『怪物』怪物が怪物でなくなったところにいる怪物とはなんだ?

映画備忘録。

先週、3泊4日で広島に行っていたのだが、その前の週に映画を4本見ている。それとミュージカルを一つ。いつものことだが、書いておかないと忘れてしまう。

 

6月5日 グランベリーシネマ。

『怪物』(2023年/日本/125分/脚本:坂元裕二/監督:是枝裕和/出演:安藤さくら 長山瑛太 黒川想矢 柊木陽太 田中裕子 ほか/2023年6月2日公開)

 

是枝監督の上手なところは、多くのいい映画がそうであるように、さまざまな捉え方ができるところだ。深さ、浅さだけでなく、視点そのものもいく層にも重なっているように見える。そうして楽しめれば、映画としては成功。今回も私は十分に楽しめた。

 

「怪物」というタイトルは巧妙だ。この言葉をあらかじめ観客のイメージの中に組み込み「怪物とは何か」「怪物とは誰か」を観客に考えさせ続ける。

観客が何をどう捉えようと、つくる側はそれを狭めることをしない。

数日後、同じグランベリーシネマで『渇水』を見たのだが、偶然『怪物』を見終えた二人組の中年女性の会話を耳に挟んだ。

「あの子たちが一番悪いんだよね」と、映画の中ではちらっとしか出てこない二人のいじめっ子のことを話していた。教員や親に気づかれないように「いじめ」を繰り返す子たちこそ「怪物」だということかもしれない。それはそれでいいのだと思う。

 

しかし、この映画いじめもシングルマザーも問題教師もDVも、背景ではあるけれど、中心的テーマであるとは言えない。

それぞれの事象は案外、分かりやすく、またそれほど重いものとして提示されているとも思えない。マジで演じられればられるほどコミカルにも見えてしまう。

 

一つの出来事が、3つの違う視点から見ると全く違う相貌を見せるという面白さが、この映画の醍醐味ではある。それを緊張感のあるものとしているのは、役者たちの達者な演技ぶりだ。安藤も永山も高畑も獅童、田中も、どこか不安定で不穏なものを身に纏っている。これがこの映画の魅力の一つ。

 

その不安定というか不穏なものの正体、つまりこれが怪物?

ふたりの子どもの遊びの中で繰り返される「怪物だーれだ?」という象徴的なセリフで表されるものは、二人の子どもが内に潜在的にもってしまった、制御しきれない性的志向ジェンダーの揺れなのではないかと思えた。

いじめやDV、教師の暴力といったある意味わかりやすい社会的事象の隙間に、ふたりの子どもの「揺れ」がていねいにそして繊細に埋め込まれている。これは脚本、演出の優れたところ。

 

大人の側、母親の安藤サクラ、教員の永山瑛太、父親の獅童の、それぞれのジェンダー観の押し付け、それも成長過程の未熟な存在である子どもに対し、「君にとって良いこと」として無意識に押し付けられる善意の価値観、暴力、これこそがいわば「怪物」なのだろう。

3つの視点から当初の不気味な「怪物」はその怪物性を剥ぎ取られ、なんだそういうことだったのかと腑に落ちていくのだが、ではスッキリしたところに子どもたちの居場所はあるか?

長いラストシーン、二人の映像は美しく、ファンタジー的だが、ここがいちばんわからない。微妙な二人の中の性的な「揺れ」を、こんなふうに美しくまとめてしまっていいのだろうか。

制度や風習に縛られた大人に対して、柔らかく繊細で純粋なこども?という対立軸は映画としてはいいけれど、現実的にはリアリティがないなと思った。

それから、学校のいじめや教員の暴力に対する稚拙な対応は、多少コミカルではあるがリアリティをもっているように見えたが、校長役の田中裕子はどうだろうか。これもまた「怪物」の一人としてみればみれないことはないが、なんだかちょっと違うのではないかと思った。

 


画像11