関千枝子さんのこと。

7月初めに、卒業生のOさんからメールをもらった。上の写真が貼り付けてあった。

実家に帰った時に、お母さんから「持って帰る?」と渡されたとのこと。弟さんの学年の時に配布されたものをファイルして保存してくださっていたとのこと。

 

Oさんからは、昨年暮れに突然メールをいただいた。卒業以来の音信。33年ぶり。15歳だった彼が48歳になっていた。

 

この通信、発行主体は「学年総務」となっていて、誰が書いたものか書かれていない。でもOさんが「文章が赤田先生っぽい」と言うように、私が発行していたもの。学年だよりは、その後2つの学校でも発行し続けたが、これが最初のものだ。

印字具合と時期を考えると、パソコンではなくワープロ

29年前。横浜の運河のある中学に勤務していた時のものだ。

1993年というとOさんが卒業した2年後、弟さんが中2の時のもの。初めての広島修学旅行に出かける2ヶ月前。私もファイルして持っていたはずだが、見つからない。

 

タイトルの『紙風船』は黒田三郎の詩からとった。

この日のたよりは、広島修学旅行の事前学習に、元毎日新聞記者の関千枝子さんをお呼びした時の報告。

左側は、今も版を繰り返している『広島第二県女二年西組〜原爆で死んだ級友たち〜』(1985年・筑摩書房)からの引用。

 

関さんは当時広島第二県女の2年生。1945年8月、夏休みであったが、建物疎開の動員されていた。関さんは6日の朝、体調が悪く宇品の自宅にいて建物疎開作業に出かけなかった。彼女以外に欠席した人が6名。出席した級友40人全員が原爆死した。のちにお一人生き残っていて関さんと再会した。

『二年西組』の文章は、状況を的確に描写し、感情を抑制した素晴らしいルポルタージュ。圧倒的な筆力を感じさせる渾身の作品。中学生には難しいと思ったが、いいものは伝わる。熱心に読み込んだ生徒が何人もいたことを覚えている。

 

怖いもの知らずというのも失礼だが、ぜひ生徒にお話をしてほしいと連絡をしたのだった。

 

1993年3月13日の土曜日、手帳に「五日制休業日」とあって、「10:00 山手駅 関千枝子さん面談」。1週間前に打ち合わせでお会いしていたようだ。

山手駅はJR根岸線の駅。お住まいの最寄駅。

 

そしてこの日3月19日、関さんが学校に来てくださった。

手帳には「10:15東神奈川駅迎」「小園さん、谷さん同乗」とも。私は運転しないので、同僚がクルマを出してくれたのだろう。

小園優子さんは加納実紀代さんを中心とする銃後史研究のグループの方。関さんを紹介してくださったのは小園さんだったかもしれない。

谷栄さんは「日本戦没学生記念会」(わだつみ会)の会員。小園さんや私とともに『「建国記念の日」を忌年する2・11の集い』を一緒にやっていた。田中信尚さんや赤坂憲雄さん、内山節さんなどをお呼びしていた頃だ。

 

関千枝子さんというと、いまだに怖い印象がある。

6月に広島を訪れた時、児童読物作家の中澤晶子さんと毎日新聞記者の宇城さんと会食したときにも、宇城さんの先輩記者にあたる関さんに話が及んだ。

中澤さんに、関さん、どう怖いのですか?と問われ困ったのだが、相槌など打たず、ストレートな物言いの60歳の女性の鋭い視線は、40歳になったばかりの、広島のことなどろくに知らない教員を十分にたじろがせるものがあった。ありきたりな言い方だが、存在感とか迫力といったほうがいいかもしれない。

 

たよりの右側には、関さんが生徒の事前学習の張り物を見て回ってくださった時の様子が書かれている。お時間があれば、拡大して読んでみてほしい。私にとっては、関さんとの二度目の出会い。緊張が伝わってくる文章だ。

次の学校でも来ていただいた。生徒が落ち着かなく、叱られた記憶がある。

 

初めてのお話は文章に起こして、修学旅行文集に掲載。広島の原爆資料館の資料室にもおいてもらっている。

 

関千枝子さんは2021年に亡くなった。88歳。

亡くなる3ヶ月ほど前、東京であった小さな集会で姿を拝見している。

 

Oさんが送ってくれた学年だより。書いた方は忘れていても、とっておいてくださる方がいる。そして、その中に亡くなった方の姿が書かれていて、それを今、書いた自分が読んでいる。なんだか長い時間のかかったリレーのようだ。

 

 

広島第二県女二年西組 ─原爆で死んだ級友たち