『オトナのひろしま修学旅行2023』① お好み焼きKAJISANで敏子さんのお話を伺う。

旅の備忘録。

6月12日〜15日、広島滞在。

昨年は季節の良い5月に、やはり4日間滞在したのだが、今年はG7サミットがあり、近づける状況ではなかった。

全国から警察官が配備され、蟻の這い出る隙もなかったという。

平和公園近くの、あるいは平和公園からかなり離れた場所の植え込みなども「スナイパーが隠れられないように」とどんどん伐採、間違えて被爆樹木も伐採してしまうこともあったという。その予算、4800万円。

その期間、学校は休みになり、社会活動は自粛を要請された。タクシーも規制され、産気づいた妊産婦は救急車を呼べというほどだった。

原爆資料館はガラス張り部分が全て白いシートで覆われ、中を窺い知ることはできないように。規制線は資料館を遠巻きにしたところに張られており、一般人が中を覗くことなど元々不可能なのだが。過剰警備そのもの。目的は、各国要人らが内部をどう歩いたかを隠すためのもの。

6月10日に放映された「原爆資料館 閉ざされた40分 検証G7サミット広島」(テレ朝)によれば、要人らは東館から入り、2階にのぼったあたりに館内にあるいくつかの展示物をかき集め、そこで「説明」を受けたという。順路に沿って歩いていない。

資料館は、その展示の仕方についてさまざま問題は指摘されてはいるが、一つの考え方に沿った展示の一貫性は当然あるものだ。「かき集め」は、その一貫性をはなから否定してしまう。見せたいものだけを見せられた要人たちは、想像力を狭める失礼なやり方だということに気がついただろうか。

 

一握りの「先進国」の要人が地球全体のあり方を一方的に決めてしまうサミット。見せたいものだけを見せる日本の政権。サミットは結局のところ、核抑止力を温存し、核廃絶への道を閉ざしてしまった。

しかし、広島は「経済が回った」と喜び、市民は宇品を離れる警官らに「ありがとう!感謝!」と書いた紙をかざしたという。

被爆者のサーロー節子さんは、G7が核軍縮についてまとめた広島ビジョンについて

「自国の核兵器は肯定し、対立する国の核兵器を非難するばかりの発信を被爆地からするのは許されない」「核兵器禁止条約の締約国との協働は全く無視されている」とコメント。

日本被団協の木戸季市事務局長(83)も「希望は完全に打ち砕かれた。核の傘の下で戦争をあおるような会議だった」とコメントしている。

 

こうした反応は広島では少数のようだ。降って沸いたようなお祭に、地元経済界は大喜びを隠さず、「広島出身」を全面に押し出した、時の宰相の点数稼ぎに便乗し、市民も一緒になって踊ってしまったということか。苦々しく思っている人たちもいたに違いないが。国際平和文化都市としての広島は、ずいぶん遠いところに行ってしまったような気がする。

そんなお祭り騒ぎから3週間あまり。

今年は「オトナのひろしま修学旅行2023」と銘打った団体ツアーを企画した。私はいわば添乗員である。参加者は横浜を中心に、埼玉、山梨、愛知、大阪、富山などから20名が参加。ほとんど高齢世代だが、中に小説家の青年が一人参加した。

私の東鴨居中時代の卒業生だ。つい先日、呑んでいる時に「行く?」というと「はい、行きます」と案外躊躇なく応えた。彼は中学時代、不登校だったから広島には行かなかった。

 

ツアーは13日から15日の3日間だが、添乗員としては一日先乗りして、旅程の気がかりなところを確認しておく必要があると、12日、Mさんとふたり横浜を出発した。

ふたり分の荷物を詰めたやや大きめのスーツケースを持って8:00発のバスに乗る。田園都市線に乗る。横浜線に乗り換える。通勤客がまだ残っている時間。スーツケースは気が引ける。

横浜駅で今回協力してくださる方々、5人へお土産を買う。

 

新幹線のぞみは、新横浜から3時間半で広島に着く。9:31発。

初めて広島に行った時には5時間近くかかった。手元のスマホのスピードアプリを開くと静岡あたりで285km/hの表示。

11時半。崎陽軒シウマイ弁当をいただく。久しぶり。価格900円だという。ずいぶん値上がった。アタマの中ではいまだに700円という価格。中身は変わらず。相変わらずうまい。ビールとともに。

 

13:02到着。晴れ、気温かなり高い。横浜を出るときは曇天、富士山は全く顔を見せなかった。西に向かうにつれ天気が良くなってきたようだ。

南口から広電に乗る。路面電車。宮島行き。紙屋町東で宇品港行きに乗り換え。二つ目の袋町で下車。距離的には大したことはないが、30分以上かかってしまう。

ごろごろとスーツケースを転がしながら、全日空クラウンプラザホテル。

17、8年前、家族で広島旅行をした時に泊まって以来。いつもは白島線「女学院前」のパシフィックホテルなのだが、今回はもう少し動きが便利なここに。

 

ここから数時間は別行動。

Mさんは、資料館を見て広島市郷土博物館、そして宇品港へ。

私は、明後日の旧陸軍被服支廠見学のために現地調査。

被服支廠には2016年に訪れ、建物の内部にも入った。案内されて着いて行っただけなので、自力で行くのは初めてだ。

何度かネットでバス路線を調べてきたのだが、どうもはっきりしない。最寄りのバス停は「出汐2丁目」、しかしこのバス停を通るバスが極端に少ない。広島バスという会社の一路線だけ。「出汐町」とか「病院入口」というのがその次に近いため、そこへ行くバス停を探す。

歩いて「紙屋町」のバス停を探す。うろうろしてようやく見つかるが、目当ての路線は見つからない(あとでわかったのだが、やはり乗り場が違っていた。逆向きだったようだ)。

仕方ないので、一旦広島駅に出て、そこから「出汐2丁目」を通るバスを探すことに。路面電車。乗ると眠くなる。

広島駅南口は工事中。バスターミナルへ。あちこち探すも見つからず。適当に当たりをつけた運転士に「出汐2丁目」行きはどこかと聞いてみる。

首を傾げている。「方向としては10番線から出るバスが近いが・・・」という返事。

慌ててそっちへ向かうと、バスが動き始めている。大学病院行き。手を上げて乗ってみる。

方向としては比治山、段原方面、南へ向かっている。

「出汐1丁目」という表示に降車ボタンを押す。「出汐2丁目」の表示はない。

降りがてら運転士に「出汐2丁目」はどっち?と聞くも、首を傾げている。「出汐3丁目はこれから向かうが」と。

それほど遠くはないだろうと、スマホの地図をもとに歩いてみる。

土地勘がないというのはこういうことだ。あたりをつけるということができない。迷う。こういう時は、人に聞くのが一番。

バイク屋さんがある。「出汐倉庫はどちらですか?」と聞いてみる。

「被服支廠」というより、「出汐倉庫」の方が馴染みがあるのではと慮っての聞いたのだったが、「へ?」の反応。「いや、陸軍の被服支廠なんですが・・・」というと、「はいはい、被服支廠ね。それなら、南警察署、今工事中だけどその裏ですよ」と方向を示してくれる。

ホッとする。

出汐という交差点の歩道橋を越えると、広島工業高校が見えてくる。その隣が南警察署だ。

正門の位置がわからず、高校の正門に出てしまい、遠回り。ようやく被服支廠の正門に到着した時には16:00に。ホテルを出てから2時間。

 

出汐の交差点は新広島バイパスという交通量の多い事故多発地点だという。その角に病院入口と出汐町の二つのバス停がある。出汐2丁目はそこから5分ほどのところ。ようやく土地勘が掴める。

工業高校の隣は広島県立皆実高校。旧県立第一県女。被爆当時は今の平和大通り、戒善寺というお寺の近くにあった。校舎は原爆によって倒壊。建物疎開に出ていた生徒301名が犠牲になっている。明後日、被爆講話をお願いしている植田䂓子さんの出身校。

 

出汐町のバス停のすぐ後ろには進徳女子高校がある。ここも袋町の中央電話局(爆心地より540m)に動員されていた3年生、鶴見橋(爆心地1.4km)の建物疎開作業に動員されていた2年生など教職員11名、生徒374名の犠牲者が出ている。敷地内の慰霊碑があるようだ。

 

病院入口というバス停。

17時に路面電車の「比治山下」でMさんと待ち合わせ。このバス、途中で降りれば近いはずだが、よくわからないので広島駅に一旦戻り、電車に乗りかえる。

 

広島駅で歩数計を見る。26000歩。1日の歩数としてはかなり多い。足が固まっている。

 

比治山下のすぐ近くに鶴見橋がある。平和大通りを東のとっつき。進徳女学校のたくさんの生徒が亡くなったところだ。

 

この橋の近くに「お好み焼きkajisan」がある。

 

出かける前、東京の竹内良男さんから、ぜひ行ってみてと言われたお店。

お店に入ると、先客が3人。youtubeを見てもらうとわかるが、鉄板の前は3人坐ればいっぱい。かつてどの町にもあったという「一銭洋食」の店がこんなだったか。

程なくお二人が帰られて、鉄板の前に坐り、梶山敏子さんのお話を伺う。

敏子さんもお連れ合いもともに被爆者。お連れ合いはこの場所で被爆。敏子さんは4歳で被爆、親は原爆で亡くなった。いわゆる原爆孤児となって施設で育ったという。

同じような境遇の子どもたちを支援するために、アメリカに住む人々が原爆孤児支援に立ち上がり、何人もの人々が「精神親」に、孤児たちが「精神養子」となり、互いに養子縁組を結び、金銭的な援助を続けたという。詳しくは広島市のHPに次のような記述がある。

原爆により両親を亡くした孤児は2,000人とも6,500人ともいわれています。頼る親戚もない孤児たちは、たばこのすいがらを拾ったり、靴磨きなどをして暮らしました。また、そういった孤児を収容するための孤児収容所ができ、広島市周辺には昭和22年末現在で5施設が設置されていました。収容所は多くの孤児を抱え、物資や資金も思うように集まらず、食糧の確保が最大の悩みでした。そのため、孤児は農作業や地引き網、貝掘りなど、できることは何でもして、食べられるものは何でも食べていました。また、昭和24年8月にニューヨークの著名な文芸雑誌「土曜文学評論」の主筆として広島を訪れたノーマン・カズンズ氏(1915~1990,広島市の特別名誉市民)は、被爆の惨状を視察する中で、広島戦災児育成所を訪ね原爆孤児たちに強烈な衝撃を受けました。カズンズ氏は帰米後、同誌に「4年後のヒロシマ」と題するルポを発表し、原爆孤児を米国人の精神養子として育成しようと呼びかけました。反響は大きく、孤児の「道徳的里親」を希望する多数の米国人が名乗りをあげました。翌25年1月、戦災児育成所の児童71人が精神養子になったのに続き、その対象も広島修道院、新生学園、光の園似島学園などの施設に広げられ、この年だけでも233人の養子縁組が成立し、米国からの送金額は8,000ドルあまりに達しました。市では戦災孤児養育資金管理運営委員会(のちの広島市精神養子委員会)を設立し、資金の配分や養子縁組の仲立ちにあたりました。この運動は年とともに熱が加わり、28年には最高の409人となりましたが、児童が成長するにつれて、30年から減り始め、10年にわたったこの運動も34年には打ち切られました。この間、8施設490人あまりの児童が養育資金の支給を受けて、社会に巣立っていきました。ノーマン・カズンズ氏はたびたび来広して精神養子たちとの交流を深めましたが、この運動は、日本でも原爆孤児国内精神養子運動を起こさせる契機になりました。

 

その一人が梶山さん。

お好み焼きを焼きながら、「そんな支援に応えようと57年間お好み焼きを焼いてきた」

「物価高騰で経営は厳しいけれど、値上げせずにやっていきたい」と話す。

お好み焼きは1枚500円。ビールの大瓶も500円。30年間値上げしていないという。

出来上がったお好み焼きは、確かにうまい。このままでは大変だろうと、常連の方達が

募金箱を作り、支援しているという。わずかだがカンパをする。

 「今度竹内さんが来たら言わなくちゃ。お名前は?」と聞かれる。明るく元気一杯の敏子さん。82歳とはとても思えない。若々しい。

 

 外に出ると、日に焼けたお顔のお連れ合いが坐っている。敏子さんによると、お好み焼きを焼く以外は、鉄板の掃除から仕込みまで全てお連れ合いがなさるそうだ。

まだ、日は沈まない。

鶴見橋のたもとに古色を帯びた枝垂れ柳が植わっている。説明板がその隣に。

被爆樹木の一つ。

 

3万歩近く歩いただけに疲れ気味。Mさんは、郷土資料館休みだったとのことで、広電で被爆電車などを見てきて、これまた疲れたというので、早めにホテルに引き上げることに。