『オトナのひろしま修学旅行2023』感想集①

昨日、境川アブラゼミの初啼きを聴いたことを書き忘れた。連日の猛暑、梅雨も盛りを過ぎたのだろう。

アオダイショウの長さは書いたが、胴回りを書くのを忘れた。いちばん太いところが、五百円玉の直径を二回りほど大きくしたくらい。なかなか立派なものだった。

Mさん、昨朝の散歩以降、やや体調不良。熱中症気味と本人弁。暑くて眠れないことも原因かと、昨夜から薄くエアコンをつけたまま眠る。体調は戻ったようだが、今朝の散歩は休場。昨日、急遽休んだ霧島(霧馬山)のようだ。

 

今朝、初めて保冷剤を入れたネックアイスを巻く。行きと帰りでは日差しの強さが違う。一人で歩くと景色が違って見えるような気がする。

 

 

今日から、「オトナのひろしま修学旅行」の感想集。旅程表と参加者の方が寄せてくださった感想を掲載する。お名前はカット。年齢と居住地のみ記す。

         

 

       オトナのひろしま修学旅行2023行程表

             (確定版)

                              2023年6月2日

                               赤田       

1日目(6月13日)

13:00    平和公園原爆ドーム前集合(時間を厳守してください)       JR広島駅で新幹線を降りたら、南口方面に出ると広電乗り場があります。路面電車です。2号線「広電宮島口」か「広電西広島」行きまたは6号線「江波(えば)」行き、のどれかに乗ると15~20分で左側に原爆ドームが見えてきます。すぐに電停『原爆ドーム前』に着きます。道路を渡ってすぐのところが原爆ドーム正面です。横断注意、です。大きな碑があります。

       *広島旅パス

          24時間券 ➡ 1000円

          48時間券 ➡ 1500円

          72時間券 ➡ 2000円

        *広島電鉄の電車全線、船舶(宮島航路)、広島市内中心部エリア路線バス6社が乗り放題。

        *広電のみ

          8時間券  ➡       600円

          24時間券     ➡  700円

       *使用方法・購入方法は ➡ https://www.mobiry.jp/howto/

        スマホで購入、支払いはクレジットカードのみ。

       *広電の乗り方・料金等 ➡ https://www.hiroden.co.jp/train/use/index.html       

このほかにもさまざま「お得チケット」があります。ご自分のホテルや自由時間の使い方を勘案してお選びください。毎回、スイカスマホでももちろんOKです。あまり動かないという方はその都度の方がお得かもしれません。

13:00    ①ツアー開会セレモニー

        ・ナビゲーター:中澤晶子さん(広島在住・児童文学作家)の紹介

        ・本日の予定の確認など(疲れたら自由に離脱してください。けっし て無理をし ないでください。携帯で連絡を取り合えばすぐに再合流できます。)

       平和公園内外フィールドワーク(団体行動)

13:15     相生橋(原爆投下目標・実際の爆心は東へ300mずれ、島外科上空580m

13:30~14:0   本川小平和資料館(団体見学で申請してあります。この時間限定です。)

爆心地に最も近い学校(約410m)。校舎は外部を残して全焼、壊滅し、校長ほか10人の教職員と1、2年生、家庭の事情などで疎開できない児童約400人のうち先生1人、児童1人のみが奇跡的に助かりました。この児童が居森清子さん。2003年ごろ、赤田は横浜市南区在住だった居森さんご夫妻と知り合い、東鴨居中で初めて中学生に被爆体験を話していただいた。その後、ご夫妻は市内の中学校で被爆講話を続けた。清子さんは201年3月80歳で亡くなったが、その後夫の公照(ひろてる)さんが講話を続けている

       http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/map/irei/tour_01.html 

       https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=57933

  14:10     平和公園碑巡り (中澤晶子さんが案内してくださいます碑、順番は中澤さんの判断)

資料:https://www.city.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/32009.pdf

原爆供養塔 

資料:http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/map/irei/tour_09.html

   *堀川恵子『原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年』– 2015/5/26 文芸春秋

        韓国人慰霊碑

        資料:http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/map/irei/tour_11.html

        原爆の子の像 

        資料:http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/map/irei/tour_16.html

           *那須正幹『折り鶴の子どもたち―原爆症とたたかった佐々木禎子と級友たち』     

        広島二中原爆慰霊碑

        資料:http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/map/irei/tour_04.html

           *「いしぶみ」広島2中一年生全滅の記録(ポプラポケット文庫)

        市立高女の碑原子力ネルギーの公式E=MC2の文字が刻まれている。)

        資料:http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/map/irei/tour_35.html

15:00      レストハウス休憩・見学(元大正屋呉服店・燃料会館)(14・15日の講話の会場)

1945年8月6日、建物内では37人が勤務。たまたま地下に書類を取りに下りていた野村英三さんを除き全員が亡くなりました。爆心である島外科ら170㍍. 野村さんは奇跡的に生還。2020年にリニューアル。

                  https://peace-tourism.com/story/resthouse.html

         リニューアル前の建物の地下で、中澤晶子さんが修学旅行の横浜の中学生に野村さんの手記を朗読してきた。      

        国立広島原爆死没者追悼平和祈念館

        資料:https://www.hiro-tsuitokinenkan.go.jp/project/exhibition/

  ↓     被爆遺構展示館

資料: https://www.city.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/204385.pdf

 https://hiroshimaforpeace.com/the-lives-of-the-people-and-town-after-the-bombingexhibit-facility-for-atomic-bombed-remnants/        

➡ 赤田:16:30 広島県庁本館3階(西側)財産管理課 県有地販売促進グループ執務室入口の固定電話で内線2313or2305 翌日午前の被服支廠の入り口のカギを受け取る

峠三吉詩碑

   *『原爆詩集』復刻版が資料館のショップで販売。「倉庫の記録」の倉庫が被服支廠

 資料:http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/map/irei/tour_23.html

16:00      広島平和記念資料館原爆資料館)見学

17:30      資料館出口付近に 再集合(打ち合わせ)・解散

      *資料館ほかには最終日15日の豊永さんの講話の前の時間、あるいはその午後にも見学可能です。  

18:30     交流会 90分飲み放題つき4500円

    会場:火焼き餃子ほおずき:広島市中区三川町3-4 並木ルネッサンスビル2F

   電話:082・247・8858 https://loco.yahoo.co.jp/place/g-txaf6yD128k/map/

20:00 解散  

2日目(6月14日)

9:30     ⑨旧陸軍被服支廠広島バス(赤)バス停「出汐2丁目」下車徒歩3分)

       早く終われば資料館、国立祈念館等の見学も可能です。

11:30     平和公園に戻り解散・昼食 ➡ 赤田 12:00までに被服支廠のカギの返却。

13:00     ⑩植田䂓子さんのお話を聴く会

        (平和公園レストハウス:会議室 使用料支払い済み)      2022年8月6日NHKスペシャル

    「原爆が奪った“未来” 〜中学生8千人・生と死の記録〜」

77年前、広島に投下された原子爆弾。軍の主導で、空襲の延焼を防ぐための作業に動員されていた中学生8000人が大きな被害を受けた。今回、NHKは、学校などに保管されていた膨大な資料を入手。そこから6000人もの命が奪われていった実態が明らかになった。子どもたちの“命の記録”から、核兵器がもたらす脅威と、守るべき尊い未来を奪っていく戦争の現実に迫る。

資料:https://www.youtube.com/watch?v=RFF_yHuSjPI(5分短縮版)

14:45     ⑪袋町小平和資料館見学

         資料:https://www.hiroshimapeacemedia.jp/abom/05abom/syukkeien/syukkeien5.html

         資料:井上恭介『ヒロシマ  壁に残された伝言』集英社新書2003

   移動 広電:「紙屋町東」(2号線広島駅行き)➡「八丁堀」乗換(9号線白島   行き)➡「縮景園前」

        (1,6㎞ 1200円タクシーの乗り合いのほうがいいかも) 

15:30     縮景園内見学(被爆樹木など案内・ヒロシマ宗教協力平和センター波多野愛子さん他2名

      資料:http://masuda901.web.fc2.com/page2bx71.html

17:00     終了・解散

        夕食各自 

3日目(6月15日)

8:30    各自平和公園内散策など

9:50           13豊永三郎さんのお話を聴く会

      (平和公園レストハウス:会議室使用料支払い済み)        

 11:45     レストハウスにて解散セレモニー

 

 

13:00     自由行動【自分の「足」で歩くひろしま

① 宮島へ行く(かなり込んでいる可能性あり 原爆ドーム前から広電で、あるいは船で。帰りはJRで広島まで)

② 広島市の美術館巡り

ひろしま美術館 ➡ https://www.hiroshima-museum.jp/(残念ながら特別展の「ピカソ展」は終わっていますが、常設展も素晴らしいです。 65歳以上無料。

広島県立美術館 ➡ https://www.hpam.jp/museum/  サミット記念というのは??ですが、5,000点のコレクションの中から、伊万里柿右衛門様式色絵馬など選りすぐった珠玉の約100点を展示しているそうです。縮景園隣接です。65歳以上無料。

広島市現代美術館➡ https://www.hiroshima-moca.jp/ 2023年3月リニューアル。街の東側の比治山にあります。65歳以上150円。市内が一望できます。

比治山には陸軍墓地やかつてのABCC(米軍の原爆傷害調査委員会)があったところ。ABCCは現在は公益財団法人放射線影響研究所(日米共同研究機関)に。中学生のグループ行動でこの中に入ったことがある。

③ 平和の軸線の延長線上にある中工場見学。(映画『ドライブマイカー』のロケ地。美しいゴミ処理場中工場見学)➡ https://www.city.hiroshima.lg.jp/soshiki/93/  無料 バスで30分ほど。

④ 呉・大和ミュージアム見学 ➡ https://yamato-museum.com/ 入場料 割引なし 500円

   広島駅からJR呉線(快速)で32分。呉駅から徒歩5分。

⑤ 加納美紀代資料室サゴリhttps://sagori-kanomikiyo-library.jimdofree.com/ 訪問

この日、開館日ではないのですが、主宰されている高尾きくえさんにお願いして13時に開館していただけることになりました。広島駅からタクシーで5分、徒歩20分のところにあります。

  資料:『広島 爆心都市からあいだの都市へ 「ジェンダー×植民地主義 交差点としてのヒロシマ」連続講座論考集 』(2022年11月 インパクト出版会高雄きくえ編)とっても良い本です。 

⑥ 昼から呑むひろしま 

 まだまだ無数にあります。自分でいろいろ調べてコースを開拓してみてください

市内バス、電車、はSuica PASMO ICOCAなど使用可能。

<会計>

 1日目の夕食交流会日を含めて、内訳は別途お知らせしますが、諸雑費込みで一人当たり9000円を集めさせてください。キャンセルで変動しますが、この額を超えることはありません。 

<参加者>

 18名

*途中参加の方、現地からの参加の方もあるかもしれません。

 

 

  ヒト事ではなく自分事としてとらえる力を

              いつどう持てるのか?

                           

                         神奈川・70代 

 

この旅で、人との出会い、縁ができた事は大きい。旅を通してお付き合いくださった中澤さん、被爆体験を話してくださった植田䂓子さんと豊永惠三郎さん。語ってくださった事は今も心に残り、戻ってからも思い起こしている。

 中澤晶子さんがガイドをして下さった本川小平和資料館の軍都広島を表現したジオラマは、広島の街を知らない私にも十分に理解できた。新資料館開館時に廃棄されないで良かった。中澤さんのことばと共に”原爆が投下される理由は広島にあったのだ”と気づいた。

 いくつも案内された碑の中で、平和公園内の原爆供養塔が心に残っている。緑の芝生でおおわれた土まんじゅうを見た時、沖縄糸満市米須の「魂魄の塔」がすぐに浮かんだ。激戦地で、軍民、国籍に関係なくたくさんの人が亡くなり、、野晒しのまま散らばっていた遺骨が集められた。それをおこなったのは近くに住む住民で、最も早く民間人の手で作られた墓というのも原爆供養塔と似ている。やはり土まんじゅう型で6月23日にはお参りする人が多い。

 少し海岸に近いところにある旧陸軍被服支廠も残された4棟(10、11、12、13番庫)を見た事で、その大きさを実感できた。1〜14番庫の跡地には現在、高校やテレビ新広島が建ち、すぐ脇には警察署が建設中である。中に入って歩きながら中澤さんのお話を聞きつつ、すき間から薄暗い倉庫内を何回か覗いてみた。被爆した人々がたくさん連れてこられ、また亡くなる人も出たという話に、私は暗闇を怖いと感じた。が、91歳植田さんの話の中で、もらった机、椅子を運んで、ここで授業が開始され嬉しかったと言われた時に、広島市内の被爆状況がまだ私にはよくわかっていなかったと思った。

 二人の被爆者のお話の中で、「私はラッキーだった」「運の良い方だと思う」とそれぞれが言われた。でも、家は焼け、植田さんの建物疎開作業の出ていた1歳下の妹さんは、行方不明のまま(制服のみ見つかる)、豊永さんはお母さんがやはり建物疎開に出ていて

顔と右腕に火傷を負い、ちょうど体の下にいた弟さんは無事だったが、放射線を浴びて1週間以上寝たきり。今も弟さんも生きている。私から見たら、この状況は決して「ラッキー、運の良い」とは言えないと思うが、周りにはいかにもっと酷い状況が広がっていたという事だろう。

 豊永さんは1972年から韓国にいる被爆者支援の活動を続けている。自分の生活も大変な中でも被爆直後にも差別があり、それがずっと続いている事、特に北朝鮮にいる被爆者にはなんの支援も届いていない事に憤り、40年間も裁判闘争支援を行うその姿勢はすごい。

 ヒト事ではなく自分事としてとらえる力をいつどう持てるのか?私は70歳を過ぎてようやくそれができるようになったと思う時がある。ずい分遅かったが、でもこの先の生き方に変化が出てくるだろう。貴重な旅でした。

豊永惠三郎さん

戦後の歴史において、在外被爆者救援運動が

  大きな意味を持ったことが大変よく分かりました

   

        

                          大阪・高槻 70代

 

 

 6月13日から15日の3日間、赤田圭亮さんの企画、中澤晶子さんの協力によるオトナのために修学旅行に参加しました。大変充実した中味でした。おふたりと現地でお話と協力いただいた方々に感謝します。いくつか感想を記します。

1)2日目に植田䂓子さん、3日目に豊永恵三郎さんに被爆体験と市民運動に関わって来られたお話を聞きました。植田さんは87歳、豊永さんは91歳のご高齢にも関わらず、かくしゃくとして当時の体験を語られ、その姿に強い感銘を受けました。植田さんは悲惨な体験にも関わらずからっと明るく前向きに語られました。また豊永さんには長い間の地道な在朝被爆者への支援運動と在外被爆者裁判の取り組みについて具体的に話していただきました。戦後の歴史において、在外被爆者救援運動が大きな意味を持ったことが大変よく分かりました。ご高齢のお二人のお話をお聞きし、私がテーマとしている戦没者遺児靖国参拝(私はその戦後の経験者です)、その戦前の体験者を探しお話を聞くことは、まだまだ可能性があると確信しました。今回のお話の感銘をもとに、その戦前の体験者(90歳を越えられています)を探そうと思いました。

2)昨年5月に、赤田さん企画の広島ツアーに参加し、4年ぶりに広島に行きました。あの時は、似島には行けましたが、残念ながら被服支廠に行けませんでした。今回の企画では被服支廠が組まれており、楽しみにしていました。2日目の朝に被服支廠を見学しました。赤田さんが事前に市役所で鍵を預かり、被服支廠に入りました。その広大さに驚きました。当時陸軍が持っていた権力とその財力を実感しました。またこれだけの広大な土地と建物を廃棄(破壊)しようとする当局の計画を広島の市民運動が阻止し、保存を決定させたことに敬意を感じました。これからも被服支廠保存の運動に関心を持っていきたいと思いました。

3)3日目に加納実紀代資料室サゴリに行きましたが、大変印象深い見学でした。広島に行く前に、本の整理をしていたところ、昔入手した加納実紀代著『天皇制とジェンダー』が出てきました。加納さんとは出版社(今回の訪問で中央公論社と分かりました。)に勤めておられた頃にお会いしたことがありました。その後加納さんがお書きになるものに興味を持ち、読んできました。今回、サゴリで加納さんの蔵書と取材ファイル等を見ることができ、また事務局の高雄きくえさんからの生前の加納さんのお仕事に関するお話を聞け、大変よかったと思います。

 今回の余録になりますが、1日目の平和公園慰霊碑巡りからぬけさせてもらい、5年以上会っていない知人と会いました。彼はメンタル的不調と闘ってきたのですが、最近だいぶよくになってきたとのことでした。彼から私家版のフォト・エッセイをもらいました。私は最近入稿した『戦後の修学旅行の推移』に関する文章を渡しました。

 ツアーが終わって、赤田さんと昔の独立組合の仲間と飲みましたが、赤田さんから「来年、もし似島のツアーを組んだら行きますか?」と聞かれましたが、「行きます、行きます!」と答えました。3日間、ありがとうございました!

 

 

平和公園被爆遺構展示館」木立の中の峠三吉「詩碑」の景観を損なわないような所に建てるべきだったのでは

 

 

                         

 

                         神奈川・60代     

 

感慨深いオトナの旅でした。費用は確かにかかりましたが、お金では買えない貴重なかけがえのないものをことを、経験・体験・勉強させてもらったと思っています。この企画を、満を持して立案計画してくださった赤田さんにただただ感謝ですし、現地で懇切丁寧なガイドをしてくださった中澤さんにただただ感謝です。そして私事ですが母にも感謝です。先の話になってしまうと思いますが、もし行く機会があれば、今回は行かなかった「袋町小学校平和資料館」「広島市郷土資料館(元旧陸軍糧秣支廠)」「川から見る広島」そして「竹屋地区原爆慰霊碑」に行きたいなと思いました。

 

以下に、箇条書きに思ったことを書きます。

 

6/13(火)一日目

【広島駅到着】

小田原駅から新幹線に乗り、文庫本を読みながら広島に向かう。「終わらざる夏(浅田次郎)(中)」を読み進めていたのですが、広島駅にそろそろ着くという時に「今朝廣島に新型爆弾、全滅」と書いてあるページを読みました。不思議でした。

 

原爆ドーム

原爆ドームを始めて見たのは、いつだったのか!? 高校の修学旅行の時だったと思い込んでいました(途中下車して見学に行ったと思っていました)。でも高校の修学旅行は九州だった記憶があるので、もしかすると大学の時だったかもしれません。

始めてみた時の記憶は、ドームの横にある川岸で見た光景です。川岸に、いくつもの穴があり、その穴から何というカニ(!?)か分かりませんが、無数のカニ(!?)が空に向かってハサミを動かしている光景でした。この川で多くの方が息絶えていたということを聞いていたからだと思います。重なって見えてしまったのだと思います。今回も意識して川岸を見たのですが、同じ光景を見ることはなかったです。以前に見た時は、もっと引き潮の時だったのかもしれないなと思いました。

 

本川小学校平和資料館】

被爆当時は鉄筋コンクリート造り3階の校舎で、その一部になる1階部分と地下の部分が資料館になっていた。多くの命が一瞬のうちに奪われてしまった小学校。地下の部屋に入るドアはなかったが、黒く焼け焦げた跡が残るドアを取り付けるための木枠があった。爆心地に近いため、地下も激しく燃えてしまったためだと思うが、黒くえぐれていた。78年の時を経て、私の眼前にあるその木枠を、しばらくジッと見てしまった。被爆建物が、耳に聞こえる言葉で語ってこなくても、無言の言葉で話しかけてきているように思えたからかもしれない。

今回と同じような事を感じたことがあります。東京都東大和市にある「旧日立航空機(株)変電所」を見学した時です。今もなお空襲(1945年に三回)の痕跡を残す建物です。グラマンF6F艦載機によるものか、P51ムスタングによるものか分かりませんが、鉄筋コンクリート造りの壁を貫通した機銃掃射の跡が残っています。壁の内側に開いている穴の方が大きかったのを憶えています。ここでもジッと見ていたように思います。人間だったら、ひとたまりもないなと、そのとき思った記憶があります。Hitachi plane Tachikawa transformer substation No5.jpg旧日立航空機立川工場変電所

 

平和記念公園碑巡り】

『原爆供養塔』緑の芝生に覆われた直径10メートルを超える土まんじゅうの中には約7万柱の遺骨が収められているとのこと。広島市は名前の分かっている死没者の名簿を公開して引き取り手をさがしているとのこと。傍らにその名簿が掲示してあった。参加者が住む市役所にも掲示してあったという事を聞いたので、自分も市役所に行った時に確認しようと思った。                   

土まんじゅうの上で食事をしてゴミを捨てて行った人がいたという話があった。どうしてそんなことができてしまうのだろうか!? 元首相の安倍が好んで使っていた「美しい国・日本」という言葉を、何故か思い出してしまった。

 

『韓国人原爆犠牲者慰霊碑』以前は本川橋西詰めに建てられていたが、1999年に現在地に移設されたとのこと。三日目の6/15にお話をしてくださった豊永さんの資料を見ると、「被爆者数約7万、被爆直後の死没者3万5千」という資料と「被爆者数5万、爆死者数3万」(全被爆者の1割以上が朝鮮人だった)という資料がありました。被爆者数・死亡者数は、きちんとした調査が行われていないため実態は不明のようです。これを書きながら、朝鮮侵略と植民地化の結果であると思い、日本人の一人として何とも言えない気持ちになったし、「謝って済むと思ってんのかよ」と言われているような気持になりました。

 

被爆した墓石(慈仙寺墓地跡)』周りの地面より一段低くなっている地面に、墓地跡・墓石があった。この周りより一段低くなっている地面が、被爆当時の地面とのこと。平和公園は造成する時に、盛り土をしてかさ上げして造ったことを、初めて知った。当時の人々の営みが、地面の下に埋もれていることを知った。(あとで見学した被爆遺構展示館でもそのことを知る)。この墓石は、なんでも浅野家がらみの墓石とのこと。墓石の一部が強烈な爆風で吹き飛ばされて離れたところにあったり、浮き上がったりしていた。この墓石は五輪塔のような気がしたので、どの石が「地・水・火・風・空」の部分なのかとジッと見ていたが、分からなかった。

 

『義勇隊の碑、各学校慰霊碑』今回巡ったどの碑も、川(本川元安川)のそばにあった。川の近くで作業をしていて被爆死されたためだろうか? 川に入って亡くなられたり、水を求めて亡くなられた方が多かったためだろうか? それとも当局から、川のそばの建立しか許可がおりなかったためだろうか? 被爆死した義勇隊や各学校の生徒たちが従事した「建物疎開」は、あまり効果がなかったようだとのお話を聞き、何とも言えない気持ちになった。 

父が生前「勤労奉仕で陸軍中津飛行場(相模陸軍飛行場:神奈川県愛甲郡愛川町中津)の造成に行った」という話しをしていたことを思い出した。

最後に尋ねた「広島市立高女原爆慰霊碑」は、中澤さんの母校の慰霊碑とのこと。その碑に書いてあった「E=MC2」の文字の意味が分からなかったのだが、これを書いている時に「行程表(確定版)」を見て、「原子力エネルギーの公式E=MC2」の意味であることを知った。そうだったのかあ、ようやく、その意味を知ることができた。

この慰霊碑に行く前に見た「平和の門」には、各国の言葉で「平和」と書いてあることを知る。確かにハングルで「ピョンファ」と書いてあった。

 

峠三吉詩碑、被爆遺構展示館、被爆アオギリ被爆ハマユウ、平和記念資料館』自由見学の時間になったのでどこに行こうかと、しばらく迷ってしまった。「峠三吉詩碑」は見ておかなくてはと思い、まず最初に「詩碑」に行った。「詩碑」は木立の中にあった。                                        

次に、「詩碑」のそばにある「被爆遺構展示館」に行った。元安川に並行するような通りの天神町筋に面する一軒の基礎部分の遺構とのことだった。当時の地面は、今の地面よりも一段低いところにあったことがわかる展示だった。どなたかが話しておられたが、「詩碑」のそばにあることへの違和感を、自分も感じた。「詩碑」のそばに建てるのではなく、木立の中にある「詩碑」を取り巻く景観を損なわないような所に建てた方が良かったのではと思った。

これを書きながら、以前に聞いたことがあった「高石ともや」さんが歌う「死んだ女の子・・・」(題名を忘れてしまった)を思い出し、「今でも七つ、死んだ子は決して大きくならないの」と呟いてしまった。

次に「被爆アオギリ」と「被爆ハマユウ」を見に行った。両方とも移植したとのこと。元はどこにあったのだろうか(説明に書いてあったのかもしれないが覚えていない)。アオギリの木の幹には、パックリと被爆の傷跡があった。それでもここまで育ってきたんだ、すごいと思った。だから、車の排気ガスを浴びてしまう道路の街路樹として植えられているのかもしれないと思った。

最後に「平和記念資料館」に行った。外国の方が多かった。自由見学の終わりの時間が迫ってきていたのと、疲れてしまった感じだったので、途中までの見学で終わりにしてしまった。一階の売店で、復刻された「原爆詩集」と「地図(戦時下の廣島復刻)」を購入。店員さんから『今日は「原爆詩集」を購入される方が多かった』と話しかけられた。それで『ツアーコンダクターの方から「記念に購入されるのもよいかもしれませんよ」という話しがあったからかもしれません』とお話しました。購入した「原爆詩集」は、棚に置いてあった最後の一冊だった。

 

このあと集合場所の「レストハウス」に向かった。一日目の見学が終わった。

 

そして、「交流会」会場の「日焼き餃子ほおずき」に路線バスを使っていく。飲み放題付だったので自制しなければと思っていたのだが、飲み始めるとついつい「もう一杯」を重ねてしまった。いつもの事だけれど、やっぱりアルコールの魅力には負けてしまった。また立ち寄りたいお店だった。ごちそうさまでした。

 

6/14(水)二日目

【旧陸軍被服支廠

昨日の交流会会場「ほおずき」に行くのが遅くなってしまったので、予定していたバスの一本前のバスに乗って行った。朝の混雑で運行が遅れていたので、一本前に乗って正解だった。

事前に送られてきた資料を見ると、大文字の「L」のように、南北に3棟、東西に1棟の形で赤レンガ倉庫が建っている。宇城さんの文章には「各棟の長さ94m、高さ17mの威容」とあった。

集合時間まで未だ時間があったので、歩きながら道路に面している赤レンガ倉庫の外観を見た。事前に送られてきた資料にあった宇城さんの文章の写真(外観)と比べると、少しずつ壊れてきているような気がした。道路から見上げて見る建物だったからだろうか、重量感を感じる建物だった。

皆さんが集合。赤田さんが県庁から借りてきてくださったカギで正門(門扉)が開いた。中に入る。中澤さんからいろいろな説明があった。軍都「廣島」には三つの支廠があるとのこと、ここの他に「兵器支廠」と「糧秣支廠」。「糧秣支廠」があった所に、今は「郷土資料館」がある。「兵器支廠」の説明を忘れてしまったので、あとで調べなくては。

そして説明を聞きながら見学へ。黒ネコがいた。ここを住処にしているのかもしれない。あまり元気ではない様子を見て、自宅の外ネコの「キーちゃん」を思い出してしまった。帰宅したら、また動物病院通いが待っている。ここの黒ネコも達者でいてくれればよいのだが・・・。

この時期(梅雨)なので、地面にも建物にも雑草・雑木が伸びてしまっている。このまま放置する事への不安と心配の話しがあった(自分もそう思った)。ここも自分の家と同じように、草刈り等々の管理作業が必要だなあと思いながら見学した。南北に連なる3棟は県の所有、東西の1棟は国の所有とのこと。県と国が動いて、何とかしてほしい繁茂だった。ここの行く末が気になった。原爆ドーム本川小学校平和資料館のように残してもらいたいと思った。

見学が終わり、道路に出て歩き始めたのだが、どうしても気になってしまったので、ここに来た時から気になっていた正門(門扉)の両脇にある白っぽい石の門柱の事を、中澤さんにお聞きした。当時の写真を見せてくださり、当時からある門柱であると教えていただいた。やっぱり、そうだったのかあと思い、胸のつかえがとれた。思い切ってお聞きしてよかった。門柱も原爆に耐え約78年の時を経てきていることを知った。

そして、廣島の事ではないが、松戸の門柱の事を思い出した。千葉の吉田さんの裁判の傍聴支援に松戸地裁に行く時に通って行く、松戸中央公園の出入り口にある「旧陸軍工兵学校」の門柱を思い出した。

 

二日目の午前の見学が終わり、帰路についた。

 

有意義な二日間でした。お世話してくださった赤田さん・中澤さんに、あらためて心から感謝申し上げる次第です。ありがとうございました。