『オトナのひろしま修学旅行』⑤ 植田䂓子さんのお話。

被服支廠の見学を終え、ほぼ団体行動で進徳女子高前のバス停出汐町へ。

大型トラックの往来が多く、埃っぽい。

 

ここから紙屋町方面に向かう。朝、私たちが乗って来た経路を逆に進むということだ。バスが来たら先に行ってくださいと言って、コンビニのトイレに寄った私と塚原さん。

次のバスは5分ほどでやってきた。

 

紙屋町のバス停といっても、12日に私が確認したバス停の位置とは全く違う。電車道からかなり離れた県庁の近く。

一色さんらと昼食をとるという塚原さんと別れて、県庁へ。

山本さんが待っていてくれる。丁重にお礼を述べて辞去。

さて、午後の植田さんのお話までには少し時間がある。コンビニ軽食を買い、一旦ホテルに戻る。休憩。

 

朝のうちに植田さんに電話をしたおり、植田さん、タクシーを12時に呼んだと言っていたような。いえいえ、始まるのは13時からですよと言ったのだが、耳に入ったのかどうか。

 

気になるので、早めにレストハウスへ向かう。

一回の受付で「会場、お借りします。よろしくお願いします」と声をかけると、

「年配の方、いらっしゃってますよ」

慌てて3階に向かうと、廊下に杖をついた植田さん、立ったままで本を読んでいる。

やはり待たせてしまった。

2階の喫茶スペースへ案内して、お話を伺う。

初めてお会いしてから30年以上経つ。

戒善寺でお話しされているときは、坐ったままだった。

今日は、参加者の前に立たれた植田さんは、40分ほどずっと立ったままお話された。

次々と会場から上がる質問の声にも、疲れを見せずに応えられた。

今日話された、原爆攻撃直後から広島市の吏員が、道路に小さな机を置いて「罹災証明」を発行していたというお話は、中学生には話されなかったものだ。

原爆資料館のの平和データベースに33年前の植田さんの証言が残っている。今日のお話と重なるところ、重ならないところがある。

妹さんの制服と日記は資料館の保管されている。

日記を見せていただいたことがあるが、毛筆で書かれていて、今の中学1年生と同じような幼さと、戦時中の女学生の健気な様子がよく表れていた。

 

本日はここまで。