2026年3月の映画寸評(1)
面白かった映画を⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎から⭐︎まで勝手に評価。
『おはよう』
1959年製作/94分/脚本:小津安二郎 野田高梧/監督:小津安二郎/音楽:黛敏郎/出
演:笠智衆 三宅邦子 久我美子 杉村春子 東野英治郎 佐田啓ニ 澤村貞子 殿山泰
司 ほか/劇場公開日:1959年5月12日
町田市民ホール ⭐️⭐️⭐️
東京の郊外--小住宅の並んでいる一角。組長の原田家は、辰造、きく江の夫婦に中学一年の子・幸造、それにお婆ちゃんのみつ江の四人暮し。原田家の左隣がガス会社に勤務の大久保善之助の家。妻のしげ、中学一年の善一の三人。大久保家の向い林啓太郎の家は妻の民子と、これも中学一年の実、次男の勇、それに民子の妹有田節子の五人暮し。林家の左隣・老サラリーマンの富沢汎は妻とよ子と二人暮し。右隣は界隈で唯一軒テレビをもっている丸山家で、明・みどりの若い夫婦は万事派手好みで近所のヒンシュクを買っている。そして、この小住宅地から少し離れた所に、子供たちが英語を習いに行っている福井平一郎が、その姉で自動車のセールスをしている加代子と住んでいる。林家の民子と加代子は女学校時代の同窓で、自然、平一郎と節子も好意を感じ合っている。このごろ、ここの子どもたちの間では、オデコを指で押すとオナラをするという妙な遊びがはやっているが、大人たちの間も、向う三軒両隣、ざっとこんな調子で、日頃ちいさな紛争はあるが和かにやっている。ところで、ここに奥さん連中が頭を痛める問題が起った。相撲が始まると子供たちが近所のヒンシュクの的・丸山家のテレビにかじりついて勉強をしないのである。民子が子どもの実と勇を叱ると、子供たちは、そんならテレビを買ってくれと云う。啓太郎が、子供の癖に余計なことを言うな、と怒鳴ると子供たちは黙るどころか、「大人だってコンチワ、オハヨウ、イイオテンキデスネ、余計なこと言ってるじゃないか」と反撃に出て正面衝突。ここに子供たちの沈黙戦術が始まった。子供たちは学校で先生に質問されても口を結んで答えないという徹底ぶり。この子供たちのことを邪推して近所の大人たちもまた揉める。オヤツをくれと言えなくて腹を空かした実と勇は原っぱにおヒツを持出して御飯を食べようとしたが巡査に見つかって逃げ出し行方不明となった。間もなく子供たちは駅前でテレビを見ているところを、節子の報せで探しに出た平一郎に見つかった。家へ戻った子供たちは、そこにテレビがおいてあるのを見て躍り上った。停年退職した富沢が電機器具の外交員になった仕事始めに月賦でいいからと持込んだものだった--(映画.comから)
隣の町田市で『優秀映画鑑賞推進事業35mmフィルム映画上映会』という催しがあり、小津の映画が見られるというので行ってきた。小津の映画はテレビやビデオでは見たことがあるが、スクリーンでは見たことがない。
会の主催は町田市文化施設指定管理共同事業体。代表団体の中に「国立映画アーカイブ」が入っている。
私は横浜の西北の外れに住んでいて、横浜の中心部で開催される催しを見るにはバスや電車を乗り継いで出かけなかればならない。たいてい1時間以上かかる。
今回の会場は町田市民ホール。行ったことがないので調べてみたら、近くのバス停から鶴間駅東口発のバスが出ている。これに乗れば30分ぐらいで町田バスセンター(町田駅)に着く。そこから歩いて5、6分。気が楽である。
さて1959年の35mmフイルム。画面の明るさ、色調のきれいさに驚いた。音も悪くない。この時期あたりから映画のカラー化が進んだという。
大人の日常のおしゃべりと子どもたちのオナラの遊びがメタファーとなって構成されている。子どもたちの「反抗」が真っ直ぐすぎて、私にはあまりリアリティが感じられなかった。
それよりも、「もはや戦後ではない」と言われた時期の小さな世界の人々の生きる様子と関わりが穏やかでやさしく描かれていることの方が印象に残った。深みは感じられないが、戦時下とは全く違った人々の悩みが丁寧に語られている。
例えば東野英治郎が演じる会社員の定年退職。予告の中にもあるが、55歳定年が間尺に合わなくなっている時代への呟きは深刻だ。
それでも電器店?に再就職を果たした東野に対し、笠智衆が付き合いとしてテレビを購入する。テレビの普及率はまだ10%に満たない時代、案外簡単に買ってしまうものだ。少し違和感があった。
驚いたのは、4人のサラリーマンの妻たちが皆揃って和服姿であること。そういう時代だったのだろう。私を育ててくれた継母もよく和服を着ていた。授業参観はいつも和服だった。
一方、外で働く久我美子は服装も行動も颯爽としている。ここにも変化の兆しが見える。佐田啓ニとの淡い恋慕も、適齢期が24歳前後だった時期と考えると、新しさを感じる。
また、久我は姉の家族と同居、杉村春子は実母と同居している。佐田啓ニは姉の沢村貞子と同居している。舞台となっている東京近郊の集合住宅は、当時の住宅事情としてはかなり良い方と思われるが、それでも現在の「家庭」とはかなり違っている。
もう一つ、日々の生活が少しずつ豊かになっていく時の、例えばここではテレビが一つのテーマになっているが、その「テレビの出現」を小津は捉えようとしている。
テレビのない夕食後の時間、笠智衆の家では、家族は火鉢に手をかざしながら、本を読んだり、編み物をしたりしている。はてテレビのなかった頃、私たちはどんな時間を過ごしていたのか。テレビ離れが進む今、これまた新鮮な驚きを感じるシーンだった。
殿山泰司の絵に描いたような「押し売り」も可笑しい。それを対峙する老婆の三宅栄子の演技、すごい。ただ殿山も東野も中年で、まだ円熟という感じはなく、それなりに下品で「味」まで行っていないのは面白い。
見知った俳優たちの若き日の作品。彼らが初老を迎える時期の作品はいくつも見ているが、この時期のものはあまり見たことがない。新鮮である。
不思議だなと思ったことひとつ。
ローアングルにカメラを固定して、会話する者たちをホン・サンスのように左右対称のように撮る小津独特の手法はやはり新鮮だったが、どういうわけかどの家庭もその内部の配置がわからない。玄関と勝手口はよく映るが、全体の配置、構図が掴めない。
絵画的な構図は随所にあるのだが。
これは、当時のトレンディドラマ。
小津独特の、言葉のない独特の画角からしみじみとした感情を浮かび上がらせるようなそんなシーンはほとんどない。
タイムスリップしたような気分で見終えた。
