『オトナのひろしま修学旅行2023』④ 旧陸軍被服支廠を見る

昨夜は、有志の2次会があった。

6人で近くの焼き鳥屋へ。ほぼ70代の高齢男性グループ。

30代の藤原さんが15分ほど遅れて入店。

「6人グループなんですけど・・・」と若い女性スタッフに声をかける。

確かに奥の方で賑やかに酒を酌み交わす6人がいるにはいるが・・・。

鉢巻をキリッと締めたスタッフは、色白でスリムな青年を一瞥、確信をこめて

「いや、いませんよ」。

藤原さん、歩を進めて店の奥を確認する。

「あ、あの人たちです」

女性スタッフの表情がくもる。え?こんな取り合わせってある?・・・である。

 

さて、2日目の朝を迎える。

昨夜、「ほおずき」で、被服支廠へのバスでの行き方を、中澤さんに教えてもらい、何度も確認。

 

「八丁堀のヤマダ電機前のバス停、8時54分発大学病院行き、降りるのは出汐町」。

 

そうそう、出汐2丁目ではなく、出汐町。昨日、確認してきたところ。

万全である。

長谷川さん、松岡さんはその前の紙屋町から同じバスに乗ることに。

 

Mさんと二人、朝食も早々にホテルを出る。

30分前にはヤマダ電機前に到着。

朝倉さんから、針谷さんと二人、ホテルから歩いて向かうとの連絡。

昨日の夜一緒だった山際さん、佐野さんも少し遅れて。

5分前に藤原さん。

5人揃ってバスを待つのだが、次々と電光掲示板に表示される到着予定のバスには「大学病院行き」はない。

だんだん不安になる。ここは間違いなくヤマダ電機前のバス停、間違いない。

定刻になってもバスは来ない。

Mさん、近くでひとりごとを繰り返していた自閉的な傾向を持つと思われる少年に「大学病院行きはここでいいの?」と聞く。

バスに詳しそうに見えたから、という。臨機応変。方針転換ができない男たちの違いが露わに。無謀なインパール作戦に突っ込んだ日本軍とまでは言わないが。

 

「はい、ここには大学病院行きは来ません」と即答。

彼によれば、ヤマダ電機前のバス停はもう一つあるという。

「あの角を曲がったところです」

確かにヤマダ電機の建物の2辺が道路に面している。

5人で向かう。角を曲がると、中澤さんや塚原さんの姿が。

バスはまだきていないらしい。間一髪、乗り遅れずに済んだ。

程なくバス到着。

あれ?松岡さん、長谷川さん、乗っていない。

あとで聞くところでは、やはり何かの勘違いから乗ったバスが違っていたという。結局、タクシーで被服支廠に向かったそうだ。

このほかタクシーの乗り合いでずいぶん早く到着した人たちも。

被服支廠恐るべし。歩いてきた人たちだけが、何の苦もなく到着したようで、何ともいわく言いがたしである。

 

さて、旧陸軍被服支廠

昨日、16時30分ごろ、広島高女の碑の前で、集団行動終了。あとは原爆資料館や国立祈念館、原爆遺構展示館などを個人で見学することになったのだが、私はかねての手はず通り、被服支廠の鍵を借りに県庁の財産管理課へ向かった。

 

何だか人気のないエントランス。各課との連絡は、その課の入口で、電話をする仕組み。最近の役所はこういうシステムが多くなっている。横浜市の新市庁舎もそうだ。

 

書類を抱えて現れたのが、スリムでかなり背の高いイケメン男性。山本さん。メールでやりとりした人。とっても感じがいい人だ。

 

被服支廠は、国が1棟と県が3棟、それぞれが所有している。

私が2018年に訪れたときは錆びた門扉だったが、今では大きな門扉が設置されていて、その鍵を県の財産管理課が管理している。

鍵を借りるには「出汐倉庫(旧広島陸軍被服支廠)見学申請書」を出さなければならない。注意事項も何点かあり、そのうち一つが鍵の貸し出しと戻しは当日に限るというのがある。

朝9時半からの見学なので前日の鍵貸し出しをお願いしたところ、すぐにOKが出た。申請書の団体名「オトナのひろしま修学旅行」が功を奏したらしい。中学の教員で20年ほど中学生を引率して広島に来ている。今回は・・・などという話をメールでやりとりしているうちに、信用してくれたようだ。

立ち話だが、今までの経緯などを少し話す。何にしても、行政の中に面白がってくれる人がいるということは大事。気をつけての言葉に送り出された。

 

さて、もれなく全員集合。ステンレス製の大きな門扉を開ける。

 

県所有部分を北側から見る。長さ500メートル。現存する最大の被爆遺構。

www.pref.hiroshima.lg.jp

県の作った動画。

西側の窓。原爆の爆風により鉄扉がひしゃげている

 

残念ながら、以前は入れた内部には入ることができない。せめて写真くらい紹介しておく。

西日本最大の軍都であった広島には、陸軍の三支廠があった。

一つは宇品にあった宇品陸軍糧秣支廠。明治30年(1897年)に設置。糧秣支廠の業務は、糧秣品の生産(「糧秣」とは兵隊が食べる糧食と軍馬が食べる秣(まぐさ)のこと)と、給水器具(炊事用具や濾水器)の調達、製造、貯蔵及び補給、調査研究など。

同じ年に、兵器支廠も設置される。役割は、兵器、弾薬、器具、材料の貯蔵、保存、修理、支給など。

もう一つが被服支廠。明治38年に前身が設置され、稼働。明治40年(1907年)派出所から支廠に昇格。1913年に現存する倉庫4棟が竣工している。

1945年、8月6日。原爆によって鉄扉が曲がるほどの被害を受けるが、焼失を免れ、救護所となる。

戦後は、広島大学教育学部や県立学校の校舎として使用。1956年以降、日本通運倉庫や広島大学学生寮として使用される。

1993年に被爆建物に登録される。1997年以降完全未使用状態に。

2016年ごろから、県内部で利用について検討が始まる。

2019年、県が所有する3棟のうち2棟は倒壊のおそれがあるとして解体、残る1棟を壁面の補修や屋根の改修をして保存することを決定。

しかし、反対運動の高まりから、県は、

2020年度の解体着工を1年先送りとすることを表明。2021年には国による重要文化財の指定に向けた調査が必要と表明。

5月に県所有の全3棟の耐震化方針を表明。概算工事費は1棟あたり5億8千万円。

2022年5月、財務省中国財務局が国所有の1棟の耐震化を表明。現存する4棟全てが耐震化されることに。

市民の保存運動は、2020年「被服支廠を未来に生かす会」が発足。戦時中、ここで働いていた切明千枝子さんの証言や峠三吉「倉庫の記録」の朗読会、そしてHifukusyoラジオのインターネット配信が毎月2回行われている。これには中澤さんはもちろん、趙博さんも出演している。保存署名などを進めてきた反対運動のネット上の一つの拠点。

 

この中心が、広島文学資料保全の会の土屋時子さん。『ヒロシマの河 劇作家・土屋清の青春群像劇』(2019年・藤原書店)の共著者だ。土屋清は劇作家、演出家。峠三吉をモデルに、広島の平和運動の戦いと苦悩を描く創作劇『河』を上演。連綿と続く広島の平和運動の流れの上に被服支廠保存運動がある。この運動には若い人たちも積極的に参加している。

hihukushoradio.jimdofree.com

 

さて、実際の被服支廠が参加者の目にどんなふうに映ったか。いずれ参加者の感想集をアップするのでご覧いただきたい。

今回はここまで。

峠三吉「倉庫の記録」を載せる(青空文庫から)。

 

倉庫の記録


 その日
 いちめん蓮の葉が馬蹄型ばていがたに焼けた蓮畑の中の、そこは陸軍被服廠倉庫の二階。高い格子窓だけのうす暗いコンクリートの床。そのうえに軍用毛布を一枚敷いて、逃げて来た者たちが向きむきに横たわっている。みんなかろうじてズロースやモンペの切れはしを腰にまとった裸体。
 足のふみ場もなくころがっているのはおおかた疎開家屋そかいかおくの跡片付に出ていた女学校の下級生だが、顔から全身へかけての火傷や、赤チン、凝血ぎょうけつ油薬ゆやく繃帯ほうたいなどのために汚穢おわいな変貌をしてもの乞の老婆の群のよう。
 壁ぎわや太い柱の陰におけ馬穴ばけつが汚物をいっぱい溜め、そこらに糞便をながし、骨を刺す異臭のなか
「助けて おとうちゃん たすけて
「みず 水だわ! ああうれしいうれしいわ
「五十銭! これが五十銭よ!
「のけて 足のとこの 死んだの のけて
 声はたかくほそくとめどもなく、すでに頭を犯されたものもあって半ばはもう動かぬ屍体だがとりのける人手もない。ときおり娘をさがす親が厳重な防空服装で入って来て、似た顔だちやもんぺの縞目しまめをおろおろとのぞいて廻る。それを知ると少女たちの声はひとしきり必死に水と助けを求める。
「おじさんミズ! ミズをくんできて!」
 髪のない、片目がひきつり全身むくみかけてきたむすめが柱のかげから半身を起し、へしゃげた水筒をさしあげふってみせ、いつまでもあきらめずにくり返していたが、やけどに水はいけないときかされているおとなは決してそれにとりあわなかったので、多くの少女は叫びつかれうらめしげに声をおとし、その子もやがて柱のかげに崩折くずおれる。
 灯のない倉庫は遠く燃えつづけるまちの響きを地につたわせ、衰えては高まる狂声をこめて夜の闇にのまれてゆく。

 二日め
 あさ、静かな、嘘のようなしずかな日。床の群はなかばに減ってきのうの叫び声はない。のこった者たちの体はいちように青銅いろに膨れ、腕が太股なのか太ももが腹なのか、焼けちぢれたひとにぎりの毛髪と、腋毛と、幼い恥毛との隈が、入り乱れた四肢とからだのゆがんだ線のくぼみに動かぬ陰影をよどませ、鈍くしろい眼だけがそのよどみに細くとろけ残る。
 ところどころに娘をみつけた父母がかがんでなにかを飲ませてい、枕もとのかなダライに梅干をうかべたうすい粥が、蠅のたまり場となっている。
 飛行機に似た爆音がするとギョッと身をよじるみなの気配のなかに動かぬ影となってゆくものがまたもふえ、その影のそばでみつけるK夫人の眼。

 三日め
 K夫人の容態、呼吸三〇、脈搏一〇〇、火傷部位、顔面半ば、背面全面、腰少し、両踵、発熱あり、食慾皆無、みんなの狂声を黙ってていた午前中のしろい眼に熱気が浮いて、糞尿桶にまたがりすがる手のふるえ。水のまして、お茶のまして、胡瓜もみがたべたい、とゆうがた錯乱してゆくことば。
 硫黄島に死んだ夫の記憶は腕から、近所に預けて勤労奉仕に出てきた幼児の姿は眼の中からくずれ落ちて、ただれた肉体からはずれてゆく本能のもだえ。

 四日め
 しろく烈しい水様下痢。まつげの焦げた眼がつりあがり、もう微笑の影も走ることなく、火傷部のすべての化膿。火傷には油を、下痢にはげんのしょうこをだけ。そしてやがて下痢に血がまじりはじめ、紫の、紅の、こまかい斑点がのこった皮膚に現れはじめ、つのる嘔吐おうとの呻きのあいまに、この夕べひそひそとアッツ島奪還の噂がつたえられる。

 五日め
 手をやるだけでぬけ落ちる髪。化膿部にうじがかたまり、掘るとぼろぼろ落ち、床に散ってまた膿に這いよる。
 足のふみ場もなかった倉庫は、のこる者だけでがらんとし、あちらの隅、こちらの陰にむくみきった絶望の人と、二、三人のみとりてが暗い顔でうごめき、傷にたかる蠅を追う。高窓からの陽が、しみのついた床を移動すると、早くから夕闇がしのび、ローソクの灯をたよりに次の収容所へ肉親をたずねて去る人たちを、床にころがっためんのような表情が見おくっている。

 六日め
 むこうの柱のかげで全身の繃帯から眼だけ出している若い工員が、ほそぼそと「君が代」をうたう。

「敵のB29が何だ、われに零戦、はやてがある――敵はつけあがっている、もうすこし、みんなもうすこしの辛棒だ――」

 と絶えだえの熱い息。

 しっかりしなさい、眠んなさい、小母さんと呼んでくれたらすぐ来てあげるから、と隣りの頭を布で巻いた片眼の女がいざりよって声をかける。
「小母さん? おばさんじゃない、お母さん、おかあさんだ!」
 腕は動かず、脂汗のにじむ赧黒あかぐろい頬骨をじりじりかたむけ、ぎらつく双眼から涙が二筋、繃帯のしたにながれこむ。

 七日め
 空虚な倉庫のうす闇、あちらの隅に終日すすり泣く人影と、この柱のかげに石のように黙って、ときどき胸を弓なりにあえがせる最後の負傷者と。

 八日め
 がらんどうになった倉庫。歪んだ鉄格子の空に、きょうも外の空地に積みあげた死屍ししからの煙があがる。
柱の蔭から、ふと水筒をふる手があって、
無数の眼玉がおびえて重なる暗い壁。
K夫人も死んだ。
――収容者なし、死亡者誰々――
門前に貼り出された紙片に墨汁が乾き
むしりとられた蓮の花片が、敷石のうえに白く散っている。