熊本市議会、のど飴で8時間の休会、懲罰動議が出され、議員は出席停止に。これってどういう問題なのか。学生と考えてみた。

  授業のはじめに、今、世間で話題になっていることについて新聞記事などの資料を読み、コメントを書き、ひとしきり意見交換をするという時間をつくっている。2,30分ほどの時間だが、本チャンに入る前のウォーミングアップのようなもの。

 今年度の最初の話題は、熊本市議会緒方夕佳議員ののど飴をめぐる議会紛糾問題について考えてみた。緒方議員は、昨年11月に赤ちゃんを連れて議会に出席、大きな問題を提起をしたのだが、議会はその後赤ちゃん連れの出席を禁止、一人会派の緒方議員は悪戦苦闘の議員活動を続けている。その中で起きたこの問題。賛否両論ありますが、

学生はこの問題をどう考えるのか。

ブログ掲載については学生に了解を得た。(   )は授業でコメントを書く時のニックネーム。私のコメントも末尾に。

 

 

西日本新聞9月29日付

熊本市議会は28日、9月定例会の最終本会議を開き総額14億697万円を増額する本年度一般会計補正予算案などを可決した。緒方夕佳議員(43)が演壇でのどあめを口に含んで質疑したことを発端に懲罰動議が出され、緒方氏は28日のみ1日間の出席停止となった。審議は緒方氏が質疑していた午前11時半ごろから中断を繰り返し、午後8時前に閉会した。

 緒方氏は、自身が紹介議員となった議会基本条例の制定などを求める請願計7件が、今議会の議運委で不採択となったことに反発し質疑に立った。緒方氏があめをなめていることに他の議員が気付いて批判。本会議が中断した。

 熊本市議会会議規則には議場での飲食を禁じる条文はないが、議運委は「議員は、議会の品位を重んじなければならない」とする条文に抵触すると判断。緒方氏に議運委での陳謝を求めたが、緒方氏は拒否した。

 本会議では、緒方氏に「軽率な行為であり深く反省いたします」などとする陳謝文を朗読する懲罰が議決されたが、緒方氏は拒否。その後、本会議で出席停止とする懲罰が議決された。

 緒方氏は報道陣の取材に「風邪をひいており、せきが出ないよう、のどあめをなめた。出席停止で質疑や表決が果たせなくなり、非常に残念」と話した。

f:id:keisuke42001:20181017050724j:plain右から2人目が緒方議員

 

 

         熊本市議会、のど飴問題から考えたこと

緒方市議は強い人間というのが第一印象です。多数派対少数派どころではなく、多数派対一人という状況の中で自分の意見を曲げずに討論できることはすばらしいと思います。しかし緒方市議は幼児同伴の件でよい意味ではなく話題になっていたので、自分の行動が批判されないかもっと慎重になるべきだったと思います。昼頃には終わる予定だったはずなので我慢もできたと思いますし、そこまでひどかったら一言断ってから口にすることもできたと思います。(雨の日苦手)

 

私はこの問題の記事を読んだ時に小学生のクラスでこのようなことをやったなぁとなつかしく思い出しました。ということは、この議会のやっていることは小学生のたわむれなんだと思い、少し残念に思っています。年老いた人たちが今まで私より一回りも二回りも多く生きている人たちが、こんなに相手の気持ちを考えられないのかとも思っています。この小さい集団の中で人の気持ちを考えられない人たちが市民の気持ちになって話し合いができるとも思いません。この熊本市議会の問題を国民や東京や他の地方議員たちが他人ごとのように考えているのも問題だと思います。この問題と同じような言い合いは日常生活などにもどこにでもあふれていると思います。人間、現実を受け入れるのに時間がかかる生き物だと思います。(トムソーヤ)

 

私自身もここ数日間風邪をひいており、のど飴がないとせきが出てしまう状態なので緒方さんの気持ちがとても良くわかります。のど飴がなかった場合にはより大きな迷惑をかけてしまう場合もありうるため、緒方さんの判断は正しかったと思います。議会の品位を下げることにのど飴をなめることが含まれるのであれば、大多数の人には解釈できないと思うので、きちんと明記していただく必要があると思います。ただこのあと8時間も延長したとなると緒方さんがこのことに対して具体的にどのような対応をとったのかは疑問が残ります。(バジリスク

 

まず記事を読んでも思ったことは、議会はくだらないことをしているということです。ニュースなどで議会でヤジを飛ばしている映像を見たことがありますが、何かを決めるために選ばれた人たちが集まっているのにこの件を含め違う党派の粗探しをしている印象を受けます。のど飴問題については問題になるような行為ではないと考えます。完全に緒方議員に対しての粗探しだと思います。話の中で男女の問題や平等の問題に派生するとありましたが、今は解消されなくても自分たち世代がの大多数はこういった問題に寛容なのでこのようなことは減ると思います。(せいうちん)

 

その年に赤ちゃんを連れてくるという行動で他の議員達から悪い印象をもたれていたであろう状況で今回のような問題が起きたことを考えると、古いい風習がガチガチになっている議会のルールがいかにおかしいものなのかということが良くわかる。緒方議員もいきなり飴をなめていたのではなく前に「咳をするな」とヤジを飛ばされていたため、その予防のためにのど飴をなめていたとすれば今回の「品位」を落とすという批判は矛盾した的外れな考え方だと思える。古い縦社会で成り立っている場所では、風通しが悪くなり今回のような柔軟な考え方は受け入れられないのだと感じた。(猫大好き)

 

正直意味が分からないです。問題であるという認識をこの事態によって持つことができない。「品位」という非常に具体性のない言葉の便利さで緒方議員への制裁を加えようとしたとしか思えない。何か口に含む状態は集中力をあげるという利点もあるためこの事態により否定的な意見をもつ。ただ、大学以外の学校の授業中に何か口に含んだ状態でいることを許す学校は少ないと感じている。いずれ学校にも報道陣のメスが入るのだろうか。(ラスク)

 

まず緒方市議の乳児問題とのど飴問題は全く別のものであると考える。乳児の方は最近の女性進出を掲げる政府に対して制度が追いついていないということを主張するためのものだったととらえる。緒方市議は派閥にも属せず、発言力が乏しいという背景を考えると、市議会のルールを破ってまで子供を連れてきたことは、ただ女性にまつわる制度不足だけでなく、女性議員の権力不足を表すものだったと思われる。結果としてはルールを破り、批判もされたわけだが、いわばどうしようもない現状を示す問題だと言える。
それに対して今回ののど前の問題は緒方市議が事前に風邪で咳に文句を言われたことからの判断だということはある。だがこの問題は男女はあまり関係ない。飴がOKかどうかというのは明文化されていなく、他の議員の発言から議員全体に明確なルールの周知はなかったと思われる。緒方市議がこのルールをしっかり把握していたかは分からないが、少なくとも飴をなめること自体は問題はないと考える。私が問題と考えたのは、OKかどうかわからないのに事前に許可をなぜ求めなかったのかというところである。私の社会常識で考えるならば不明なことは事前に問うものである。のど飴をなめるという判断はともかくとして、記事の中の真意を読む限りでは緒方市議には事前に問うという考えはなく、これは非常識にあたり、問題になったところであると考える。一方で陳謝についてはあまりルールを知らないので何とも言えないが、ただ文を読むのではなく、自分のことばでというところは賛成であり、強制すべきものではなかったと思う。(マル)

 

むやみやたらにお菓子を食べていたわけではなく、理由があったうえで飴を食べているという点を考えると、議会を中断し8時間もそれについて言及される必要がはたしてあったのか、また、ほかにもっと話し合うことがあったのではないかと考えました。たしかに口に何かを入れた状態というのは日本社会からすると非常識ととらえられるというのも分かります。しかし、8時間それについて時間を割くというのもまた非常識的だと思えるのです。緒方議員から、事前にのど飴の申告をするといったこともできたかもしれませんが、この状況を見ると仮に申告したところで、許可は出なさそうですし、やはりどのみち、緒方議員を追い詰める何かしらの理由がほしかったのかなと感じました。(むぎ)

 

のど飴をなめていたことに対しては議員として、ルールを守れないというのは良くないことであると思った。しかし子供を連れてきたりして注目されていたことを考えると、批判した周りの議員の嫌がらせ的な感情も入っていると思った。この一連の流れで問題をみていくと、いじめ問題、男女平等、ルールやマナーの問題、子育て問題など多く考えなければならないきっかけになったと思う。
男女が働く社会になるということは、男女が平等に子育てを行い、過去にあった男性の方が上で女性が下だと考えていた概念を考え直さなければならないと思う。さまざまな社会の仕組みを変えていく必要があると思うので議会でこのような問題について議論すべきだと思いました。(シュシュ)

 

今回ののど飴問題以前にも、緒方市議が子どもを連れて議会に参加していたということもあり、目立ってしまっていたために、このような議会が8時間も続くという事態になってしまったのだと思う。日本では男女平等や女性への議員を増やそうということをさかんに言っているのに、女性が働きやすい環境が整っていなかったり、昔の古い考え方が残ってしまっているのだと思う。なので、一刻も早く環境を整えることが必要だと思う。緒方市議のように自分の意見や考え方が少数派だったとしても、正しいと思ったことを行動するということも大切であると思った。(プー)

 

ただおなかがすいたからや、眠くなってしまうからという理由で飴をなめていたなら反対されてもしょうがないと思いますが、体調が悪くても議会を欠席することはできず、以前咳がうるさいと言われた結果の対策で、議会のためにしていたことなので、反対されるのはおかしいと思いました。品位というものが何なのか人によって考えているものが違うと思うため、ルールをもう一度見直すべきだと思いました。また子供連れの出席についても、外国では当たり前のようにされているものにもかかわらず、日本でここまで問題になってしまうことに疑問を感じました。これがもし男性議員だったらどうなっているのかと思いました。(あられ)

 

品位が損なわれる行為としてのど飴をなめながらの質疑が挙げられたのですが、そもそも品位とは何かについて市議会として明確にしてない以上は、これ以上論じることは難しいと思います。しかしながら品位とは、ということを棚に上げたままのど飴をなめていた女性議員をバッシングしている現状があります。そこには「品位」を超えた女性差別、育児問題などの背景があるように感じます。一人の女性を囲むようなバッシングは品位を欠くと思いました。また事前に理由を伝え、のど飴をなめなかった女性も品位を欠くと思います。

ものすごくもったいない時間でしかないと私は強く思いました。地震に対する対応が今回の話し合いであったならばなおさらそうであると思います。一日も早く動き出すべき時にそれを決める場所でこのようなことがあったことは少し悲しくなりました。今やるべきことを考えたときに時間を割いてのど飴について話し合うのか、災害復旧について話し合うのか、その結果前者になってしまったことはおかしいともいました。                            (シンジ)

 

飴をなめるのは良いと思うが、自分が話す立場になったらいったん口から出すべきだったと思う。自分が風邪である旨をまず伝えて理解が得られたのちまた飴をなめたらよかったのではないかと思う。周りの議員さんたちは次々と前例のないことをする緒方議員をねたんでいると考える。飴に関して言えば「え、なめていいの!?オレもなめたい~」と感じたおじさんが紛糾したのだろうなと思う。ちなみに私は芯のない人間なので怒られたら即謝罪します。緒方さん、すごい!女に生まれたことを後悔してしまう。
                             (オノヨーコ)

 

緒方議員はもともと赤ちゃんを議場につれてくるなどしていたので、ほかの議員に反感を持たれて、のど飴を問題にされてしまったが、これが別の議員であれば、問題にされなかったような気がする。また元々国連で働いていたこともあって他の議員からすればよそ者、自分たちとは違うものとしてみていたのではないかと思った。議会のことではあるが、学校のいじめの構造と似ているのが興味深いと感じた。学校でも、帰国子女の子は日本の学校になじめずに、いじめられたり、苦しんだりしていることを聞くので、それに似ているのかと思った。(ノース)

 

行き過ぎた処分ではあると思う。たしかに飴をなめながら人前で話すことは気持ちがよくないと思う人はいるだろうが、何時間も大勢で責めるような内容ではない。議員、議会がいかに生産性のないものかがわかってしまう出来事であると思う。イギリスからも批判が届いているように議員にはその議会のうちでの「品位」という意味より、それぞれの行いを客観的に見て、自分たちがしていることはどういうことなのかを考えてほしい。(でー)

 

 私はのどアメをなめながら人の話をきいたり、自らが発表することは反対です。自分は議会で発言したりしたことはもちろんありませんが、まじめな話のときや目上の人と話すときは何かをしながらきいたり、まして食べ物を食べながらということは失礼だと思います。またもしのどが痛くてアメをなめる必要があるのならば、周りに一言あってもよかったのではないかと思います。しかし、のどアメをなめていただけで、議会が数時間も休会をしてしまうというのは、なんだか頭が悪いというか、もっとやらなくてはならないことがあるのではないかと考えてしまいます。まとめると、「いけないことだと思うが騒ぎすぎ」だと感じました。(メガネ)

 

 

以下、学生に示した私の見解です。


◆ 事前に「のど飴、いいですか?」と許可を得るべき?
皆さんのコメントで私が一番引っかかったのは「事前に許可を得ればよかったのではないか」というもの。どうなんでしょうか、現実的な問題としてよく考えてみてください。
大人の世界で、「のどが痛いので、のど飴をなめたいのですがよろしいでしょうか」って訊くのは普通のことでしょうか。社会的な常識には確かに幅があります。ある人には常識でも別の人には非常識というものもあります。
ではどちらかはっきりしない場合は、許可を得るべきだと考えるはある意味当然とも思えないこともないのですが、私には少し硬直した考え方ではないかとも思えます。それはとても窮屈なことではないでしょうか。
問題は、のど飴を口にしていることが周りの雰囲気を壊したり、他の人に不快な思いを与えたりする可能性があるかどうか、つまり一般的な社会通念上のマナーの許容範囲を超えているのかどうかということになります。それと自分が抱えている事情との兼ね合いを考え併せることが必要になります。
公的な場で議論をする場合、ガムを噛みながらとか何かを食べながらといったことは、一般的に許容されにくいですね。そこにはおのずと私たちが共有している一定の「線」があるように思えます。
もう少し考えてみましょう。議論をする場で、たとえば質問をする際、演説をする際、のどが渇いたりつまったりしたときにペットボトルでのどを潤すという行為はどうでしょうか。今では、これは十分に許容されますね。数十年前の学校では授業中に飲み物を摂ることは認められませんでしたが、現在は水分摂取は積極的に勧められています。ですからわざわざ担当の先生に「のどが渇くので、水を飲んでもいいですか」と許可を得る必要があるとは、皆さんも考えませんね。これはお互いに「線」を共有しているということですね。
そこで緒方さんののど飴ですが、これが「ガムを噛みながら」と「水を飲む」のどちらに近いか考えてみてください。
のど飴がガムのように礼儀を欠くものであったかどうかといえば、私はそこまでは全くいっていないと思いますし、大の大人が周りに「のど飴、いいですか」と許可を得るのもおかしなことだと思います。
緒方さんは以前に周りの議員に「咳」を注意されたことがあってと、のど飴を口にした理由を語っていますが、「咳」を抑えるという点でのど飴の服用には合理性があります。
私はそのことより、体調を崩している緒方さんに対し「咳をするな」といったという議員の不寛容さが気なります。
私たちの社会の中で、咳をしている人に「咳をするな」と直言することはよくあることではありません。たとえばこの授業で咳の止まらない人がいたとします。私が担当の教員として言うのは、たとえばマスクをしていない場合は「マスをしてください」とは言いますが、「咳をしないで」とは言いません。それは場を共有している以上、引き受けなければならないことだと考えるからです。立場はいつでも逆転します。私たちはいつ同じ立場になるかわかりません。その意味でこの議員の発言が気になりますし、たぶんそれは単なる「咳」に対する不寛容さだけではなかったのではないでしょうか。

 

◆ のど飴禁止!とルールに明記しておけばいい?
次に「議会のルールとしてちゃんと決めておくべき」という意見もありました。これも考えてみてください。議会の規則に「のど飴禁止」とあったらどうでしょうか。昨年、一昨年と全国の地方都市の議員が覚せい剤所持、使用で逮捕されるという事件がありました。でもどこの議会も「覚せい剤の使用禁止」といいう規則は決めていません。あたりまえですね。そんなことをしたら、あれもダメこれもダメとたくさん羅列することになってしまいます。禁止事項を全て明記せずに「品位」ぐらいにしておくのが一般的なのではないでしょうか(覚せい剤は品位以前の問題ですが)。


◆ 手続き論と本質論
「許可を得る」と「ルール明示」、ふたつの意見が正しそうに見えることがあります。しかしこれらは本質論ではありません。いわば手続き論なんですね。ではこの問題、手続きが間違っていたという問題なのでしょうか。
手続き論は一見、客観的に問題を捉えているかのように見えますが、そこにはその人自身のこの問題への判断、自分であったならどうするかという当事者としての視点は抜け落ちています。私は物事の是非を判断するときに忘れてならないのは“当事者性”だと考えています。自分をその立場に置き換えて物事を考えてみることです。
この場合、多数派の議員の立場に身を置くか、緒方さんの立場に身を置くか、そこから「どうしてこんなことになったのか」を考えてみることが重要です。
◆品位を保つべき「神聖な場」とはどこだ?
では次に当事者性という点からすると「議会の品位」という点に言及してみましょう。緒方さん以外の議員の人たちは、たとえば共産党(多数派の自民党ではなく)の女性の市議の方が「のど飴を口にしての発言は神聖な議会の品位を汚す」といった意味のことをテレビで言っているのを聞きました。
まず議会を神聖な場だと主張する点ですが、言葉の使い方として私には違和感があります。「神聖」というのは、「尊くておかしがたいこと。清浄でけがれがないこと。特に、宗教・信仰の対象などとして、日常の事柄や事物とは区別して扱われるべき特別の尊い価値をもっていること」という意味でつかわれる言葉です。
一方、議会というのは、互いの政治的な考え方のぶつかり合う場であると同時に、民主主義のルールに則って運営される公的な議論と決定の場であると私は考えます。住民にとって大事なことを決定する「公けの場」ということを思い切り強調すると「神聖な場」ということになってしまうのかもしれませんが、もっと普通に市民が関われる場と考えていいのではないかと思います。
余談ですが、土俵や道場、教室、グランド、仕事場などにも「神聖」という言葉を付して語る人たちもいます。なんでも「神聖」と言えばいいというものではありませんね。これらの使い方は、それぞれの場が「公的な場」「自分を磨く場」「闘いの場」であって「私的な場」ではないということを強調するだけでなく、そこで行われることの精神性を強調しているように思われます(「神」を出すところが日本的と言えば日本的ですね。道場などに神棚が飾ってあったりしますが、日本では至る所に神様がいます。台所にだってお札が貼ってありますが、台所は神聖な場所だからと一般家庭では言いません)。

◆のど飴は品位を汚す行為か?
次に「品位」についてですが、これが一番難しい。この点を鋭く指摘している人が何人もいました。
品位とは「人や物に備わっている上品さ、気高さ」のこと。わかるような気もしますが、非常に抽象的な言葉です。この言葉、「品位を保つ」というケースより「品位がない、品位を汚す」という否定的なフレーズとして使われることが多いように思われます。
では、一般的に「品位を汚す」行為というものが議会に存在するとしたら、それはどういうものでしょうか。
たとえば聞かれたことにきちんと答えずにごまかしの答弁を延々と続けるとか、特定の生徒や個人に対して根拠のない誹謗中傷を続けるとか、そういうことですね。この一年、国会でのモリカケ問題や自衛隊日報問題、大臣のセクハラや収賄事件などでかなり「品位」を欠くものが多かったのでわかりやすいと思います。
今回、熊本市議会の緒方さんを除く前議員は、緒方さんののど飴を口にした行為を「品位を欠く」としたわけですが、私など一般市民からすれば、議員の行為として居眠りや下品なヤジ、恣意的な欠席と比べてみたらどうなの?と思ってしまいます。
のど飴を口にするという行為に対して『いかがなものか』と感じる人たちがいることは理解できます。でも多くの議員たちは緒方さんがのど飴を口にしていることに気がつかなかった、誰かの指摘を受けて議長が確認、緒方さんが認めたため、出席者に伝わったということですね。それも「咳を止める」という理由で口にしたもの。それは「品位に欠ける」とまではとても言えない行為であると私は考えます。
それよりも品位という点では、緒方さんがのど飴を口にしていることが分かった時点で、鬼の首でもとったかのように「暫時休会だ!」といった怒号が浴びせられる異常さ、それにさして深く考えることなく乗ってしまう見識のなさ、陳謝の文章を強制しようとするやりかたのおかしさ、それに対してだれ一人異議を唱えず8時間も議会を止めてしまうでたらめさ(のど飴で止められた8時間は、当然事務局の人たちの超過勤務手当に始まって議員の報酬、多額の諸経費が掛かっています。それらすべてが税金で賄われる)こそ、私にはこれ以上ないほどの低劣な「品位」に思えます。
しかし、品位を汚したかどうかは議会では多数決で決まります。どんなひどい行為も、多数が「問題なし」とすれば問題ではなくなります。これも国会を見ているとよくわかります。社会は矛盾と不条理に満ちているものです。

 

◆当事者の視点を忘れずに
緒方さんは、子どもを育てる女性が議会で普通に活動ができることを求めていました。何度か議会に申し入れをしても容れられず、昨年11月に「強行突破」して問題提起をしました。女性が活躍する社会を標榜する現在の政権からすれば、非常に重要な提起であったのですが、それを主張する自民党市議団を中心にすべての党派がこの提起を敵視し、子連れでの議会出席が出来ないような決定を行いました。昨今の政界の潮流からしても、これがどれほど流れに逆行するものかは、2講での資料でもわかりましたね。
以下、私の推測に過ぎませんが、一種のムラ社会である熊本市議会は、会派のない個人で原則的な問題提起をする緒方さんが煙たくて仕方がなかったのでしょう。彼女を通じてさまざまな請願が出されることも面白くなかった。なんとかして彼女をぎゃふんと言わせたい、とっちめてやりたいものだという空気が、議会の中に充満していたのではないでしょうか。だから「暫時休会だ!」に一も二もなく乗ってしまったのでしょう。 
 しかし、緒方さんは陳謝の強制にも応じない。議会は振り上げたこぶしの落としどころがない。なにがなんでもつぶすしかない。それならば出席停止だということに。残念で仕方がありません。これは言論の府である議会が、自ら言論を封殺する行為に走ったということですから。
 議会だけでなく、職場でも地域でもこうしたことは珍しくありません。少数派がいつも正しいということはありませんが、少数派の主張に真実が隠されていることが少なくありません。だからこそ民主主義の原則として、少数意見の尊重ということがあるわけです。
繰り返しますが、私には熊本市議会が全会一致で緒方さんの出席停止を決定したという点が気になります。誰一人、「おかしいじゃないか」という人がいなかったのか。
皆さんが職場、とりわけ学校で働くことになったとき、学校はまだわずかですが議論するという文化が残っていますから、こういう場面に出くわさないとも限りません。その時、手続き論に終始せず、当事者として考え、発言する視点、スタイルを忘れないでほしいと思います。
以上、長くなりましたが、のど飴問題の私的見解でした。

 

 

 

 

『判決 二つの希望』こうしたエンターテイメントの結末を用意してもなおレバノンを描くことは容易ではなかったということ。レバノンでつくられる映画は年に7本ほどだ。

    レバノンの映画をみたのはたぶん初めてのことだ。スクリーンからベイルートの街並みとそこに暮らす人々の体温が伝わってくるようだ。不穏でどこかきな臭い空気の中に、些細な諍いが持ち上がる。

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判決、ふたつの希望』(2017年・レバノン・フランス・原題:L'INSULTE/THE INSULT(侮辱)・監督ジアド・ドゥエイリ


 ジアド・ドゥエイリは、レバノン出身。1975年に始まるレバノン内戦(第五次中東戦争)のさなかに映画を勉強するためにアメリカにわたっている。タランティーノの助監督のようなことをやっていた人。
 母国のありようを映画の題材として選ぶというところに生真面目さも漂うが、映画そのものは非常に分かりやすいエンターテイメントの構図でつくられていて、複雑な知識がなくても十分に楽しめる。

 

 私自身、レバノンといえば、中東の小国としてシリア、イスラエルパレスチナ、ヨルダンの間で政治的、民族的、宗教的に複雑な関係の中にある国というイメージ程度の知識しか持ちあわせず、映画の中でフランス語が聞こえて、ああそういえば第二次大戦終了までフランスの統治下にあったんだと思いあたったくらいだ。

 


 映画はおなかの大きい妻とトニーの会話から始まる。もっと静かなところで暮らしたいという妻、せっかくこのマンションを手に入れたのだからここで暮らすんだというトニー。よくある夫婦の言い合いだ。


 マンションの外では工事が行われていて、2階に住むトニーがベランダから流した水が排水管が壊れていて、作業員にかかってしまう。現場監督のヤーセルはトニーの家を訪れ、排水管を直したいと告げるが、トニーは水がかかったことを謝りもせず、これを拒否。するとヤーセルは独断で外側から壊れた排水管を撤去して新たに樋を設置する。それに気がついたトニー、ハンマーをもって家の中からこの樋をこわしてしまう。ヤーセルは憤懣やるかたなく、トニーに対して「くず野郎!」(字幕では確かこうあった。政治的なものではないようだ)と暴言を吐く。これが「きっかけ」である。


 トニーはレバノン人でキリスト教徒、反パレスチナ難民の右派政党を支持している。冒頭に集会に参加するトニーが描かれる。一方ヤーセルはパレスチナ難民で難民キャンプに住んでいる。といってもテントではなくしっかりした住居に住んでいるようであり、ベイルートに長く住んでいることがわかる。工事現場の監督として有能だが、違法就労のようで安い賃金で働かされている。妻と住んでいる。


 レバノンパレスチナ難民を受けれているが、レバノン人は自分たちの仕事が奪われてしまうこと、特にキリスト教徒はムスリムたちを毛嫌いする。ヤーセルは弱い立場でありながらもプライド高く生きている。これは現在のシリア難民のヨーロッパでのありように酷似している。

 

 暴言に対して執拗に謝罪を求めるトニー、違法就労の露見を恐れる上司はヤーセルを説得、ヤーセルは上司とともに、渋々トニーの仕事場を訪れる。トニーの仕事場は自動車修理工場で右派政党の党首の演説が流れている。とても謝れる雰囲気ではない。トニーはトニーで「シャロンに殺されればよかった」と挑発的な発言。ヤーセルは我慢ならずトニーの腹部を殴ってしまう。トニーはろっ骨を二本骨折、入院することに。

 

 シャロンイスラエルの元大統領、パレスチナ弾圧をもっとも過激に行った人物だ。パレスチナ人であるヤーセルからすればこの暴言は許せない。二人の関係は膠着状態となり、トニーは裁判に訴えることに。

 

 ここまでトニーは、ヘイト発言を平気でする国粋主義者といった形で描かれる。観客からすればトニーのやっていることは道理に合わず、殴ったことを別にすればヤーセルのかたをもつのが人情というもの。国際的にもパレスチナへの同情と共感は強いものがあるし、アメリカの支援を受ける軍事国家イスラエルへの反感もある。トニーはそれも面白くない。レバノン人のひとつの典型がトニーに表れている。

 

 裁判は、被告であるヤーセルが檻の中に入れられ出廷、裁判長は双方の主張を聞こうとする。まずトニーに対して「どんな暴言を吐いたのか」を問う。トニーは「ヤーセルに聞いてほしい」と答える。だがヤーセルは答えない。「殴ったのは自分だし、有罪で結構だ」。
 裁判長は、この暴行事件の裏に民族や宗教の問題があることを指摘、そもそもの配水管事件がトニーのパレスチナ人に対する差別意識によるものだと結論付け、ヤーセルに無罪を言い渡す。

 

 憤懣やるかたないトニーはあらたに右派系の老弁護士を立てて、控訴審を闘うことに。ここからがこの映画の佳境。これ以上はネタバレはしない・・・できるだけ。

 

 ふたりの間で起こった些細な出来事が、マスコミによっておおきく取り上げられていく。街ではイスラム教徒のパレスチナ人とキリスト教徒のレバノン人の対立があちこちで持ち上がる。暴動も起こる。まるでトニーとヤーセルは二つの陣地の代理戦争を戦っているようなものだ。

 レバノン大統領まで出てきて二人の間に入り、調停をしようとするも意固地になった二人は受け入れない。

このまま一気に終盤に向かうかにみえるが、構造的には単純ともいえるこの映画に、人間の豊かさ深さのようなものを感じさせてくれるのは、トニーの身重の妻、ヤーセルの妻、控訴審の女性の裁判長、そしてトニーを弁護する女性の弁護士という4人の女性の揺れ動く表情に由来する。いずれも男の建前優先の主張に対して、本音を前面に出して男をいさめる。味わいがある。

f:id:keisuke42001:20181016095026j:plain前列左から弁護士、トニー、妻


 さて、トニーのヤーセルへの激しい憎悪の根源が法廷で明らかになる。突然老弁護士が、或るフィルムを上映したいと申し出る。そこに写し出されたのはダム―ルの虐殺と呼ばれるレバノン内戦時代に起きたパレスチナ人による(といわれるが不明)蛮行の実態。トニーはこの虐殺の被害者だった。


 トニーは上映に激しく衝撃を受け、父親とともに法廷の外に出るが、なぜトニーがこのことを隠そうとするのかが、実はよくわからない。政治的な活動を避けて、このことには触れたくないというのならわかるが、反パレスチナ難民という立場を明確にし、政治活動もしていながら、その根拠となるところを秘匿する、よくわからない。

 

 後半の老弁護士と女性弁護士(実はこの二人は親子、ここにも物語のたねがあるのだが)、裁判長、言葉を発しないトニーとヤーセルの表情、惹きつけられるシーンである。老弁護士の主張もどんどんよれていくのもやや違和感。どっちを弁護しているのか、というトニーの表情。主張は女性弁護士と通じるようなところも。私にはこのへん、よくわからなかった。

そして判決。二人の間で争いは終わるが…。

 


 この映画、原題は「侮辱」なのに邦題では「二つの希望」が付け加えられた。

邦題を考えた人にはある「解釈」があるのだろう。


 それに呼応するシーンがあちこちにはめ込まれている。

 一審判決後、裁判所を出るときに二人の間に緊張がほどけるささやかな出来事が起きる。これが1つ。

 2つめはヤーセルがトニーの工場を訪れ、トニーに対して今までのヤーセルには考えられないようなトニーを誹謗する言葉を吐く。トニーは我慢がならずヤーセルの腹部を殴りつける。苦しそうに去っていくヤーセルは「悪かった」とひとこと。

 3つめが、再度無罪の判決が出て、裁判所を去る二人が遠くから視線を交わすシーン。

 

 どれほど歴史的、民族的、宗教的な根深い対立があろうとも、人間の深部には人を許し、わかり合える部分があるのだというメッセージだろうか。このメッセージを受け取って、スクリーンのこちら側の観客はほっと胸をなでおろす。静かな感動が胸に広がるということになる。


 これってやっぱり思考停止なんだろうなと思う。こんなふうに分かり合えることもないとは言わないけれど、街に広がった対立はそう簡単には消えないし、この後も世界のパレスチナいじめは続き、あちこちでパレスチナ難民は差別され続けるのだろう。歴史上繰り広げられてきた対立は、トニーのように何かきっかけがあればいつでも攻撃的なものを生み出す。それはヤーセルも同じこと。


 トニーとヤーセルの関係の変化は長い歴史がたどり着いた場所の幸福なメタファーではなく、万に一つの僥倖である。この対立は、今では欧州の問題であり、難民問題に安閑としてきた日本の問題でもある。おりしも日本は、外国人労働者の受け入れを広げざるを得ない時期に差し掛かっている。世界に広がる移民難民問題を、日本は近代化以降初めて経験することになる。すでに地域によっては始まっているこの問題、対岸の火事ではもうすまされないところまで来ている。


 この映画の公開にあたって、レバノン政府はかなり難色を示したという。「この映画は監督個人の考え方に沿ってつくられたもの」というクレジットを入れることで公開が決まったそうだ。それまで6か月かかったという。

 こうしたエンターテイメントの結末を用意してもなおレバノンを描くことは容易ではなかったということ。レバノンでつくられる映画は年に7本ほどだ。

 

 

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庭のナツハゼが紅葉しました(本文とは何の関係もありません)

『おじいちゃん死んじゃったって。』親の面倒にとどまらない兄弟の生得的な面を含めた心理的な葛藤を、あり得ない取っ組み合いにしてしまえばビジュアル的には確かに笑えるけれど、せっかく光石研、岩松了を起用したのだから攻撃的なセリフの言い合いではない「ため」が見たかった。

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 『おじいちゃん死んじゃったって。』(2017年・日本・104分・監督森ガキ侑大)。これは去年の11月公開の映画。


 『おじいちゃん死んじゃった』ではなくて『おじいちゃん死んじゃったって。』というタイトルは、印象的。家庭の中で伝聞で語られる肉親の死。近いようで遠い、遠いようでやっぱり遠い祖父。だからって両親や兄弟が近いかといえばそんなこともなく。


 葬式をめぐるドタバタの面白さ、慣習、しきたりと現実感覚のずれは伊丹十三の『お葬式』のセンスにはかなわない。この映画が葬式をめぐってというより、残された家族間の決定的な行き違いがテーマなのだろうから、それは仕方がないのだが、通夜や葬式を準備する段取りなどがもっと入ればリアリティが増したと思う。


 全体にファンタスティックな感じになってしまうのは、吉子(岸井ゆきの)の視点から語られるストーリーが、今一つピンとこないせいか。自宅でセックスをしている最中におじいちゃん死去の連絡を受けたことに吉子はずっとひっかかっているのだが、幼すぎるというか。インドの死のイメージも類型的。山崎佐保子の脚本にもっと深まりがあればと思った。思いは分からないわけではないのだが、随所に突っ込む不足と思われるところが。


 親の面倒にとどまらない兄弟の生得的な面を含めた心理的な葛藤を、あり得ない取っ組み合いにしてしまえばビジュアル的には確かに笑えるけれど、せっかく光石研岩松了を起用したのだから攻撃的なセリフの言い合いではない「ため」が見たかった。

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こういう映画、嫌いじゃないけれど、今一つかな。ふと思い浮かんだ映画が『チチを撮りに』(2017年・日本・74分・監督中野量太)。小中学生の姉妹の話だけれど、忘れられない佳作。姉妹のからだの動きにさえ微妙な心情が顕われる。子どもであっても幼すぎるとか類型的とは全く感じなかった。74分という時間もいい。

 

f:id:keisuke42001:20181013124329j:plainチチを撮りに』の1シーン

『坂の上のアポロン』昭和の雰囲気を出そうとしているのに、登場人物がみなあまりに今風。だから映画の中の空気がリアリティを欠いているというか。鼻の奥がツーンとなるようなしみじみとした懐旧、郷愁感は感じられない。久しぶりに残念な映画だった。

10月9日
久しぶりにTSUTAYAへ。見逃している映画を探しに。なんだかレンタル化の回転が速くなっているような気がする。ついこの間みた『ゲティ家の身代金』(5月25日公開)『ザ・スクエア思いやりの聖域』(4月28日公開)が“新作”で出ている。私は本厚木の映画.comシネマや新百合ヶ丘のアートセンター、黄金町のジャックアンドベティなどのいわゆる2番館(今では1.5番館に近いときも)に行くことが多いが、ものによってはここらで上映されるのとほぼ同じような時期にレンタル化されていくようだ。


 しかしこの2本は決して早い方ではない。TSUTAYAの新作のサイトを見ると、8月公開どころか9月公開というものもレンタル化されている。公開1か月でレンタルに。
つくった以上、なんとか資金を回収しなければならないということか。同時にネットの映画サイトにも売ることになるのだろう。
 この日は3本借りた。新作?だから値段も高い。

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 『坂の上のアポロン』(日本・2018年・120分・監督三木孝浩)。新聞の日曜版の「新作DVD紹介」の欄が絶賛。タイトルのセンスの良さもあってつい手を伸ばしてしまった。だまされやすい性格。

 三木監督の作品では『くちびるに歌を』(日本・2015年・132分)を全く期待をしないで時間調整のためにみたのだが、時間もかなり長く酷評が多かったわりに、私は飽きることなく最後まで楽しめた。で、柳の下の泥鰌と思ってみたのだが、正直がっかり。原作は漫画らしいが、ストーリーの流れも設定も通俗的でありきたり。み始めて20分ほどでつれあいと顔を見合わせてしまった。結末まで簡単に見通せてしまうし、実際、ほとんど予想は外れなかった。


 少し楽しめたのは、ジャズのセッションのシーン。文化祭のロックグループの発表の途中で停電が起き、場をつなぐ形で主人公二人がピアノとドラムでセッションするシーン、モーニンなどなつかしい曲。でも演奏はそこそこいいのに、周囲の反応の演出が古臭い。ひねりなさすぎ。演奏が終わるとどこに向かっていくのかわからないが(夕日ではなかった)、ふたりで「走る」のが意味不明。

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 教室での授業中、主人公二人が、かたや机を鍵盤にして叩くのに鉛筆二本のドラムで応じるのもよかった。ただこのシーンも周囲の反応含めてリアリティなし。

 レコード屋の地下(この設定、意外過ぎてすごい)で、中村梅雀のベース、ディーンフジオカのトランペット、そしてドラムとピアノのセッション、これもいいのだが、ディーンフジオカが東京の学生運動から脱落、失意の帰郷中というのがよくわからない。だいたいディーンは大学生には全く見えない。とってもきれいな女の子と再会して二人で東京に?戻っていくのもなんだか。
 もう1シーン。部隊が佐世保なので米兵がよく来るバーのような店で、米兵とけんかになりそうなところで主人公がドラムを叩き始める。周りはなごんで米兵も喜ぶ。なんだかキレがない。
 時代考証としては昭和の雰囲気を出そうとしているのに、登場人物がみなあまりに今風。だから映画の中の空気がリアリティを欠いているというか。鼻の奥がツーンとなるようなしみじみとした懐旧、郷愁感は感じられない。久しぶりに残念な映画だった。
 それでも最後までみてしまったのだたが、中には半分までもみられなかった映画もある。最近では『ミンヨン 倍音の法則』(2014年・日本・140分・監督佐々木昭一郎)。タイトルは素晴らしいが、思い込みを延々と見せられそうで。

野のなななのか』(2014年・日本・171分・監督大林宜彦)。奇を衒いすぎだと思った。

 それもあって大林の最新作『花筐』(2017年・日本)はみていない。檀一雄の原作を読んでみたが、これを大林が撮ると思うとげんなりしてしまった。

 二作ともいい作品だよという方には申し訳ないのだが。

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f:id:keisuke42001:20181012091045j:plain花筐の1シーン

教員という職業がもつ宿啊に絶望し、大男のインディアンの“チーフ”が深夜に院内に設置してある重厚な水栓を根こそぎ抜き、窓にぶちあてて夜明けの草原を走り去るラストシーンをみて、自分もどこか遠くの地に自由を求めて立ち去りたいと妄想したものだ。

10月7日
 台風25号温帯低気圧に変わり、日本海から北海道へ。また雨を降らせているようだ。
 正午過ぎ、部屋の温度が30度を超す。真夏日?明日は二十四節季の寒露。日差しは真夏に比べ少しだけ部屋の奥まで入ってくるように。


 日課の散歩は今日は取りやめ。急に右ひざの裏に痛みが出る。もともと悪いのは左ひざなのだが。加齢のせいだろう。つれあい一人で散歩に出かける。


 9月の終わりから大学の後期の授業が始まった。今年も17人の学生と演習に取り組む。いつにもまして大学院に進む学生が多い。内定をもらっている学生もいるようだが、教員採用試験が受かれば蹴るという学生も。


 大学でろくに勉強をしなかった自分が、始業時間の前に教室に来ている熱心な学生に授業をするなどおこがましいことだと思う。4年生まで一般のドイツ語と教職の書道の単位が取れなかったことを伝えると、みなうっすらと笑ってくれる。寛容である。


 22歳から23歳。1976年、私は道に迷ってうろうろしていたのに、はずみで公立中学の教員になってしまった。あんのじょう、教員という仕事になじめず鬱屈した日々が続いた。


 唯一の逃げ場は映画館だった。今ではみな閉じてしまったが、鶴見駅の鶴見文化、京浜映画、黄金町の大勝館、横浜日劇天王町のライオン座、白楽の紅座、伊勢佐木町の関内アカデミーなどの3本立てを延々と見ていた。

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あの年、忘れられない映画が一本ある。『かっこうの巣の上で』(1975年・アメリカ・原題:One Flew Over the Cuckoo's Nest・監督ミロス・フォアマン・主演ジャックニコルソン)

 75年アカデミー賞の監督賞、主演男優賞、主演女優賞、作品賞、脚色賞を受賞している。
 ミロス・フォアマンチェコ生まれ、プラハの春に対するソ連の介入から逃れアメリカに。のちに傑作『アマデウス』(1984年)をつくる。ジャック・ニコルソンは『イージーライダー』に始まって『郵便配達は二度ベルを鳴らす』『シャイニング』など枚挙にいとまがない名優だ。

f:id:keisuke42001:20181007173154j:plainジャック・ニコルソン


 ルイーズ・フレッチャーが演じる精神病院の婦長ミルドレット・ラチェット、彼女の患者に対する言動が、76年当時の中学校の管理的な教育と重なり、自分はこの婦長の側に仕事を得たのだと思った。映画そのもののもつ深みと味わいより、教員という職業がもつ宿啊に絶望し、大男のインディアンの“チーフ”が深夜に院内に設置してある重厚な水栓を根こそぎ抜き、窓にぶちあてて夜明けの草原を走り去るラストシーンをみて、自分もどこか遠くの地に自由を求めて立ち去りたいと妄想したものだ。

f:id:keisuke42001:20181007173211j:plain            左がミルドレット・ラチェット


 まだ70年学園闘争の空気がそこここに残っていた時代、“自己否定”という言葉は現実逃避と裏表でもあった。
 結局、私は走り去ることもできず、定年まで一教員として働いてきた。
今、同じ歳まわりの学生たちに相対して、それこそはずみで授業をもつことになった自分が言えることは何なのだろうと考える。たいそうなことが言えるはずもない。自分が歩いてきた道を点検するつもりで話をするのだが、なかなかうまくはいかない。しどろもどろぶりを見てくれればいいのかなとも思う。
 授業の最後には、【余談】と銘打って「今週の映画」と「今週の本」というコーナーがある。簡単な紹介を書いておくのだが、時間が余ったときは少しだけ話をする。教員の仕事にはすぐに役に立たないものを選ぼうと思っている。『かっこうの巣の上で』もいつか紹介するつもりだ。 

梯剛之(p)・松本紘佳(V)でデュオコンサート・・・大曲3曲の中には、何百か所も互いに相手を感じて出なければならない箇所があると思うのだが、彼らの中に戸惑いのようなものが生じたように見えたことは一度もなかった。

 9月30日、西国分寺の“りとるぷれいはうす”にて、梯剛之(かけはし・たけし)(P)と松本紘佳(V)のデュオを二人で聴きに行く。前回の佐藤卓史と松本のデュオが9月3日だったから、まだ1か月経っていない。キャリアとしては佐藤より格段に上であると思われる梯とのデュオ、台風24号の関東通過のその日であったが、キャンセルなど選択肢にも上がるはずもなく、勇んで出かけた。 プログラムは、

 


  ベートーベン ピアノとヴァイオリンのためのソナタ第2番イ長調Op12-2
  ドビュッシー ヴァイオリンとピアノのためのソナタ
             休憩
  R・シュトラウス ヴァイオリンソナタ 変ホ長調Op18


 
 “盲目の天才ピアニスト”という形容詞は、今では辻井伸行に使われることが多いが、梯も長いことそう呼ばれてきた。

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 ウキペディアによると、梯は生後1か月で小児がんのために失明。小学校を卒業すると同時に渡欧、ウイーン国立音楽大学準備科に入学、エリック・ハイドシェックアンドラーシュ・シフらの薫陶を受けるとある。父がN響ビオラ奏者、母が声楽家という家庭にあって、早くから才能を見出しウイーンに送り出したようだ。

 

 4年後、オーストリア放送協会のオーディションで優勝、以後欧米のコンクールで数々の入賞を果たし、世界中のオーケストラ、指揮者との共演を重ねてきた。
 チャリティ活動にも熱心で、小児がん基金の設立やクラシック音楽振興にも力を尽くしている。
といったことも今回初めて知ったのだが、とにかく彼の演奏を生で聴くのは初めて。

 

 今回のステージは、もともと梯が長年デュオを組んでコンサートや録音を続けているヴォルフガング・ダヴィッドさんとのデュオの予定が、スケジュールに手違いがあり来日が遅れることになってしまったとか。そこで急きょ代役として松本紘佳が指名されたことを、コンサートを主宰している小俣さんの口上で知った(松本の母でピアニストの福島有理江さんが、やはりアンドラーシュ・シフに師事していたことも今回のデュオ結成のきっかけになったのかもしれない)。

f:id:keisuke42001:20181003115621j:plain昨年のポスター。今年12月8日にもJTホールでヴォルフガング・ダヴィッドさんとのコンサートがある。

 

 いわば急ごしらえのデュオではあるのだが、実際に耳にしたふたりの演奏からはそんなことは全く感じられなかった。


 梯はまったく目が見えない。ステージに上がるのも松本が手を貸す。梯は左手でピアノを探りながら坐る。

 デュオの場合、声楽でも弦でも演奏家はピアノの前に立ち、ピアノに視線を投げかけ曲の出だしのきっかけをつくっているものだ。ここでも松本は聴衆の方に向かい梯に背を向けている。何をきっかけに始まるのだろうか。

 第1曲ベートーベン、なんとも造作なく軽やかに明るい演奏が始まる。

 音の出る直前に松本独特の“息を吐く”(たぶん)音が聞こえた。これか。いや、これは前回の佐藤とのデュオの時にも聞こえた。

 ジャズでもそうだが、視線を交わすだけで難なく演奏が始まることすら素人には不思議なことだが、梯と松本の間には、演奏家同士でなければわからない“空気”があるとしか思えない。

 大曲3曲の中には、何百か所も互いに相手を感じていなければならない箇所があるはずだが、彼らの中に齟齬や戸惑いのようなものが生じたように見えたことは一度もなかった。

 見えないということが、音楽をつくるこの二人にとってはなんら障壁にはなっておらず、それはそのまま聴く方にも伝わってくる。


 言い忘れたが今回の私たちの座席は、ヴァイオリンを弾く松本の斜め前約1.5m。奏でる音以外の音もよく聴こえる距離で、二人の様子も細大漏らさず見て取ることができた。
 当たり前だが、梯は完全暗譜。松本は楽譜をめくるが見ているふうはない。さらに松本の楽譜はよくよく見るとヴァイオリンのパート譜だけ。ピアノパートは入っていない。それぞれが自分のやりかたで演奏しながら耳だけで互いを聴き分け、精妙なアンサンブルをつくりだす。素人の想像には及びもつかないものがあるのだなと思った。

 

 さて演奏の方だが、最初のベートーベン、いつも思うことだが「楽聖ベートーベン」という後世の厳めしいイメージとはかけはなれたもの。これを若い二人が軽やかにうたい上げるという印象(梯は若いとは言えないか、失礼)。松本の方に一瞬流れが止まるところがあったように思われたが、気にはならなかった。
 

 ドビュッシーは、前回の佐藤の時と同様、印象派風の幻想的な音の心地よさを感じさせてくれた。これってたったふたつの楽器?という感じ。

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 圧巻だったのは、R・シュトラウスだ(ワルツのヨハン・シュトラウスとはまったくつながりのない人。あちらはオーストリア、こちらはドイツ。ナチスとの関係でも毀誉褒貶のある人)30分近い大曲だが、難解かつ現代的なR・シュトラウスというイメージ(私の勝手な?)とは少し違った。24歳時の作曲ということから、ロマン派的な?部分が十分に盛り込まれている。全体にダイナミックな変化に富み、きわめて繊細なところと、これがデュオかと思うほどのスケール感とがかみ合って、素晴らしい演奏となった。
 

 

 帰りに梯のCDのサイン会があるというので、一枚購入した(モーツアルトピアノ協奏曲第11番12番13番:オケはアカンサス・Ⅱ2018年4月15日東京文化会館小ホール)。サインは梯孝則(この録音にも参加している)が手伝ってCDの盤面にしてくれた。
 

 もう何度か聴いたが、指揮者のいない演奏、ピアノの屋根を外してオケがみな梯を見ながら演奏するというスタイルだとか。やわらかくて繊細なモーツアルトだなと思った。
  

 

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『朝、目が覚めると戦争が始まっていました』(方丈社・2018年)問題は、書籍の中の人々の言説そのものではなく、私自身が感じる「違和感」に組み込まれている歴史意識とか戦争観なのではないかという気がする。


 『朝、目が覚めると戦争が始まっていました』(方丈社・2018年)を読んだ。方丈社は名前の通り小さな出版社のようだ。『特攻セズ 美濃部正の生涯』『復刻版大正っ子の太平洋戦記』を出版している(前者には惹きこまれた。後者は未読。ようやく横浜市の図書館で「待ち1名」まで来ている)ところ。面白そうな本が並んでいる。

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 1941年12月8日の対米開戦の報を、当時の文化人、物書きといわれた人たちはどう受け止めたのかを著書や日記から抜き出し、羅列した本。今までになかった企画だ。


 ここに登場する人々は当然のことだが、1941年に至るまでの歴史と時間の連続性の中にいる。今とは違う独特の時代の空気も思い切り吸い込んで、自己形成を重ねて生きてきた人々だ。それを12月8日時点で断ち切ってその断面を見てみようというのが出版の意図のようだ。


 12月8日という“断面”にどれほどのものが顕われるのだろうか。抜粋の仕方によっても受ける印象は変わってしまう。抜き出す部分が短いだけに、編者の恣意が入り込む可能性も否定できないが、一読してその懸念は払しょくされた。センスというか抜粋の視点がきわものになっていないと思った。


 若い世代にとってはこれほどのドラスティックな出来事を何の感興もなく受け取ることはありえない。未熟であろうとなかろうと、それまで形成されてきた思想がそこに表出されるのは当然と言えば当然のことだ。


 驚きながら読んだ。この人ならそうだろう、この人がこんなことを?それはそれで興味深かったが、問題は、書籍の中の人々の言説そのものではなく、私自身が感じる「違和感」に組み込まれている歴史意識とか戦争観なのではないかという気がする。読後感に顕われる自己意識の点検という意味で、私にとっていい本だと思った。
 以下感じるところがあったものを、若い世代のものを抜き出してみる。


ものすごく解放感がありました。パーッと天地が開けたほどの解放感でした。

                         (吉本隆明 思想家17歳)

今日みたいにうれしい日はまたとない。うれしいというか何というかとにかく胸の清々しい気持ちだ。
                           (黒田三郎 詩人22歳)

いよいよ始まったかと思った。何故か體ががくがく慄えた。ばんざあいと大聲で叫びながら駈け出したいやうな衝動を受けた。(新美南吉 児童文学者 28歳)

歴史は作られた。世界は一夜にして変貌した。われらは目のあたりにそれを見た。感動に打顫えながら、虹のやうに流れる一すぢの光芒の行衛を見守った。胸ちにこみ上げてくる。名状しがたいある種の激発するものを感じ取ったのである。

                        (竹内好 中国文学者 31歳)

勝利は、日本民族にとつて実に長いあひだの夢であつたと思ふ。すなわち嘗てペルリによつて武力的に開国を迫られた我が国の、これこそ最初にして最大の苛烈極まる返答であり復讐だつたのである。維新以来我ら祖先の抱いた無念の思いを、一挙にして晴すべきときが来たのである。
                      (亀井勝一郎 作家 34歳)

 

私はラヂオの前で、或る幻想に囚われた。これは誇張でもなんでもない。神々が東亜の空へ進軍してゆく姿がまざまざと頭の中に浮かんで来た。その足音が聞える思ひであった。新しい神話の想像が始つた。昔高天原を降り給うた神々が、まつろわぬ者どもを平定して、祖国日本の基礎を築いてきたやうに、その神話が、今、より大きなる規模をもつて、ふたたび始められた。私はラヂオの前で涙ぐんで、しばらく動くことができなかった。(火野葦平 作家 34歳)

 

(略)僕はラヂオのある床屋を探した。やがて、ニュースがある筈である。客は僕ひとり、頬ひげをあたっていると、大詔の奉読、つづいて、東条首相の講和があった。涙が流れた。言葉のいらない時が来た。必要ならば、僕の命も捧げねばならぬ。一歩たりとも、敵をわが国土に入れてはならぬ。坂口安吾 作家 35歳)

 

(略)妖雲を排して天日を仰ぐ、といふのは実にこの日この時のことであつた。一切の躊躇、逡巡、猜疑、曖昧といふものが一掃されただ一つの意志が決定された。瞬時にしてこの医師は全国民のものとなつたのである。(島木健作 作家 38歳)
  
 待ちに待った、ようやく遺恨を晴らす時が来たといった感の強いものが多い。抜き出してはいないが保田與十郎のように神がかっているように感じるものも。一方には次のようなものもわずかだがある。

 

(略)まさか―私はガク然とした。日本は独伊と同盟を結んでいた。しかしそれは米英などとのさまざまの交渉を有利に展開するためのかけひきであって、強硬なのも結局ポーズだけかと思っていたのに。/もう入隊は決まっている。ああ、オレは間違いなく死ぬんだ。死んでやろう。私ははり裂ける思いで家の外に飛び出した。ふりあおいだ冬空は限りなく青かった。(岡本太郎 芸術家 30歳)

いま、力足らず、敵の手にとらわれて破局的な戦争開始の報を、看守の好意によって聞かされる不甲斐なさ!われわれの力がつよく、せめて労働者階級と青年たちの眼だけでも開かせ、もっと強くこの戦争に反対することができていたならと、胸は痛んだ。明日の運命をも知らずに宮城にむかう大群衆の足音、天地をゆすぶるような万歳の声、人びとのこころをかりたてるような軍歌と軍楽隊のとどろきが地下室の留置場までひびいてくるのを、なすすべもなくじっと聞いているくやしさ。にじみ出る涙もおさえきれなかった。(神山茂夫 社会運動家 36歳)

十一時起される。起しに来た女房が「いよいよ始まりましたよ。」と言ふ。日米つひに開戦。風呂へ入る、ラヂオが盛んに軍歌を放送してゐる。・・・それから三時迄待たされ、三時から支度して、芝居小屋のセットへ入ったら、暫くして中止となる、ナンだい全く。(古川ロッパ コメディアン 38歳)