ヒロシマ・旧陸軍被服支廠保存問題、パブコメ2200通余り。総務委員会開かれるも・・・。

ヒロシマ・旧陸軍被服支廠保存問題、1月16日に県のパブリックコメントが締め切られました。総数は2232通だそうで、今までにない数字とのこと。

この速報値に基づいて1月17日県議会総務委員会が開催、その内容を保存キャンペーン事務局の方が議事録をまとめてくれた。大変な作業だったと思う。

 

https://note.com/hiroshima_0806/n/n825c77692264

 

これを読むと、ああ、こういうレベルの議論なんだなというのがよく分かる。

 

これほど反響があったことに議員たちも驚いていて、しまいに「いったい何のためのパブコメだったのか、設問がおかしい」などと言い出す始末。

 

これじゃ来年度予算に間に合わないだろう、こんなことをするからまためんどうなことになった、という空気。

 

ようするに、ここまできてまたまた「そもそも論」。

 

もしかしてパブコメをやるかどうかについては、行政の方の単独の判断だったということか。

 

2棟取り壊し案を支持する議員からすれば「よけいなことをしくれちゃって」。

 

行政の方は、「やっては見たけど、さてこの結果をどうやってどこへもっていくか」と

困っている感じ。

 

大げさな言い方かもしれないが、パンドラの箱を開けてしまい、いろいろ妖怪変化?が出てきてしまい、整理がつかなくなったということか。

 

行政と議員と・・・分かったが、首長はどう思っているのか。

これはもう通常案件とは言い難い問題になっているのではないか。

市、国との関係も含めて知事が政治判断を迫られているように、私には見えるのだが。

 

 

竹内良男さん主宰『ヒロシマ講座』第95回 小村公次さん「戦没作曲家・音楽学生の残した音楽」の②

長野県・上田市無言館という美術館がある。戦没画学生の絵を集めた美術館で1997年に開館した。

 

ここは、いつ訪れても、独特の静かな空気が流れている。他のあまたの美術館とは全く違ったたたずまい、時間が止まっているという感覚。

 

音楽の無言館と言ったらおかしな言い方だが、戦没音楽学生の資料を集めた「戦時音楽学生Webアーカイブズ『声聴館』」があることを、今回初めて知った。

 

https://archives.geidai.ac.jp/seichokan/

 

小村公次さんの講演は、この声聴館に所蔵されている東京音楽学校を経て召集され、戦地でなくなった4人の学生をめぐるものが中心だったのだが、前半では「1近代日本における西洋音楽輸入から作曲の誕生まで」として、18世後半の日本の音楽事情、とりわけ洋楽が輸入される前の近世邦楽一辺倒の日本社会に、軍楽隊、軍歌の軍隊と唱歌を中心とする学校教育によって洋楽が普及、一般化していった状況が語られた。

 

当時の人々にとって洋楽がどれほどなじめないものだったか。みんなで歌うという行為も、足をそろえて行進するという行為も、それまでの日本人は、たぶん誰も経験したことのないことだったのだろう。

 

軍隊と学校が近代化のための装置であったことは音楽においても言えること。と同時に音楽のみならずさまざまな文化を吸収する中で、人間とか個人といった概念がひろまり、いわゆる近代的自我の目覚めが、みずからさまざまな想念を表現するという行為、作曲に結び付き、作曲家という存在を生み出していく。その草創期に位置するのが東京音楽学校(現東京芸大)創立後の滝廉太郎であり山田耕筰だ。そして戦争とは切っても切れない作曲家である信時潔や橋本国彦がいる。

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橋本國彦

 

小村さんは、こうした官製の音楽に対して「3在野の作曲家たち」として、諸井三郎の楽団スルヤの諸井三郎、未来音楽(無調などの現代音楽志向)の石川儀一、伊藤昇、そしてプロレタリア音楽運動の原太郎、吉田孝子、守田正義を紹介する。

ここで興味深かったのは、守田正義の「里子に出されたおけい」(1930年)という歌。

民衆の暮らしに初めてスポットをあてた曲を実際に聴いたが、これが面白かった。

それとプロレタリア音楽同盟(PM1930年)の一員として最後まで転向しなかった吉田孝子の音楽性の高さに驚いた。46歳で亡くなっている。

 

同じ時期に「新興作曲家聯盟」が結成される。この中に清瀬保二や斎藤秀雄、橋本國彦などがいる。その一人山本直忠は、有島武郎の妹、愛の三男、「大きいことはいいことだ」のコマーシャルで知られる山本直純の父親である。斎藤秀雄小沢征爾の師匠。

この中で橋本國彦だけが東京音楽学校出身というのも面白い。

 

このころ(1934年)、札幌で「新音楽連盟」を結成したのが、伊福部昭早坂文雄三浦淳史。伊福部の実力はこのころから群を抜いていたことは、3管編成(木管楽器がそれぞれ3本ずつだからオケとしてはかなり大きな編成)の「日本狂詩曲」(1935年)という曲がパリで評判になったことからもよくわかる。のちにゴジラの音楽を書くのがこの伊福部である。

 

こうした近代国家の歩みとともに日本でも西洋音楽が広がっていくが、日本の近代、19世紀から20世紀ははまさに戦争の世紀。音楽も戦争と切っても切れぬ関係を保っていく。

 

私が興味深く聴いたのは、若くして(1933年というから28歳か)東京音楽学校の教授となった橋本國彦のことである。

欧州留学を経て1937年に日本に戻った橋本は、まさに「官」の立場から、戦意高揚の音楽づくりにまい進することになる。

終戦までに橋本は「日本青年の歌」交声曲「英霊賛歌」「勝ち抜く僕等少国民」など夥しい数の曲をつくる。

小村さんは、「勝ち抜く僕等少国民」と1928年に作曲された「お菓子と娘」を聴かせてくれた。

「お菓子と娘」は、西城八十の作詞。「お菓子の好きな巴里娘/ふたりそろえばいそいそと/角の菓子屋へボンジュール」で始まるなんとも明るい歌。最近では、カウンターテナーの藤木大地がこの曲をファーストアルバムに収録している。とっても音楽的な素敵な曲だ。

「勝ち抜く僕等少国民」のほうは、次のような歌詞。

1.
勝ちぬく僕等少国民
天皇陛下の御為に
死ねと教へた父母の
赤い血潮を受けついで
心に決死の白襷
かけて勇んで突撃だ

2.
必勝祈願の朝詣
八幡さまの神前で
木刀振って真剣に
敵を百千斬り斃す
ちからをつけて見せますと
今朝も祈りをこめて来た

3.
僕等の身体に込めてある
弾は肉弾大和魂
不沈を誇る敵艦も
一発必中体当たり
見事轟沈させて見る
飛行機位は何のその

4.
今日増産の帰り道
みんなで摘んだ花束を
英霊室に供へたら
次は君等だわかったか
しっかりやれよたのんだと
胸にひびいた神の声

5.
後に続くよ僕達が
君は海軍予科練
僕は陸軍若鷲に
やがて大空飛び越えて
敵の本土の空高く
日の丸の旗立てるのだ

 

曲調は短調で悲壮な感じを受ける。子どもたちがどんな気持ちでこの歌を歌い、聞いたかを考えると暗澹たる気持ちになる。

橋本自身はどうだったろう。あふれる才能の開花の時期を戦時に迎え、「官」の一員として戦意高揚の一翼を担わざるをえない。

今回、いくつか橋本の曲を聴いたが、どれも音楽的には優れていると思う。しかし優れているということは、それだけ戦意高揚にしっかりと結びつくということだ。

 

橋本は、ヨーロッパにいる時、弟子の吉田孝子に対し「思い切って良いものをお書きください。それは何より、自分の芸術的良心を満足さすことができるでしょう。たとえ当日の演奏が失敗でも」(1935年)と書いた。吉田はその教えに従ってPMの中で才能を開花させていく。

橋本はまた、戦後の病床で弟子の武田喜久子に対し「私は気がすすまないものを時には書かねばならなかった。でもそれは演奏のように消えることがない。いつも自分の良心で書くように」と指導したという。

 

同じような道を歩んだ作曲に信時潔がいる。「海行かば」の作曲者だ。私は学生時代、信時の曲を演奏したことがあって、その来歴を調べたことがあった。

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没後50年記念演奏会のポスター

 

信時もまた優れた才能を戦意高揚に使わざるを得なかった作曲家だった。

 

信時はチェロ専攻で1905年に東京音楽学校に入学。1915年に助教授となっている。1920年から1922年、橋本同様文部省在外研究員としてヨーロッパに滞在。1932年まで教授を務める。その後講師に。

 

これもまた小村さんに名曲と言われる歌曲集『沙羅』(1936年)を聴かせていただいた。

すばらしい曲である。

 

次の年1937年にNHKからの委嘱で作曲したのが、『海ゆかば』だ。それまでも宮内省の東儀李芳が作曲した「海行かば」があったが、音楽的なレベルでは雲泥の差がある。

文部省と大政翼賛会が準国歌と定めた曲である。

 

この曲の荘厳さは類を見ない。当時、君が代に続けて歌われたという。

戦局が厳しくなってからは、勝利の時は「軍艦マーチ」、玉砕などの時はこの曲が流された。

 

信時は、「海道東征」「二千六百年頌歌」ほか国民歌謡と言われるものを多数つくっている。

溢れる才能を、彼もやはり戦意高揚に捧げたのだった。

 

私は、どうも思い違いをしてきたようだ。

信時は、橋本同様、戦意高揚に協力したという反省から戦後、筆を折ったというふうに考えていたのだが、調べてみると1947年に日本国憲法施行を記念して国民歌「われらが日本」(土岐善麿作詞)を作曲している。

 

you tube で聴いてみた。

 

才能というのは恐ろしいもの。信時は戦中の戦意高揚の荘厳さとは全く違う、まるで小学校の校歌のような明るい曲調でこの曲を書いている。自由自在、融通無碍、ほとばしる才能は時代に我が身を合わせる術まで含んでいるものか。

 

 

戦後、音楽に罪はない、あれは利用されただけ、「海ゆかば」は鎮魂曲、などさまざまな言説が流布されてきた。

文学と違って、音楽や美術は端的に戦意高揚をあおるものではない。聴きようによっては、見ようによっては全く逆のものととることができる。

 

藤田嗣治の「アッツ島玉砕」にしても、絵から受ける印象から、「これで戦意が高揚するか?」といった疑問が呈されることがある。

 

しかし、音楽も美術も歴史と無関係に存在するものではない。

 

どんな時にどんなふうにそれが利用されたか、そのことを抜きに音楽性や芸術性を云々しても仕方ないだろう。

 

音楽も美術も為政者にとって宣伝工作のひとつにすぎない。それらは時には文学よりもはるかに人々の心を揺るがせ、一つの方向に導いていく。

 

 

芸術性の高さは、宣伝工作の高度さに直結するということだ。

 

時間が経って、さまざまな言説によって違った位置づけがなされようと、その時代においてつくられたもの、その時代に歌われ鑑賞されたもの、という事実は揺るがない。

 

生きていくためには仕方がなかったという芸術家たちの「言い分」はわからないではない。橋本のように良心から悔いを語ることはあっても、しかし自分の創作物が人々をどこに赴かせたかは忘れてはならないと思う。その意味で、信時のあまりにあざとい転向については忘れてはならないと思う。

 

信時は、「われらが日本」を発表した4年後、平和条約発効ならびに憲法施行5周年記念式式典歌として「日本のあさあけ」(詩:斎藤茂吉)を発表。1964年には 勲三等旭日中綬章受章。

 

戦争協力詩を書いた高村光太郎は、戦後岩手で7年間、独居自炊の生活を送った。

藤田嗣治は、戦争協力者の批判に耐えかね、パリに逃げた。

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藤田嗣治アッツ島玉砕」

 

 

楽家のみならず芸術家の戦争責任という問題は、戦後75年となる今も、まだ済んでいないのではないか。

 

 

本題の戦没学生の話はこの次に。

 

 

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高村光太郎

 

*音源はすべてyoutubeからお借りしました。

 

 

 

 

竹内良男さん主宰「ヒロシマ連続講座」第95回「戦没作曲家・音楽学生の残した音楽」 の① 

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講演をする小村公次さん(写真がへたくそですみません)


18日(土)。前日から明け方雪になるとの予報。

4時にカーテンを開けてみるが、雨が降っているだけ。

 

東京・駒込で2016年からヒロシマ講座を続けている竹内良男さんに「本日の講座に参加を希望します」とメール。この講座は予約制。

 

竹内さんとはつい最近やりとりをするようになった。

 

竹内さんは埼玉の高校の教員。ヒロシマ修学旅行をきっかけに80年代からヒロシマに足を運ぶようになり、退職後も「被爆地から遠のくほど人々の意識も薄れる」と考え、東京で連続講座を始める。

 

2016年からの講師のラインアップはすごい。今までに100人以上の講師を呼び続けてきた。信じられないバイタリティーだ。

講師陣はちょっと拾い出して見ても(失礼)堀川惠子さん(作家)関千恵子さん(ジャーナリスト)高橋武智さん(わだつみの会)瀬口春義さん(東京新聞)岡村幸宣さん(丸木美術館)アーサーー・ビナード(作家)小出裕章さん(京大)市田真理さん(第五福竜丸秋葉忠利さん(元広島市長)居森公照さん(居森清子さんのお連れ合い)等々。

関心のある方たちなら垂涎の?方々たちが並んでいる。

 

こうした講座を月に2度、時には3度も開催して5年目に。

 

今月は、今回(第95回)の小村公次さん(音楽評論家)の「戦没作曲・音楽学生の残した音楽」と次回25日(第96回)は藤井哲伸さんの「あの日の母との邂逅…被爆3日目の少女を追って」の2回。

 

それに加えて特別企画として「広島・旧陸軍被服支廠の保存を考える」として3回の特別講座を構える。

 

1月19日(日) 永田浩三さん(武蔵大学

        旧陸軍被服支廠保全を願う懇談会)

1月26日(日) 栗原俊雄さん(毎日新聞

        東海林次男さん(東京都歴史教育者協議会会長)

2月11日(日) 十菱駿武さん(戦争遺跡保存全国ネットワーク代表)

        柴田優呼さん(アカデミックジャーナリスト)

        広島からの報告

ここに2月分の連続講座

2月1日 (土) 田中正敬さん

       (専修大学関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会事務局長)

       「過去を否定し正当化する言説とその特徴」

2月19日(土) 辻野弥生さん(『福田村事件』の著者)『「福田村事件」を歩く」』

 

が入る。

これだけ見ても、刮目すべきスケジュールとその内容。

世の中にはすごい人がいるものだと驚いている。

 

もともと私は今日の永田浩三さんのお話を聞くべく、竹内さんに連絡をしたのだが、

どうしても19日は家にいなくてはならない用事が出来てしまい、せっかくのご縁だからと駒込まで出かけることにしたのだった。

 

明け方に降るはずだった雪は、午前中10時ごろからみぞれとなり、12時のバスに乗るため3,4分の道のりを歩く間にコートを白くするほどの雪となった。

                       (以下次回)

 

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『パラサイト 半地下の家族』(2019年/132分/PG12/韓国/原題:Parasite/監督 ポン・ジュノ/主演ソン・ガンホ) 行間からにじみ出てくるものが薄く「かき乱される感じ」がなかった。

  1月13日、グランベリー109シネマで

『パラサイト 半地下の家族』(2019年/132分/PG12/韓国/原題:Parasite/監督

ポン・ジュノ/主演ソン・ガンホをみた。

 

韓国映画が好きでよくみるが、これもその一つ。132分と長いが、飽きずに最後までみた。

「半地下」という韓国独得のすまいと、それとは対極的な丘の上に立つお金持ちにパラサイトする二つの家族…。期待をしてみにいったのだが。

 

韓国の格差社会?ちょっと違う気がしたこと、どうして随所にあるべきはずの葛藤がないんだ?と思ったこと、いくつかの布石を無理すじの「殺人」シーンで終わらせてしまったのが雑に見えたこと、ソンガンホの家族の紐帯というかつながり方がよくわからないこと、臭いについてのシーンが印象的なのに、深まりがないこと…。二つの家族のつながりがよく見えなかったこと・・・。絵的には(若者風だけど)いいなと思うところがあちこちにあった。

 

ラジオ、テレビ、ネットでは、この映画、絶賛の嵐。映画.COMが4.2と高得点。フィルマークス映画も4.2。Yahoo映画でも4.1。

カンヌ映画祭パルムドール賞、アメリアカデミー賞6部門にノミネート、というが、それほどの映画だろうか。

 

私だけどうしてこんなにずれてしまうのかと思うほどに、評価がずれる。レビューで「おもしろい」と書かれているところがあまり面白くないのだ。もっと面白い韓国映画はいくつもあるだろうに、などとつい毒づきたくなってしまう。

 

結局のところ、ポン・ジュノという監督の「文体」が肌に合わないのだなとというところに行きつく。

つくりものっぽさが強く、なんだか妙に仕掛けにはめられてしまう感じ、狙ったところに落とし込まれている感じがした。 

 行間からにじみ出てくるものが薄く、私が思ういい映画の条件「かき乱される感じ」がなかった。

 

 

ほとんどが絶賛評の中で、やや疑問を呈していて共感できるものがあった。一部抜粋する。

 

『 ・・・私の見落としでなければ家族内での、家族間の、葛藤は描かれていない。やはりその構図への疑問や懸念は示されていないとみなすのが妥当だろう。実際、韓国では血縁家族に頼る傾向が日本より強く、映画やドラマで、子にたかる親が子から見てネガティブな存在として描かれることも少なくない。だが『パラサイト』にそのような血縁家族という制度への疑念は一切ない。そして父は単なるグータラではなく、子(とくに息子)にとっての理や知や仁の源として、リスペクトされるべき存在として描かれているように見える(まさに家父長制!)。

 要は、家族の話で「も」あるのに、そこがツルッとしすぎているというのが、筆者がもうひとつ入り込めなかった理由であるように思う。社会経済的に困難な状況は、一般的に家族の関係も複雑化させ、とくに子どもを困難に陥れる。社会経済的に困難な状況にあるが家族は仲よしという表象は、筆者にはとってどうしてもファンタジー、欺瞞に見えてしまう。いやポン・ジュノは、「救い」として家族のファンタジーを描いたのかもしれない。それは格差社会の厳しさを逆説的に示唆するものではあるが、だが一方で、韓国でも日本でも(そして世界中のどこであっても)、血縁家族への回帰が処方箋になることはないだろう。』(Yahooニュース 韓東賢 日本映画大学准教授)

 

 

 

 

44年前、1976年1月の出来事。

昨日14日、今年初めての授業。

残すところあと1回。15回ワンセットが終わる。

 

授業用のプリントを毎回つくる。内容は毎回、

 

・新聞記事や資料を読んで感想をまとめる。

・その日の授業の流れ

・今週の映画、と本

・次週の予告

 

ぐらいなものだが、冒頭、「この1週間、なにがトレンドだった?」

 

話題を募りながら、余談を繰り広げる。

 

 

授業に試験範囲も何もないから

「先生、よけいな話はいいですから、授業を進めてください!」

なんてことは云われないが、その日やろうとしていることが多いときは、よけいな話をしている余裕がなくてはしょることもある。そんな時はメモのような適当な文章を載せる。

 

読むかどうかは分からないが、44年前、つまり今の学生のこの時期、卒業前2か月の頃の話だ。

 

ふりかえってみると、なんと牧歌的な時代だったのかと思う。

 

 

 

新年あけましておめでとうございます。
どんな年明けを迎えましたか?
2020年は、皆さんにとって大きなエポックとなる年、新たな出発の年ですね。大学に残って院生となる人もいるでしょうが、多くの人は学生から社会人となる過渡期、これからの人生で何度となく過去を振り返るとき、ひとつのターニングポイントの年として記憶される、そんな年です。


私の大学卒業は、大昔の1976年。人生は不思議なめぐりあわせで決まるものだと、振り返るごとに何度も考えさせられた、そんな年でした。このころはがきが20円。電車の初乗り料金が30円。すぐに60円になりましたが…。

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 卒業間近の1月半ば、ちょうど今頃ですね。バイトにもいかず、部屋でごろごろしていた私のところに、アパートの大家さん、なかなか気の強いおばあさんでしたが「赤田さん、電話ですよ」と息を弾ませながらやってきました。もちろんそのころスマホなどなく、中古のクルマをもっている学生は居ても、家電をもっている学生は皆無でした。
 

 電話の相手は、横浜の中学の校長先生。私の名前を確認したあと、校長先生はおもむろに
「赤田さん、来年から私のところで働いてもらうことになりました。ついては一度お会いしたいので、明日にでもこちらに来てくれませんか」と言うのです。
 当時の横浜の教員採用のシステムは、採用試験の二次試験に合格し、健康診断を済ませて年を越すと、こうして校長先生が直接学生に連絡を取り、面接をして採用が決まるというものでした。今と違って早い人は1月半ばには赴任校まで決まっていたのです。
 

 私は福島の高校の採用試験は今で云えば思い出受験。一次で不合格。埼玉の高校の採用試験はかろうじて受かっていましたが、声がかかったのは横浜が先。というより、結局、埼玉からは連絡がなかったので、採用の声をかけてくれたのは横浜だけということになるのですが。


 私は湧き上がる嬉しさに居酒屋のバイトではありませんが、「喜んで!」と答えたものです。貧しい学生活を送ってきたので「これで毎月そこそこの給料がもらえる」ことが嬉しかったのです。子どもたちのことや教育のことなど、全く念頭にはありませんでした。

 

 ところが、当時から世間知らずというか融通が利かないというか、どんくさい性格だったもので、大した考えもなく「なるべく早く」という校長先生に「バイトの日程が入っているのですぐには行けません。来週になら行けると思います」と答えていました。

 校長先生、ちょっと言いよどんで「あ、そうですか。はい、分かりました。それでは待ってますから」と電話を切りました。
 

 その夜、同じアパートの同級生や後輩たちが祝宴を開いてくれました。それはもう思い切り呑みました。なんと言っても、これでようやく念願の就職が決定。4月から晴れて横浜の教員となれる。社会人一年生だあ・・・なんて。


 二日酔いのアタマでアパートの外のベンチでぼーっとしていた次の日の午前中10時ごろ、再び大家のおばあさんがやってきました。きのうの校長先生からですよ、という。
 

 受話器の向こうから聞こえてきた校長先生の声は昨日と同じ穏やかなものだったのですが、その内容は私の二日酔いのアタマを無残に叩きのめし、奈落の底まで落下させるものでした。


 「赤田さん、すぐに来れないということだったので、他の人の話が来てしまってね。さっき面接をして、その人に決めてしまったんですよ。悪いが昨日の話はなかったことにしてください」
 昨日、電話で、会いに行くことは約束したけれど、「採用」まで約束されたわけではない。採用という言葉は出たけれど単なる口約束。文句など云う筋合いのものではない。今朝朝一番で面接に行った人がいるのだ。なぜそれが彼であって私ではないのだ?


 悄然と電話を切ると、目の前広がっていたバラ色の教員人生は一気に雲散霧消。私は卒業式を前に、卒業後は無職の道を歩むことになってしまいました。校長先生は、電話の切り際に気の毒がって「臨任(臨時的任用職員)の仕事はいくらでもあるから横浜に出てくるといい。その時は必ず連絡してくださいね」と言ってくれました。


 曲がりなりにも卒論(ほんとうに曲がりなりにも、だ。何しろ二日徹夜して100枚の原稿用紙を埋めただけのものだった)提出し、単位も取りきっていました(かなり後輩の世話になった)。

 

そうか、臨任か、どっちにしても引っ越しだななどと考えながら、私がいちばん思い悩んでいたのは、アパートのみんなになって言えばいいだろう、ということでした。いやいやアパートのみんなこそ、どう反応していいいか分からなかったと思います。


 卒業式も終わり(出席した記憶はありません。いつものようにアパートでごろごろしていたのではないでしょうか)、そろそろ引っ越しの準備を始めなければと考えていたころ、三たび大家のおばあさんが電話の取次ぎにやってきました。なんとまたまたあの校長先生だという。


 「赤田さん、いまね、職員旅行で河口湖の近くまで来ているんだ。君、もし時間があるならそっちに行ってもいいだろうか」


 横浜の校長先生が、会ったこともない学生のアパートに来るというのです。もちろん二つ返事。お待ちしていますと電話を切って1時間後ぐらい経ったころ、白髪をきれいに撫で上げた上品そうな初老の校長先生が、貧相な学生アパートのドアを叩きました。
 

 ほんの30分ぐらい、いろいろな話をしました。本とステレオ、わずかなレコード以外は何もない部屋に、いつもは見かけないきれいな座布団やお茶の道具がありました。話を聞いた後輩たちが、部屋を整えてくれていたのでした。赤田さん、こんな本まずいんじゃないの?といろいろな本もちゃんと隠してくれました。

 

 

校長先生は腰を上げながら、


「赤田さん、前にも言ったけれど、ぜひ横浜に出て来なさい。仕事は何とでもなるから」


ありがたいなあと思いながら、どうしてこんなことに?という思いがアタマを離れませんでした。だって、横浜の校長先生がわざわざ、どこの馬の骨とも知らない学生を訪ねてくるというのは、何とも腑に落ちない。狐につままれたような心持ちでした。


 その意味が分かったのは、次の日の4回目の電話ででした。大家のおばあさん「まただよ、校長先生づら?まったく何のようがあるだか」と少し怒っていましたが、電話に出ると、静かな校長先生の声が聞こえてきました。その中身は信じtられないようなものでした。


 「赤田さん、また国語に欠員が出てね。昨日、君に会ってどんな人かよく分かったから、君を採用することにしたよ。面接は君の部屋でやったということで。あとはとにかく引っ越してきなさい」。


 ふたたび私は横浜の教員となることになったのでした。

 3月半ば、桜にはまだ早い甲州の早春のことでした。


 面接で訪れたその中学校は、学年14クラスのマンモス中学。超過勤務問題も働き方改革もない、ただただ校則でがんじがらめの管理的な学校。若き給料ドロボーをめざしていたのに、私はいつしか反抗的な?教員になっていきました。

ここで10年間を過ごし、日教組を脱退し、独立組合に加入。結婚もし、二人の子どもも産まれた。私にとっては、人生の大きな変化をもたらしてくれたそんな職場でした。

 

人生は不思議なめぐりあわせで決まるものだと冒頭に書きました。今、振り返ると、あの穏やかな校長先生が私の人生を決めてくれたとも云えます。

 

もう泉下の人となって久しいですが、校長先生「君に会ってどんな人かよく分かったから」なんて云って私を採用して、実は後悔していたんじゃないだろうか。いやいや「あいつは変なヤツだけど、学校にはそんな人もいていいんじゃないか?」なんて思っていてくれたら、私はうれしいんだけど。

 

 

広島旧陸軍被服支廠保存問題、1か月で署名16000名、パブリックコメント1400件を超す。パブコメは明日が締め切り。

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2020年1月9日付朝日新聞朝刊

広島市の旧陸軍被服支廠の保存について朝日がようやく全国版で取り上げた。

広島県原爆被害者団体協議会(被団協 坪井直理事長)が要望書を県に提出。

広島商工会議所の池田晃治会長が年末の定例記者会見で個人的見解としながらも「文化的価値や平和を伝える遺産として非常に重要」と発言。

現地を訪れた『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』の片淵須直監督は「(この建物は)僕たちのものでなく未来の人たちのものだ」と発言。

 

全面保存の呼びかけが広がっていることを報じている。

 

県は「平和の観点も大事だが、安全対策はより大事」として「建物の価値は1棟を保存すれば残せる」としている。

県はホームページ上でパブリックコメントを募集しているが、明日が締め切り。

 

東京では、ヒロシマ連続講座を2016年から続けている竹内良男さんが、19日(日)に保存を願う懇談会野方と武蔵大学永田浩三さんをお呼びして「被服支廠の今・・・」という講座を、26日(日)には毎日新聞の栗原俊雄さんと東京都歴史教育協議会会長の東海林次男さんをお呼びして「戦争遺跡の保存を考える」という講座を開催する。

 

何度も書いたが、これほどの規模で被爆当時のかたちをそのまま残す被爆遺跡は他にはない。1万7千㎡という敷地の広さに建つ4棟は築107年。

内部は手つかずのまま放置されてきた。1昨年、実際に内部に入ってみたが、これを壊してしまうのは歴史への冒涜だと思う。原爆投下後に救護所となったここは、峠三吉の原爆詩集所収「倉庫の記録」が描く当時のさまのまさに現場そのもの。

全面保存をして、資料の展示と証言者の話や映像資料などを視聴できる場所としてほしい。

信じられないことに、広島を訪れる子どもたちや観光客がゆっくり坐って話を聴ける施設が広島にはない。

原爆資料館はいつも人であふれかえっているし、ホールはあるにはあるが、事前の予約が必須。春・秋の修学旅行の季節には確保は難しい。

一つの学校で少なくとも5,6人の証言者の方の話を聴く、そういう場所は信じられないことに広島にはないのだ。

せめて「屋根付き」の、日差しや雨などを避けられる場所をつくってほしいと要望もしてきたが、実現はしていない。

今回の被服支廠は県(3棟、残りの1棟は中国財務局)のもの。これに対して松井・広島市長は、「さらなる議論が必要」との見解を示してきた。

政令指定都市と県が仲が悪いのはいずこも同じだが、せめてこの問題、行政と被爆者団体でテーブルが囲めないものか。

 

昨日の記者会見で、湯崎・広島県知事は「全棟保存した場合、活用策を含めると80億円では収まらず、容易に費用を捻出できない」と発言。

金がないから保存できないではなく、意義があるから保存したい、しかしお金が足りないというのなら、工夫によってお金は集まるのではないのか。

 

いったん壊してしまったら、永久に元には戻らない。

何とかして保存の方向に向かってほしい。

パブリックコメントが1400件を超えたと湯崎知事が会見で伝えている。

これほどのパブリックコメントが1か月の短期間で集まったことに知事は「過去最高のレベルということで関心の高さがうかがえる」としたが、さてこの関心の高さをどう行政として受け止めるのか。右から左へ流す案件でないことは確かだ。

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原爆の爆風でへこんだ鉄窓

 

それにしてもカルロス・ゴーンの騒ぎは実に面白い。みんなゴーンを悪く言う奴ばかりだが、おれだってゴーンほど悪知恵と金があったら同じことをするだろう。ミスタービーン主演のゴーン脱出劇を早くハリウッド映画で見たいものだ。                     (筒井康隆 偽文士日碌1月13日から)

11月11日にグランベリーパークのプレオープンがあり、やじうま根性で見に行った。その時に「アド街ック天国ですが、取材よろしいですか」と声をかけられた話を、このブログにも書いた。

 

もちろんそのときは丁重にお断りしたのだが、その『アド街ック天国 南町田編』がおとといの12日に放送された。

 

自分が住んでいる街、というと「え?瀬谷じゃないんですか」といわれることがある。住所は横浜市瀬谷区であるから、最寄り駅も当然相鉄線瀬谷駅と思われる。

 

「新宿、近くなりましたね」

 

と最近言われたことがあるが、相鉄線が新宿までつながっても、私の生活にはほとんど影響がない。

 

何度も書いているが、私が住んでいるのは横浜の西北のはずれ、境川をわたれば大和市、100㍍先の旧246号線は町田市である。

 

最寄駅は、南町田。生活圏は南町田の街なのである。

 

グランベリーパークがオープンしたゆえの「アド街ック天国」には違いないのだが、グランベリーパーク以外のものも紹介された。

 

何といっても、境川、である。3位だって。毎日のように川べりを歩いている身にとっては、こんなふうに紹介されるとちょっとけうれしい。

 

しかし、普段見かける種々の鳥たちが紹介されるはずもなく、紹介されたのは山梨県道志川から保土ヶ谷区西谷の浄水場まで水を運ぶ水管橋。川幅20㍍ほどの境川をまたぐ4本の直径2㍍ほどの水道管である。

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「ぶらっと遡上探索」から拝借

テレビで見ると、銀色に輝くなかなか立派なもの。

昨年はキャンプで女の子が行方不明になってよく名前が出た道志村(まだ女の子は見つかっていない。)だが、横浜市とのつながりは水が間をとりもって深いものがある。一時は道志村が飛び地として横浜市編入するといった話もあったほどだ。

横浜市で配られるペットボトルの水の名前は「はまっ子どうし」。うまい!と声をかけたくなるネーミングである。

 

https://www.tv-tokyo.co.jp/adomachi/backnumber/20200111/

 

近所のスタントマンの会社も紹介された。

バス停からの帰り道、この倉庫のような建物のわきを通るのだが、つい中をのぞきたくなる。今回の放送で初めて中を見せてもらった。

2,3度入ったことのあるブーランジェリーカフェ?。Sというお店も紹介されていた。行かなくなって久しい店。どうしてここが?と思った。

 

そば屋が一軒。そばの里ときわ。義母が入院していた病院のすぐ近く。何度か入ったことがある。蕎麦もうまいが、雰囲気がシャキシャキ?していおらず、時間がゆったり流れているお店。よくぞこの店を選んでくれたもの。

 

ベスト20として、はたして南町田にそんなに紹介するところがあるのだろうか、と思いながら見ていたのだが、足りない分はグランベリーパークから。かなり無理すじもあったが、楽しめた。

 

 

 

 

それにしてもカルロス・ゴーンの騒ぎは実に面白い。みんなゴーンを悪く言う奴ばかりだが、おれだってゴーンほど悪知恵と金があったら同じことをするだろう。ミスタービーン主演のゴーン脱出劇を早くハリウッド映画で見たいものだ。

                    筒井康隆 偽文士日碌1月13日から)

こういう作家の無責任にも見える発言が、ものごとの一面や人々の欲望をよりよく見せてくれる。

ワイドショーでは、「正義」を名乗る評論家が、ゴーン氏をくそみそに言っている。

やめ検の弁護士や国際弁護士?などが口々に、日本の司法制度はしっかりしたものだと云う。

有罪率99%はきちんとした捜査がなされているからだという。人質司法の根拠たる無法な拘留については語らない。

いつも思うのだが、不起訴とした場合、検察はなぜその理由を明らかにしないのか。

逮捕後、ダダ洩れするリーク情報は誰がどこから出しているのか。被疑者はそれに対して何の異議も申し立てられないのに、だ。

同じような視点でから同じ結論をもって話しているゲストたち。これは単なる世論操作。丁々発止の屁返しい議論があれば、視聴者は各々の判断の材料にできるのだが。

 

それにしても主役は、ミスタ―ビーン。ぴったし。

見かけは似ているけれど、金と権力に対する執着の強さを表現するのは並大抵のことではないだろう。

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