『オトナのひろしま修学旅行2023』感想集② 『ワタシゴト』(中澤晶子)第三集にて完結!

いつものところで ワタシゴト 14歳のひろしま・3』(汐文社・税込1,760円)

オトナのひろしま修学旅行のほぼ全行程にわたって同道、案内をしてくださった中澤晶子さんの新刊が出た。「ワタシゴト」シリーズの完結編である。20年以上にわたる著者と横浜の中学生との交流の中から生まれた連作物語集の完結編。

 

『ワタシゴト 14歳のひろしま・1』

『あなたのいたところ ワタシゴト 14歳のひろしま・2』

 

 

              遠くて、重い広島

                            横浜・70代

 

 

 新横浜から3時間半、降り立った広島には、色とりどりの電車が!まるでおもちゃのよう!皆さんより1日早く入った広島は、ちょうど良い曇り空。これから出合う広島に胸躍る。出かける寸前まで読んでいたのは、堀川恵子さんの「チンチン電車と女学生」。広島に原爆が落とされた3日後の8月9日、西天満から己斐まで電車が走ったという。運転していたのは43年に設立された広島電鉄家政女学校の生徒ら。あれだけの焼け野原にどうやって電車が走ったのか?不思議でならない。

植田さんと冨永さんのお話

 植田䂓子さんは、罹災証明を出してくれた市の動きの素早さや腰が抜けたお婆さんの乳母車が手に入ったことなどをラッキーだったとおっしゃる。「たったそれだけのことなのに」と一瞬の出来事を表現された。被爆した1歳年下の妹が着ていた忘れられない洋服との出会いについては語られなかった。妹を救えなかった無念の想いはどんなだったのだろう?物事の受け止め方、またその表現の仕方にはそれぞれ大きな違いがあるのだと心に刻んでおかなければと思う。

 豊永惠三郎さんは当時9歳、3つ年下の弟と母の三人家族。中耳炎の治療で家を離れていた9歳の男の子は、船越の親戚を訪ね、祖父達と3日後大八車を引き、母と弟を探しにいく。目の見えなくなった母の手を引いた3歳の弟との再会は、どんな思いだったろう?「つやこ〜!」「おじいちゃ〜ん!」という声はどんなふうに響いたのだろう?その後続いた放浪ともいえる生活。見せてくださった被爆者健康手帳。お話したいことはもっともっとたくさんあるのに違いない。在日外国人や在外被爆者の裁判に関わってこられた契機などの話をお聞きしたいと思う。

 文章では読みきれないことがある。目の前で語ってくださること、手で触れること、感じることを大切にしたいと思う。

中澤さんと共に歩いて

 本川小学校の地下で見た被爆直後の広島の模型、そしてそれより600メートル上にある赤い弾が物語ること。軍都としての威容さを表す被服支廠、その歪んだ鉄、平和公園の数々の慰霊碑、それらを目の前に語って下さった中澤さんにはお礼のしようもないほどだ。平和資料館よりずっとリアルに受け止めることができた。逆にどうして平和資料館にはそれほどのリアルさを感じないのだろうと疑問に。

「サゴリ」での出会い

 最終日、加納実紀代さんの資料館「サゴリ」へ。韓国語で交差点という意味だという。人と人、人とモノが出会う場所。そこで「ひろしま女性平和学試論〜核とフェミニズム〜」(2002年・家族社)という雑誌に出会った。「銃後の女は加害者か」を巡って家族社を主宰する中村隆子さんとの対談は読み応えがあった。「平和の論理を女性の視点で考える時のキーワードとして、『加害・被害の二重性を平和へのエネルギーに』『母性を利用させないこと』『非効率性の価値を知ること』『暴力の正当化を認めないこと』が出てきました。今後深めていきたいと思います。」という編集部の締めの言葉に、私は今でもちっとも深められていないなあと項垂れたのでした。「サゴリ」を主宰する高雄きくえという素敵な女性との出会いもありました。

 広島から帰った翌日の新聞に、プーチンベラルーシに戦術核兵器の第一弾を搬入した、それは抑止力としての配備だと主張したというのだ。そして「世界で唯一、核を使った国が広島と長崎を攻撃した米国であることを思い出してほしい。米国はそうする権利があると考え、前例を作った」と批判したそうだ。

 やられたらやり返せでは、到底平和は望めない。平和公園の下、歩いているその道路の下には、見つけてもらえなかった人々の骨がたくさん残っているのだろう。それらの人々の無念の想いはどのようなものなのだろう?色とりどりの明るい電車の陰には辛くてどうにもならない無数の人々の無念の想いがあることを忘れてはならないと思う。

 

         

       豊永さんは、私にとって灯台の光

 

                                                                   大阪・60代

 

 

 被服支廠をゆっくり見学できて大変うれしかったです。もちろん見学は初めてです。現存する4棟の圧倒的大きさに驚きましたが、当時は総面積・倍以上はあったそう。おなじく同程度の大きさを誇っていただろう、糧秣支廠や兵器補給廠を想像した時、私がヒロシマに抱いていた「平和の都市」のイメージが全く違ったものになりました。

 巨大な支廠群、引き込み線を走る貨物車、宇品港に積み上げられたコンテナ(?)、馬に乗って闊歩する軍人、宇品に向かう大勢の兵隊の行進、学徒動員された学生達が毎朝被服支廠に吸い込まれていく・・・もう一昔前、大正時代は、軍事経済がしっかりまわっていて、そこで働く大勢の住民で賑わっていたのでしょう。戦争で経済が廻り、工学が発展していく・・戦争景気でたくさんの廣島市民が喜んだのではないでしょうか。私の想像しなかった廣島の時代に想いを馳せることができました。

 豊永恵三郎さんの証言も忘れられません。最初に被爆者健康手帳を見せて頂きました。おそらく聴き手は手帳を実際に手に取ったことがないだろうと、考え抜かれた手順に感心しました。高校生が描いた「証言の絵」もそうです。

  とつぜん在韓被爆者の裁判闘争のお話になって驚きました。豊永さんが勤務されていた高校に在日の生徒がたくさんいて、日々の取り組みに苦労されるうち、在日・在韓の被爆者の課題に取り組むようになったということを後でおききし、納得しました。それにしても、43件の裁判とはすごい!私は1件の裁判で汗たらたらだったのに・・。87才になられても、精神の背筋をまっすぐして生きておられる豊永さんは、私にとって灯台の光だと今思っております。

 最後に、こんな素晴らしい修学旅行を企画実行して頂いた赤田さんと中澤さんに深く御礼申し上げます。来年も・・とのうわさをきき大変よろこんでおります。よろしくお願い致します。(その時、もしよろしければ赤田さんメールに通し番号をうっていただければありがたいです。細かい事を言って申し分けありません(^_^)。)

 広島市立基町高校生が被爆者の証言をもとに描いた原爆の絵                                                   

 

 

 

        圧巻だった陸軍被服支廠

                        神奈川・70代

 

 

 原爆ドーム前に集合し「オトナの修学旅行」がスタートした。目前のレンガは色が劣化し て壁面が白っぽくなっている。ところどころ修復のためにセメントが塗られ、鉄骨が組み込ま れていた。30年以上も前に見た赤煉瓦の焼けたような色合いに、原爆の凄まじさを感じ た印象は残っていなかった。 

 ドームそばの相生橋(米軍はここを狙って原子爆弾を投下した)を渡り、本川小学校平和資料館を訪 ねる。夏休み前登校していた児童約400名、校長他教職員10名が死亡した。生き残っ た児童教職員はそれぞれ1名だけだった。校舎は当時では珍しい鉄筋コンクリート造りで、 全焼したが、校舎の骨格だけが残った。爆風で窓ガラスは飛び散り、高温の熱風が吹き込 み、多くの人は即死状態であったと言われている。 

 本川小平和資料館(崩壊を免れた建物の一部を利用)の地下には、原爆投下後の爆心地周 辺のジオラマが展示されている。原爆ドームと周辺の一部建物と街の外側に残った陸軍施 設だけが立体模型で並び、何もかもが爆発で吹き飛ばされてしまい、熱風で焼き尽くされ た、荒涼とした砂漠のような姿を模している。この円形のジオラマは、見る人に原爆の破 壊力の凄さを物語ってくれる。このジオラマは以前広島平和記念館にあったものだ。 

 私が前回見たのはこれだ。市街地が一瞬にして廃墟と化したことが一目瞭然に想像でき た。2日目に訪れた新しい平和資料館に展示された円形の模型は、原爆投下・爆発が画像 で映し出せるよう平面的に作られていた。画像は米軍機から映し出されており、上空から の映像である。それでは被爆者が眼にした光景は見られない。被爆者が消し去られてしま う。展示方針を変えた新しい資料館には他にも多くの違和感が残った。それに比べると、 本川小学校のジオラマ模型は人の目線に沿って斜めから見たものである。だからこそ私た ちが原爆投下の惨状に思いをはせることができるのである。どちらの模型の上にも赤い火 の玉が吊るしてあった。これはいただけない代物だ。 

 ジオラマの奥に1枚の絵がある。「おびただしい数の遺体」描いた人・草田キヌ・41 才で被爆し70才で作成したものである。絵の中に「本川国民学校を望む」と書かれ、相 生橋から見た情景が描かれている。橋の上から見る人々の目先には、本川の水を求めて石 垣の間にあるがんぎ(船着き場の階段)を降り、引き潮の川原に入っていく人の姿が並んで いる。手前のがんぎには黒いまるだけの頭がびっしりと並べられている。その先のがんぎ には黒丸の頭の下に胴体まで描かれた人が並ぶ。石垣に沿った道に並んだ遺体も同様に手 前側は黒丸だけ、奥は黒い頭の下に胴体と手足が見える。川にも川原にもたくさんの死体 が横たわっている。描ききれない数の遺体を眼にしたことだろう。あまりにも凄惨な光景 に黒焦げになった塊でしか、記憶に留め切れなかったのではないだろうか。あるいは、遺 体を人間として描くことを拒否するメッセージなのか知れない。

 

 今回の原爆遺構見学で圧巻だったのは陸軍被服支廠だ。陸軍兵士の軍服・軍靴等の製造 ・貯蔵を担う鉄筋コンクリート造とレンガ造の建築物である。1号棟から3号棟まで縦に 並び、高さ15mで500mにも及ぶ。さらに奥にも105mの4号棟が横に立っている。 爆風により鉄製の扉は大きく歪んでいる。爆心地から2670mも離れたこの地でも被爆の 痕跡が残っていた。厚い外壁で倒壊は免れ、救護所として使用され、多くの被爆者がここ で息を引き取ったとのことである。 

2日目に植田䂓子さんの被爆体験を聴く会があった。彼女自身12才で学徒動員され た印刷工場で被爆した。たまたま直接被爆ではなく、たまたま両親と家があり、生き残る ことができた。「すべてがラッキーでした」と繰り返し、今日まで生きて来ることができ たと語ってくれた。これまで大変な想いをしながらもそう言って乗り越えてこられたのであろうと、敬服した。

 3日目には豊永惠三郎さんの在外被爆者への取組を中心に講演があ った。被爆者健康手帳を見せながら、その効力と取得の問題点について解説され、在外被 爆者のすべての人に手帳が行き渡るようにしたい。すべての被爆生存者とその子どもたちに人 道的医療措置を講じることが必要である。また、被爆体験と継承問題では「被爆者の体験 を継承することが大切である」と話された。