オトナのひろしま修学旅行2023』感想集④ 「平和」という口当たりのいい言葉を、酷く無残に殺された人たちの上に被せた広島を垣間見た。

被覆支廠・・・

 軍人とうさぎという対照に戦争の恐ろしさを見ました

                        

                          横浜・80代

 

 

 

ちちをかえせ ははをかえせ

としよりをかえせ

こどもかえせ

わたしをかえせ わたしにつながる 

にんげんをかえせ

にんげんの にんげんのよのあるかぎり

くずれぬへいわを

へいわをかえせ

 

 ヒロシマという時、私の脳裏に浮かぶのは、この峠三吉の詩なのです。この後に続く、被爆後の人々の有様も”リアルを超えて”リアルに描かれています。

 今回のオトナの修学旅行で見聞したたくさんの事柄も、この詩の強烈さを裏付けるものでした。以下、印象に残ったいくつかを記したいと思います。

<第一日目>

平和公園を歩いて、原爆供養塔ほか広島二中、市立高女等の悲惨な死を想い、又、前回 はたしか公園の外の川岸の木の陰にそっと建てられていた韓国・朝鮮の方々の大きな碑を見て、当時のヒロシマの”軍都”の悲劇をあらためて痛感しました。

・物足りなかった原爆資料館

G7の方々が見学したという資料館は、残念ながら私が初めて見たありのままの酷さが伝わらず、何か、隠された意図を思わせる陳列のように感じました。なぜでしょう?

<二日目>

・旧陸軍被服支廠

 まさに”軍都広島”そのまま。ここについては中澤晶子さんの著書『あなたがいたところ14歳のひろしま ワタシゴト2』に”うさぎを飼っていた”ことが書かれていて、強い印象がありました。

 なぜうさぎを?軍服は寒さに強いことが求められます。うさぎの皮を剥いで軍服に使われたのです。軍人とうさぎという何とも云えない対照に戦争の恐ろしさを見ました。

 圧倒される赤レンガの強靭な建物がいけどもいけども続いています。現在残る4棟だけでも強さ、大きさが伝わってきます。鉄筋コンクリート造とれんが積みを併用した、当時最も新しい技術だったとのこと。1913年竣工ですから、第一次大戦前の、軍国主義政府が、科学と技術の粋を集めて造ったものでしょう!その巨大な建物も、原爆の爆風を受けて、鉄扉が曲がっています。当時は、被爆者の救護所になり、負傷者が水を求めて呻く狂声に包まれていたとのこと。次々に亡くなる人は、そばで火葬にされたそうです。今は、草むらに小さな花をつける通路を歩みながら、草や蔦が絡まっている延々とした屋根を見上げました。まさに”軍都ヒロシマ”の象徴です。

・植田䂓子さんのお話

 いちじく農家に育ったという植田さんは、被爆体験を語る方とは見えない、凛とした強さをもっていらっしゃいました。「私、ラッキーでした」と何回も話され、血を吐くような人々を見て通り越したこともあり、大変な苦労があったにも拘らず、常にラッキーに恵まれたと語られました。私はその人生観が腑に落ちず、原爆投下の現実を直視した時、アメリカや日本の政府に、どんな感想をお持ちでしたかと質問したのですが、米軍にも政府にも怨みつらみなどないお考えでした。

<三日目>

・豊永惠三郎さんのお話

 豊永さんは高校教員をしながら、40年も被爆体験の証言活動をしていらっしゃいます。

 8月6日の朝は、学校を休んで、中耳炎の治療のため、一人で出かけた先で、後ろから轟音が聞こえ、きのこ雲を見たそうです。母親と3歳の弟が気になって、探したところ、母親は大火傷で顔は黒く腫れ上がり、大変だったとのこと。その後回復して母親と弟と3人で生活。大学を出て高校の教員になりました。広島の”伝承の会”継承者をつくる平和運動をしています。

 私が心を打たれたのは、研修で訪れた韓国で在外被爆者の惨状を知り、援護を求める活動を始められたことです。日本政府は海外に住む被爆者には被爆者援護の法律を適用しないとの通達を出しましたが、その後40年裁判を通し、ねばり強く活動を続けています。植民地にした上、差別に差別を重ねて「被爆者手帳」の発給や医療支援をしない日本政府のやり方に、強い怒りを感じるとのことでした。在韓被爆者も在朝被爆者も年を重ねて、自分では日本に来られなくなっています。日本政府は、被爆者を訪ねて心からの謝罪と賠償問題の解決をすべきです。加害の歴史をもっともっと明らかにしなければなりません。

<まとめとして>

 まだまだ記録しておきたいことはたくさんあります。特に初日に見学した平和公園の無数の方々の死を何と表現してよいかわかりません。何と理不尽なことか!憤りを強く感じます。峠三吉の詩そのものです。これが”軍都ヒロシマ”の結果なのでしょう。何故にこんな悲惨なことに?と問うとき、国民から搾り取った莫大な資金を使って”軍都”築いた政治の責任を問わざるを得ません。

 そして今、岸田内閣のもと、たくさんの犠牲を顧みないで、軍拡に突っ走る政治の行き着く先は何か?私に何ができるか?問う毎日です。

 最後に、膨大な資料をつくり、実践してくださった赤田さん、そして終始”真実”を伝える努力をしてくださった中澤晶子さんに深く感謝申し上げます。

峠三吉詩碑・裏面

 

 

 

『広島』は核廃絶の意志を示してと語りかけている場

 

                          横浜・60代

 

 

 

 『広島』は何を伝えようとしているのでしょうか 。原爆は大虐殺の兵器であり アメリカの責任を問うものではないのか なぜ 問わないのか そういう疑問を持って参加しました。

 被爆者数が42万人という数字 なのは 1つ目に学徒動員で類焼を防ぐために建物を間引きして壊す 作業に駆り出された 中学生 や 高等女学校生が市内に集められたからだそうです。戦争のために集められたからです。

 2つ目に 朝鮮人被爆者は5万人 爆死者は3万人という驚く数字は日本の植民地支配によるものです。強制労働にかりだされたものです。それと広島の街が軍都として機能していたためでもあります。2日目に案内された旧陸軍被服支廠、圧巻の建物 4棟は全体からすればほんの一部でした。陸軍の権力 財力 そして軍都としての機能を伝えるものとして目に焼き付いたものでした。

 3つ目に救援に入り 被爆した人たちです。

 語り部の方から聞いたことや説明を受けたこと。

・学徒動員を休みたいと言ったのに無理に行かせて死なせてしまった。あの時 行かせなければという後悔。

・水を求めて、水、水、水とさまよう姿。

・両手を前にぶら下げて皮膚が垂れ下がって歩く人々。

・お母さんを探しに行って顔が火傷でお母さんがわからなかった。

放射脳症で1日に10回以上下痢をし、どんどん 衰弱していく。 死ぬと思った。 幸運に  も生きることができた。

・橋の落ちた川を渡った。

・自宅が焼けた。納屋の二階に住まわせてもらった。

・風呂に貯めておいた水が本当に美味しかった。

・すぐに死なず 苦しんで苦しんで殺してくれと言って死んでいった人々。

原爆症に苦しむ人々。

・何十年かしても顔、手、足にケロイド症状の人と街で会った。

・逃げる時 死体の上を歩いた。

・川で流れてしまう 遺体をマグロを引っ掛ける棒で岸へ上げた。 どうしてそんな粗末なことができたのか。 あの時は正常ではなかった。

・妹が未だに見つかっていない。

 

 爆心地に一番近い小学校。本川小学校は内部が見学できる建物。400人もの児童が殺されました。 臨時 救護所となり 負傷者で溢れ返り校庭では死亡した人たちが数多く 焼かれたということです。

 原爆供養塔には一家全滅で身内の 見つからない遺骨や 氏名の判明しない遺骨 約7万 柱が納められています。氏名のわかっているものを全国の役所に名簿を毎年 公開して未だに遺族を探しているという事実を知りました。

 平和公園は 40cm くらい 盛土がされています。 遺体の跡や血痕 とかを隠すため。自分の立っている地面の下には死体があったと想像できます。

 

 「過ちは繰り返しません」

 誰もが 被爆の体験を聞き、 被爆の実態を知り、 死者の無念さを知れば自ずと 自ら 「過ちは繰り返しません」 と誓うだろうと思います。

1階と地下があります。_本川小学校平和資料館

本川小平和資料館

 『広島』はアメリカの責任追及よりも、『広島』を知り、あなたが核廃絶の意志を示してくださいと語りかけている場であると思います。核廃絶をどのように意思表示していくかが問われていると思います。

 最後に富永惠三郎さんは韓国人原爆犠牲者を救援する会の活動をされ、在外被爆者裁判を43も支援されてきた方です。裁判などせずとも当然与えられるべき手帳、健康管理手当、医療特別手当等を裁判によって勝ち取りました。素晴らしい活動をされてきた方を知れて良かったです。

 計画してくださった赤田さん、私が参加できるようにしてくださった森下さん、ご一緒してくださった皆さんありがとうございました。お世話になりました。

 

 

 

 

川沿いのたくさんの慰霊碑

「おもっている かつて娘だった にんげんのむすめだっ  た日を」(峠三吉の一節を思い出した

 

                          横浜・60代

 

                           

 

 一言で言えば、「広島のことを何も知らなかった」です。「平和都市ヒロシマ」「唯一の被爆ヒロシマ」という言葉の中身をこれまで何も知らないで過ごしてきたことを痛感しました。自分自身が広島の被害を隠してしまう土埃の一つだったような気がします。赤田さんの今までの広島修学旅行の取り組みの成果を、何の苦労もなくいただいてしまったようで本当にありがたく、せめて感想文でも提出しなくてはと思いました。

 「原爆供養塔」に、中澤さんが真っ先に連れていってくれた意味が、堀川惠子さんの本を読んで分かりました。墓守をされていた佐伯敏子さんの「死者を見捨てることは、できん」という思いを、中澤さんが今、物語という形で表現されているのですね。緑色の「土饅頭」を、3日目の朝に改めて拝みに行きました。供養塔はひっそりとしていましたが、中に置かれている被爆者の遺骨たちの声を届けようとする人たちが確かに広島にいるのだと思いました。供養塔は、丹下健三デザインの原爆慰霊碑の前で祈る人たちには見えないようにされてしまっているようです。ここの遺骨を見つめて、その声を聞くことが広島に来る意味ではないでしょうか。

 「平和祈念館」は、一人ひとりの被害に焦点を当てようとしているようでした。この人もこの人も亡くなったと見ているうちに被爆家族の展示があって、被爆によって家庭が崩壊してしまう様子が写真とともに説明されていました。言わば家族の「恥」を見せるようなもので、展示を承諾した方はどんな気持ちだったのでしょう。原爆投下から始まる展示には少し違和感も持ちました。なぜ広島だったのか、軍事都市広島の面がすっぽり捨象されていました。

 川沿いに建ったたくさんの慰霊碑は、それぞれの学校から駆り出された少年少女たちに捧げられたものでした。峠三吉の「おもっている かつて娘だった にんげんのむすめだった日を」という詩の一節を思い出しました。痛ましいとしか言いようがありません。

 「旧陸軍被服支廠」は、その大きさに圧倒されました。また、この建物が百年以上たって被爆しながらも建っていることは、幸運だと思いました。それでも、屋根の上に生い茂る草木は容赦がありません。被爆観光でもいい、文学館と物産店でもいい、何とか全棟残してほしいです。全棟あることで、広島の軍都としての大きな役割が実感できると思いました。また、「倉庫の記録」の場所として、広島の文学館とするのは一番の良策です。入口付近にいた黒い野良猫は、倉庫の番人でしょうか。逃げもせずに私たちを眺めていました。

 「植田䂓子さんのお話を聴く会」「豊永惠三郎さんのお話を聴く会」を設けてくださり、貴重な体験でした。初めて被爆体験者の話を聴くことができました。植田さんは、女学生が大人になったような方でした。ご自分の人生を幸運と仰ってましたが、実際に奇跡のような幸運で生き延びていらしたのだと思いました。豊永さんのお話のなかで、弟さんがいつの間にかお母さんの体の下にいて助かったという話は不思議でした。また、韓国・朝鮮の人たちの被爆者手帳取得への裁判闘争の数々は大きい成果ですね。こういう方たちがいらして本当に良かったです。

 「縮景園」では、大名庭園被爆して破壊され死体で埋まり、そして復旧される歴史を体感しました。木に語らせる物語があるのかもとふと思いました。

 「サゴリ」の加納実紀代さんの資料の数々も印象深かったです。物の語る歴史というか、書物が時代を証言するというか、そういうものを感じました。大事に次の世代に引き継いでほしいと思いました。

 「平和」という口当たりのいい言葉を、酷く無残に殺された人たちの上に被せた広島を垣間見た思いでいます。堀川さんの「原爆供養塔」には、1946年に当時の市長が供養塔の前で述べた弔辞が載っています。「本市が被りたるこの犠牲こそ、全世界にあまねく平和をもたらした一大動機を作りたることを…」と、原爆の投下が平和を作ったとばかりの言いようは、あまりにもひどいけれど、この5月に行われたG7の会議で核の抑止力ばかりが強調されたことに地続きでつながっていますね。

とりとめのない感想ばかりですが、お送りします。本当にお世話になりました。ありがとうございました。