべて、今いる私の部屋でおこなった。

Zoomでの授業。

始まるまではつらかった。方法もICTの技術も知識もない私が、できるんだろうかと暗澹たる気持ちになった。

頼みの綱は、次女のつれあいのあっちゃんと、1月になれば終わっているよという根拠のない自信だけ。

 

 

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電車の中の日能研の広告。田園調布学園中等部の問題。ずいぶんとアナログな問題を出すものだ。6年生がこれにどう答えるのだろうか。

なんとか終わった。

世の中はテレワークだ、在宅勤務(同じか)が主流になっているといわれている。

みなそんなにうまくハマっているのだろうか。

 

私にとっては未曽有の体験だった。

発見もあった。

双方向授業(オンデマンド授業のほうが一般的には多いのかもしれない)独特の距離感のようなものが、良くも悪くもあって、その都度いろいろなことを考えさせられた。

 

今、義務教育ではGIGAスクール構想の前倒しで、一人一台のパソコンが配られつつある。オンライン授業の意義と必要性を説く人も多い。

 

時流に乗るというか、パソコンの配布が遅いと、文科省に文句を言っている教育評論家もいた。保険のコマーシャルまでやっているタレントだが。

 

オンライン授業やパソコンを使った授業がそんなにいいものだろうか。

 

そのためにワキに追いやられる大事なコト、モノはないのだろうか。

 

ある人に福音であるものが、別の人に福音とは限らない。

 

高齢者にとってキーボードが助けてくれる部分はあるが、子どもが育つ過程でキーボードが邪魔をする部分はないのだろうか。

 

インターネットが、今までにない学びの広がりを見せてくれることはあるかもしれないが、じゃあ世界とキーひとつでつながることは、ほんとうによいことだらけなのだろうか。

 

距離が一気に縮まること、遠距離で簡単につながることが、ある人たちにとっては労働が強化されたり、仕事がなくなったり、人が簡単に死んだりすることはないのだろうか。

 

ある、よね。

 

科学技術の進歩は、人間にとって福音であると同時に、いつだって害悪をも一緒に連れてくるものだ。

 

パソコンを子どもたちに配って喜んでいるのは誰だろう。

忘れてはならないのは、その人たちが子どもたちに何か有益なことをしてくれるわけではないということだ。

メーカーにとっては、ユーザーが半永久的に製品を使い続けてくれることだけが重要だ。

クルマでも冷蔵庫でも、同じだ。

できれば自社製品を長く使ってほしい、そのための差別化はいくらでもするけれども、

 

「これってほんとうに必要なの?」

 

という疑問が芽生えないように、性能や使用効率を上げることに腐心する。

 

そう考えると、もろ手を挙げてGIGAスクール構想に賛成はできない。

コロナ禍に乗じて一気に進められる事業、本来ならもっと議論が起きたはず。

 

 

 

21年度の後期の授業が、対面になるのか、オンラインになるのかまだわからない。

 

火曜日がとりわけて寒かったり、雨だったりすると、少し得をした気分にはなったのは事実。

 

しかし最後の授業のとき、例年の授業と同じように、わずかだが互いに去りがたいような気分があったのも事実。

 

いつもなら手を振りあって「じゃあ、また。元気で」と彼らに声をかける。それから物理的な距離が互いの間を分けてくれるのだが、オンラインは「退出」のボタンを押すだけ。

一度も対面していない間柄ではあるが、画面上では20時間を共に過ごしてきた。

オンラインは物理的な距離も超え、つながるのも切れるのも一瞬だ。

 

「徐々に」とか「余韻」とか、そんなものはない。

 

 

 

 

 

 

 

『空洞のなかみ』松重豊

タレント本を買ったのはいつ以来だろうか。

 

最初に買ったのは山口百恵の『蒼い時』(1980年)だったろうか。百恵ちゃん(書いてみると少し恥ずかしい)が実際に書いたというので読んでみた。面白かった記憶がある。あの独特の低い声もそうだが、生きてテレビの中にいるだけで物語のようだった。

 

最近では山口果林(同じ山口だ)の『安部公房とわたし』だろうか。調べてみたら2013年。最近とは言えない。期待ほどではなかった。

 

『空洞のなかみ』。タレント本である。作者は松重豊

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毎日新聞出版 1500円(税別)

 

バイプレーヤーとして人気絶大の松重。かつては『深夜食堂』のやくざ役は、漫画とそっくりだった。食い物番組は飽き飽きしているが、『孤独のグルメ』のナレーションと食べっぷりだけは別格。先日放映された新丸子の「さんちゃん食堂」など、店の面白さ、良さを十分に伝えていて良かった。

 

12編の掌編小説と25編のエッセイでできている。

 

コロナ禍で仕事がなくなり、在宅を余儀なくされていて書いたものだという。

 

12編の小説は、役者の底知れぬ不安と不安定さを描いている。なにより小説として体をなしているのがすごい。京都・太秦は彼の仕事場だが、至近の広隆寺の国宝・弥勒菩薩を枠組みに使っている。空洞のなかみの寓話性。手練れの文章。いずれ長い小説を書いたら読んでみたい。

 

エッセイのほうは「サンデー毎日」に連載していたもの。軽妙洒脱。とにかく面白い。本の途中に目次があるのだが、この目次も気が利いていて面白い。

 

 

最近、一気読みした本は、『優雅なのかどうか、わからない』とこれの2冊。

 

 

 

 

『スパイの妻』・『喜劇愛妻物語』・・・わざわざ映画館に足を運んで、終映後に何を思うか。 駄作はどっちだ?

『スパイの妻』を見たのは、1月13日。

二度目の緊急事態宣言が出て間もないころ。

若葉町のジャック&ベティは、また座席が一つ空きになり、客足も遠のいていた。

 

負け惜しみを言うわけではないが(別に勝負はしていない)、『スパイの妻』を見に出かけたというより、どちらかというと『喜劇 愛妻物語』が見たかったのだ。間の時間が15分ほどとちょうどよく、遅くならずに帰ってこられる。ついでと言っては申し訳ないが、まあ話題の映画、見ておいてもいいかというぐらいだった。

 

今回この映画、カンヌ映画祭銀獅子賞(監督賞)の受賞が話題になっているが、たしか黒沢清監督はカンヌととにかく相性がいい。知っているだけでも『アカルイミライ』『散歩する侵略者』『岸辺の旅』などで今まで受賞している。

 

でもなあ、私の勝手な思い込みだけど、この監督の映画は、いつも何かありそうでたいしたことないなあと思うことが多いのだ。

 

まあ、いわば好きじゃないとか相性がよくなi

というレベルなのだろうけど。

そこそこ面白いと思ったのは、『トウキョウソナタ』と『散歩する侵略者』、『岸辺の旅』や『クリーピー偽りの隣人』などなんだかなあと思った。

 

でもこれって大林信彦の映画が嫌いというのと少し似ているかもしれない。何か重々しく表現できているようで開けてみると空洞。大林信彦の場合は、そこに戦争とか平和といった押しつけっぽい理念が入ってくるからさらに嫌悪感が増す。若いころの映画は邪気がなく映画として楽しめたのだが。

 

 

そうはいっても、見に行きたくなるのは、高橋一生蒼井優が出ているから。

 

結果、「B」★★★。

文句を並べると自分でも嫌になるので、一言。とにかく脚本が不出来すぎる。

これに尽きる。大仰にいろいろと並べて見せてくれるが中身がない。駄作だと思う。

以上。

 

 

 

 

『喜劇 愛妻物語』。

『百円の恋』をつくった足立紳監督の作品。

濱田岳が好演。

さらに水川あさみ夏帆がよい。

けっこう面白かったなと席を立った。中身?書くほどのものではない。でも面白い。何がテーマ?言いたいこと?そんなものはどうでもよろしい。

 

 

 

 

 

 

 

4枚目。

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『富士山噴火』『TSUNAMI 津波』そして『首都感染』

24日、久しぶりの雨。

水曜と日曜日に野菜を出す森さんちまで二人でクルマで出かける。

しかし、野菜は出ていない。この悪天候では仕方がない。手ぶらで帰ってくる。

散歩も中止だ。

予報は関東南部の平地にも5㎝ほどの雪。昼頃から薄日が差し始め、地面の雨が乾いていく。

外気温は3℃。室内は暖房を入れなければ17℃。セーター一枚でも過ごせそうだが、なんだかうすら寒い。らいはケージの中のかまくらのような犬小屋?で丸くなって寝ているばかり。

 

さて備忘録。

この冬、高嶋哲夫の小説を初めて読んだ。

 

富士山の噴火を扱った小説があると何かで読んだのがきっかけ。

 

 

港北区という横浜市の東の方に住んでいた10年前、マンションの窓から新横浜方面に富士山がよく見えた。冬になると南アルプスの雪をかぶった北岳も小さく見えた。

 

いつの間にか新横浜に富士通のビルが建ち、富士山の眺望は遮られた。

富士山の代わりに富士通。悪い冗談のようだったが、ここ瀬谷区の移り住んでからは、富士山は丹沢山塊に視界を遮られ、頂上付近だけが見える。

それはそれで悪くない眺めだし、毎日散歩に出かけるときには、マンションの入り口で眺望を確認するのが習慣になっている。

 

その富士山が噴火するのではないかという話はずいぶん前から流布している。

 

富士山は活火山であり、前の噴火から300年以上経っている。その時には宝永地震が直前に起きている。

巷間云われてきた南海トラフ地震がきっかけとなり、富士山が噴火したとすると、

ここ横浜の西部は大きな被害を受ける可能性がある。

 

とまあ、何となく、気になっている。「杞憂」以上の可能性はあるのではないか?

 

で、『富士山噴火』(2017年/集英社文庫/880円+税/単行本は21015年)を読んだ。

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小説としての味わいはないが、富士山噴火をめぐって元陸上自衛隊左官だった主人公、娘、地震学者などが繰り広げる息をつかせない展開は、とっても楽しめる娯楽小説になっている。

 

高嶋哲夫原発関連の研究者で小説を書き始めた人。94年に『メルトダウン』を発表してデビュー。以来科学的知見に基づいた地震原発津波、などをテーマにした小説を発表している。

 

続けてTSUNAMI 津波』(2008年/集英社文庫/819円+税/単行本は2015年)を読んだ。

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富士山の噴火は起きていないが、津波は2011年の東日本大震災で甚大な被害を生んだ。

小説は東海大地震によって引き起こされる津波を克明に予想し、小説に仕立てている。

名古屋に建てられ完成披露を待つばかりの超高層ビル原発の職員、自衛隊員、政治家等々の対応は迫力がある。

とはいえ、こちらも上手に娯楽小説としての形が出来上がっている。

 

いわばテレビや映画を見ている感じ。面倒な感情移入が必要な人物は出てこないから、わかりやすい分だけ、味わいというか深みはない。

 

3冊目。パンデミック小説。

『首都感染』(2013年/講談社文庫/950円+税/単行本は2010年)

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これが3冊の中では一番面白かった。

これは武漢のロックダウン以上のレベルでの完全な都心封鎖を描いている。

 

中国で発生した強毒性のインフルエンザがサッカーワールドカップの開催によって世界中にばらまかれる。

 

新型コロナウイルスとは似て非なるものだが、その広がり具合は共通するものがある。

WHOにいたドクターとその父親の首相、そして厚労大臣によって都心の一部を完全に封鎖しワクチンができるまでウイルスを閉じ込める。官邸も例外ではない。みな閉じ込められ一切外には出られないし、外からも入れない状況がつくられる。

 

結果的には30万人を犠牲にして日本が救われるという結果となるのだが、これはかなり思い切った判断。

小説の構造は前作2作と似ているが、これが一番迫力を感じた。

ただ、官邸は政治家、官僚すべて完全にロックダウンされるが、皇居については一切触れていないのが画竜点睛を欠いていると言えないか。天皇制の問題を棚に上げての首都封鎖論は片手落ちである。

それと残念なのは、世論やマスコミの動きがやや単純化されて戯画化されていると思えたこと。

映画の手法同様、一定の登場人物群を中心に描いているから、群像としての民衆のイメージが薄っぺらい感じがするのだ。

 

小説としてはこの3冊でもういいかなとは思うが、それでも原発地震、噴火、津波、感染を正面から描こうとする作家は貴重だと思う。かつて『日本沈没』を書いた小松左京のような作家もいた。起きてからのことを書く人はたくさんいるが、起きる前に書くのは膨大な知見と想像力がなければかけない。それはそれで大変なことだ。人間を描く濃度のようなものが薄くなるのはそのせいかもしれない。

 

 

”森麻季&日本を代表する名手によるニューイヤーコンサート” 1月16日 フィリアホール

このブログ、備忘録のつもりなのに、書くこと自体を忘れる。

取り立てて面白いことなど起きない私の日常だが、それでも忘れないようにと思うことはいくつかある。

しかし、見た映画も読んだ本も、着目点や考えたことならいざ知らず、あらすじや内容

すら数日経てばどんな映画だったけ?そんな本読んだか?という始末。

だから備忘録、なのだが。

忘れる前に、思考のかけら、記憶の断片くらい書いておかないと「なにもなかったこと」になってしまうのは、少しこわい。

 

先週の土曜日、16日。フィリアホール

森麻季&日本を代表する名手によるニューイヤーコンサート

があった。

 

チケットを買ったのは11月。1月に緊急事態宣言が出るとは主催者も考えておらず、人気のある森麻季だけに一席ずつ空けて売るということなど想定していなかったようだ。私がネットにアクセスしたときには、空いていたのは前から12列の1,2番。端っこの座席。それでもS席。いまやどのホールでも半数以上はS席のように思うほどだから致し方ない。しかしホールが小さいからそんな席でもステージには結構近い。「いいんじゃない」ということで購入。

 

3日前にフィリアホールから手紙が来る。

 

本公演は「…日本政府の緊急事態宣言発出に伴って1月8日に改定された横浜市発出『横浜市文化施設における新型コロナウイルス感染症対策ガイドライン』に基づき、開催可否及び開催形態を検討した結果、予定通りの内容にて、開催を行うことを決定いたしました。」

なんだかずいぶん重々しい。それで隣の席に他の客が来ることを了承せよ、という。

そして、購入者、あるいはその家族以外が本公演に来場する場合は、「来場者情報申請用紙」に氏名と連絡先、座席番号を記入して提出せよとのこと。私たちは該当しないが。

 

その他、お客様へのお願いがA4用紙一枚にびっしり。

 

マスクはもちろんもぎりは自分で、プログラムは自分で手にとり、休憩時間中の近距離での会話は禁止。

Mさんによると、近くの座席の人がフェイスシールドをつけた係員におしゃべりを注意されていたとのこと。休憩時間に。

 

そんな少しぎすぎすした会場の空気は、森麻季がステージに現れた瞬間、誇張ではなく消えた。いや、消えたというより全く別の空気が流れだした。

 

満面の笑みを浮かべて登場した森麻季。身にまとっているのはあでやかなドレスだけではない。その場を一瞬で変えてしまう、ほど良いオーラ、押しつけがましくない自然な立ち居振る舞いに引き付けられた。テレビでは一度も感じなかったものだ。私の知っている、というより私の森麻季の印象とは違う。

 

伴奏は山岸茂人。森がテレビやコンサートで歌うとき、伴奏はこの人。CDも。

 

第1ヴァイオリンは元N響第一ヴァイオリン次席、第2ヴァイオリン首席を務めた永峰高志。

第2ヴァイオリンはN響次席の森田昌弘、ヴィオラN響の小野聡、チェロがN響の村井将、コントラバスN響首席代行の市川雅典。

 

すべてN響か元N響メンバー。

 

音楽の世界も、相撲の番付とは違うが、序列というか席次というのが珍重される世界のようだ。

 

横道にそれてみる。

 

調べてみると、N響にはヴァイオリンだけでも、上から

第1コンサートマスター

コンサートマスター

ゲストコンサートマスター2名

この人たちはヴァイオリンだけでなくオケ全体のリーダー。コンサートはこの4人うちだれかが指揮者の左下、最前列に坐る。篠崎史紀さんを見ることが多いが、彼が第1コンサートマスター

 

第1ヴァイオリンは次席奏者が4人、次席代行奏者が1人。第2ヴァイオリンには首席奏者が1人いて、首席代行が1人、次席が3人。首席客演奏者という外部の人もいるようだ。

 

一(いち)ヴァイオリン奏者から見れば、第一コンサートマスターは指揮者は別として同業者の中では雲の上の人かな。

日本のトップレベルのN響のメンバーになるのも大変なことなのだろうけれど。

 

弦楽器はそれぞれ序列がはっきりしているが、楽器が変わるとこの構造も少し違う。

例えばファゴットは5人のうち2人が首席。ティンパニは2人しかいないが2人とも首席。ティンパニと区別される打楽器の3人に序列なし。印がついていない。

 財団年数や経験が勘案されての役付き。給料もこれで違ってくるのだろう。

 

指揮者の場合は序列というより名誉職という感じか。

私は、現在のN響の指揮者はパーヴォ・ヤルヴィだと思っていたのだが、この人は首席指揮者でほかに正指揮者という人が二人いる。尾高忠明外山雄三のお二人。

そのほか(なんて言っちゃいけなのか?)名誉音楽監督シャルル・デュトワ

桂冠名誉指揮者があの高齢だが渋く端正な指揮をするヘルベルト・ブロムシュテット、桂冠指揮者という人もいる。私にはどちらかというピアニストという印象があるのだが、これがウラディミール・アシュケナージ

 

音楽の世界、音楽性や演奏技術も含めてもみな序列化されているのだ。

一生ヒラでいい、なんていう人は「へたくそだから」なんて言われてしまうのかもしれない。

 

どうでもいい話が長くなった。横道終了。

 

第1ステージ。幕開けはモーツアルト2曲

①モテット「踊れ、喜べ、幸いなる魂よ」K.165

モーツアルト16歳の時の曲。高校生か。

ピアノ伴奏。森の声は、テレビで聴いていた声よりはるかにやわらかく澄んでいて軽い。びっくりした。これはすごい。コロラトゥーラなんて聴いたことないくらい。これ、私の歌ですという感じ。全部自分のもの。響きが心地よい。

 

②弦楽5重奏。アイネ・クライネ・ナハトムジークK. 525 第一楽章。

さすがに名手たち。最初の音だけにびっくり。たった5つの弦楽器とは思えないふくよかでやわらかい音。コントラバスの音が気持ちよく響く。5つの楽器がそれぞれ際立って、そして渾然一体となって聴こえてくる。

 

③今度は弦楽五重奏とピアノが伴奏。グノー「ファウスト」から”宝石の歌”。

これも明るくダンスを踊るように。声がぶれることなく、コントロールされている。

からだ全体が楽器。歌っているという一体感を超えて、森自身がより特別な楽器を緻密に大胆に演奏しているイメージが浮かぶ。少し興奮状態。

 

④一息入れましょう、ということで、ピアノの山岸によるドビュッシー「ベルガマスク組曲」から”月光”。

遅いテンポで、澄明な月の光を模す独特の印象派風の音の連なり。

第一ステージの最後は、またピアノと弦楽五重奏でシャルパンティエ歌劇「ルイーズ」から”その日から”。

何とも言えない華やかさ、あでやかさ。伴奏者を紹介するにしても、話し方も自然。わざとらしさがない。正直、テレビで見る森の印象はあまりよくなかったのだが、前半30分で宗旨替え。ファンになってしまった。

 

言葉を尽くすにしても、表現力が乏しいため「すごい」「すばらしい」「うまい」「いい」の繰り返しになるので、後半はプログラムだけ書いておこう。

 

弦楽五重奏とピアノで、ヨハンシュトラウス二世 ワルツ「南国のばら」

 

続いて森が入って、喜歌劇「こうもり」から“公爵様、あなたのようなお方は”

 

弦楽五重奏でクライスラーの愛の悲しみ、愛の喜び。

 

レハールの喜歌劇「メリー・ウイドウ」から”ヴィリアの歌”

 

再びヨハンシュトラウス二世で”美しく青きドナウ”。

最後に大曲?”ワルツの声”。

 

アンコールは、日本の歌。

山田耕筰の「からたちの花」と「花は咲く」。

 

「からたちの花」にやられた。涙腺を激しく刺激する解釈と声。すごい。

最後はみんなで森が拍手を引っ張っての「ラデツキー行進曲」。大盛り上がりで、幕。

 

声、歌う姿、表現力、挙措、どれひとつとっても第一級品。なるほど一流というのはこういうものかと納得させられたコンサート。

 

 

森の演奏はyoutubeでたくさん聴くことができる。

5月に自分で録画してアップしたものもある。ヘンデルの”涙流れるままに”。

チェンバロを弾きながら歌うのだが、後ろには寝転がっている4,5歳の子どもが映っている。

 

 

それともう一つ。啄木の「初恋」(越谷喜之助作曲)。いくつもあるが、2016年のものがすごくいいと思った。

 

 

 

 

 

 

 

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いただいた三枚目のカワセミの写真 親子かそれともつがいか。


 

 

一度だけでいい、4DXスクリーン『新感染半島 ファイナル・ステージ』4DXスクリーン 一人2600円(シルバー料金)を見てきた。

緊急事態宣言下、今まで2つの映画館で3本の映画を見た。

 

どちらも客数は極端に少なく、座席は一つ置き。そしておしゃべり、食事、飲酒禁止にマスクは義務?

 

昨日、夕方、野暮用で家に入れない時間があり、グランベリーシネマへ。

 

『新感染半島 ファイナル・ステージ』(2020年/116分/韓国/原題:/監督:ヨン・サンホ/出演:カン・ドンウォン イ・ジョンヒン/1月1日日本公開)

 

前作『新感染 ファイナル・エクスプレス』がとっても面白かったので、この冬、これは見逃せないと思っていた。

 

いつもは自宅からネット予約をするのだが、今日は上映直前にチケット購入。

 

面倒なので窓口へ。

「新感染半島…」

といつものように不愛想につぶやくと

窓口の女性、一瞬「え?」という表情を見せたのを私は見逃さなかった。

 

こんなオヤジが、「新感染半島」、つまりはゾンビの映画を見てはいけないのか。

いまや新型コロナウイルスが変異株も含めて跳梁している時期だぞ、こういう映画、しっかり見るのがオヤジの一途なところ。わけのわからないことを考えたのだが、すぐに勘違いに気付いた。

 

「この回の上映は、4Dスクリーンですが、よろしいですか?」

 

よくわからないが、望むところだ。メガネをかけてみるやつだろう、どうせ。

 

違うらしい。

 

「シルバーの方ですね。おひとり様で2600円になります」

 

なんだこの値段は。シルバー料金は1200円。二人分より高い。

 

女性の手元を見ると「シルバー2200円という数字が見える。

 

「2200円じゃないの?」

 

「こちらは4DXの料金です。今回の上映は4DXスクリーンと言って、3方向に画面が映し出されますので」

 

馬ではないが、足が見えてしまった。

 

よくよく見てみると、シルバー料金は

 

 単なる字幕  1200円

 I MAX     1800円

 4DX    2200円

 4DXスクリーン2600円

だそうだ。ちなむに「一般」の4DXスクリーンの料金は3300円。

 

会員カードはもっているかと訊かれ、持っているがいつもネット予約だから今はない、と答えると、そうですか、でおわり。ポイントはつかないらしい。

 

字幕だけでいいのになあ、と思いながらスクリーン8番へ。

そのまま入ろうとしたら、

「お荷物はロッカーに預けてください」

 

8番の入り口に小さなロッカーがずらっと並んでいる。たぶん、72個あるのだろう。

 

手ぶらでDの12番へ。椅子がいかついというかゴツい。シートベルトは・・・・ない。

 

先客は若い男性一人。

 

予告が終わったところで若い女性が二人入ってくる。

 

始まった。

初めは4DXスクリーンのプロモーション用動画。

ちょっとびっくり。迫力?というのだろうか。確かに。

 

以後116分。

 

半分とは言わないが三分の一くらいはカーチェイスの映画。

ゾンビの数は恐ろしく多い。

 

前作の4年後、すでに韓国は国家としての体をなさず、「半島」Peninsula と呼ばれている。半島には遺棄されたお金が眠っており、それを取ってくるのが主人公の任務。「半島」には脱出できず、家族で武装してゾンビと戦っている祖父と親子3人。主人公とこの家族が、お金を奪ってインチョン港まで逃げるまでを描く。

 

クルマが走るとそれに合わせて座席が激しく振動する。クルマが左に急ハンドルを切ると座席も左にぐわっと傾く。

 

銃弾が耳の横をかすめると、どこからかプシュッと風が耳にかかる。

ゾンビが水の中を走ってこっちに迫ってくると、顔に水がかかる。

 

スローモーションになると、椅子はスローに動く。

ヘリコプターが舞い降りてくるとスクリーンのほうから風が吹きつける。

 

場内を見ると、4人以外の座席もみな同時に同じように動いている。当たり前だけど。

 

これが満員だったりすれば、歓声があちこちから上がって盛り上がるのだろうが、私を含めて4人は誰一人声を出さない。

ひたすらマスクをしながら息や水を吹きかけられ、椅子ごとひっきりなしに動かされる。

 

体験型シネマとでもいうのだろうか。

 

とにかく落ち着かない。

「また来るぞぉーほうら来たぁ!」

という感じ。映画を楽しむというよりも、あんまり怖くない富士急ハイランドのアトラクションという感じ。

 

そろそろ風が吹くころだな、水くるぞ、なんて考えているうちに映画は終わる。

 

映画、愉しんだ?

 

いいえ。 

 

 

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2枚目…いや二枚目のカワセミ

 

1月某日、弱い北風が吹き、少し寒い。おしゃべりは散歩の醍醐味?イソヒヨドリにカワセミの写真。そして笑う布袋様。

今朝の散歩はことのほか寒かった。

北風が少しでも吹くと、体感温度はぐっと下がる。

 

ここ最近、イソヒヨドリをよく見かける。

 

昔からこの鳥をよく知っているような言い方だが、実は数日前に初めて耳にした名前。

 

米寿を迎えた同じマンションの別棟に住むAさん。境川河畔ですれ違った時に

「このあいだの、あれね、あれはイソヒヨドリでした。なんかぼく違ったように云ったかもしれない」

 

2,3日前、望遠レンズのついたカメラのファインダーを見せてくれたAさん。

 

背中が青い鳥を見せてくれた。

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写真はネットから拝借しました

カワセミよりずっと大きく、ころっと少し太っている。

ヒヨドリと名がついているが、ヒヨドリ科ではなく、ヒタキ科の鳥だとのこと。

 

ファインダーをのぞいた次の日、写真よりずっと色のくすんだイソヒヨドリ発見。

「あんまり、きれいじゃないね」

 

そして今日、フェンスにとまっている色鮮やかなイソヒヨドリを発見。2メートルまで近づいたが、素知らぬ顔をしている。

 

体長は20㎝ほど。背中が青く、腹が褐色。

 

帰り道。お名前は知らないが、これまたかなり長い望遠レンズのついたカメラをもった顔見知りのおじさんに会う。さっきイソヒヨドリを見ましたよと、まるで昔から知っているかのように云うと、

 

「ああ、最近よく見るね。色のきれいなのは雄なんだよね。メスは全然きれいじゃない」

 

さすが、この方、何でもよく知っている。昨日、今日の私たちとは年季の入り方が違う。

少ない知識を総動員して話しを合わせている私たち。

おじさん、急に何か思い出したようにカメラバッグをごそごそと探っている。

 

「そうそう、これあげる」

 

写真。それもカワセミの。4枚も。

 

「いいんですか」

「ああ」

 

自信作とお見受けした。

これはブログで紹介するしかない。もったいないので、出し惜しみしながら1枚ずつということに。

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いただいた写真1枚目。ボールに乗っているカワセミの写真。超レアである。

 

今日はもうおひとり、おじさんとおしゃべりをした。

 

私たちは1時間強の散歩の途中、2度1,2分休憩する。あったかいお茶を飲むのである。

 

その二度目の休憩場所のベンチに、これも顔見知りのおじさんが坐っていた。いつもは挨拶だけなのだが、今日はポケットから手帳が出てきた。

 

このかた、自転車の後部座席のかごを掴んで押しながら散歩している。

何の苦もなく自転車を押しているのだが、どう見てもそんな恰好で自転車を押せば、ハンドルが右に左に回ってしまってまっすぐ前に進むのは至難のわざ。

 

いつも、「あのおじさん、すごいねえ、器用だねえ」と話していたので、

「自転車押すのってむずかしいですよね」と声をかける。

 

笑いながら、

「慣れれば何とかなる。あんまり遅いと前に進まないから、いい運動になるんですよ」

 

「それより、あなたたちは毎日いつも二人でよく頑張っているねえ」

褒められた。手はその時、するっと胸元から出てきた。

 

「実はこれね、僕が彫ったの。50過ぎくらいにね」

 

布袋さんの赤く塗られた木像の写真。大笑いしている布袋さんが扇を振っている。

精密なだけでなく、ゆったりした布袋さんの顔は、目の前のおじさんにそっくりだ。

聴けば大きさは30㎝。素材はケヤキケヤキは鑿を入れる向きを間違うと割れてしまうデリケートな素材なのだとか。

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これはネット上のもの。関さんの布袋はこれよりずっと精巧、そして豪放磊落。

手帳には関さんという名前が。

関さんはかつて埼玉で料理人をやっていたのだとか。お見受けするところ、70代も後半だろうか。

 

古道具屋で木像を掘るのみを買い求めに行ったところ、少し割れた超高級砥石を持ち込んだ人がいたのだとか。時価200万円ぐらいするそうだが、傷ありということで4000円で手に入れた。その砥石を使ってのみを研ぎ、この木像を彫り上げたのだそうだ。

 

話はなかなか途切れない。

さっき、鶴間公園内のトイレに寄ってきてよかった。そうでなければ危ないところ。

 

関さんのお話は、明るい。押しつけがましくない。時々奥さんが登場する。穏やかな性格が伝わってくる。でも、少し長い。

 

こういうおしゃべり、散歩の醍醐味。でも私一人だとまず話しかけられることはない。

 

Mさんは、割合だれかれとなく気軽に挨拶をする。本人は

「そんなことないよ。ちゃんと私だって・・・」というが、そのせいもあるのだろう。

いかつい不愛想な前期高齢者より、にこにことあいさつをしてくれる女性の前期高齢者のほうが話しやすいことは間違いない。

 

 

 

 

 

ああ、きょうは映画の話を書こうと思っていたのに。