中教審、二つのアドバルーン。問題の先送りと無用な階層化が教員の働き方を変えられるかだが、そもそもアドバルーンがいつの間にか萎んでしまうのが今までの通例。

この4月から、医療や各種ドライバー、建設などで「働き方改革」が始まった。

ひと月の残業時間は、原則45時間、年間360時間という規制。

報道番組で取り上げられるのは物流、運送関係が多い。

 

経営者側にとっては、運送量の減少、ドライバーの確保、経営コストの増加が問題。

労働者側からすれば、労働時間遵守は大切だが、一方残業時間の実質的減少による減収も気になるところだ。

 

厳しいのは医療現場だ。

街中の医院の多くはは別として、大学病院や地域の中核病院の勤務実態だ。

もう5年前になるが、大学病院に入院した時に垣間見た助教のドクターの働き方は大変なものだった。朝なゆうなに、さらには夜に病棟を訪れ、手術、診察がぎっしり詰まっていた。

給与は他の職種に比べ高いことは間違いないが、救急医療なども含め医師の不足、偏在の問題は大きい。

 

同じ働き方改革でも、公立学校の教員の場合は全く違う問題がある。

2019年の給特法改正によって、「時間外在校等時間」は原則月45時間、年間360時間と定められた。教員には労基法が原則適用されているにもかかわらず、労基法上の「時間外労働」は存在しない、とされてきた。時間外におこなった労働は、全て自発的なものとされ、実態的には全ての時間外労働はサービス残業としておこなわれてきた。

しかし、あるものをないとする強弁も、過労死ライン超えが8割という実態には堪えられず、苦し紛れにつくられたのが「時間外在校等時間」だ。労働法制にはない給特法の中だけで使われる概念だ。これによって労基法36条、37条の時間外手当支給に関する条項は適用除外となる。

 

改正では、これと合わせて1年間を単位とする「変形労働時間」も導入された。これは労基法上の変形労働時間とは趣をかなり異にするもの。実質的にはほとんど使えない代物。使うとしても45時間360時間が守られるのが条件となるから、これが運用されている実態は現場には全くない。

 

時間外手当支給がない代わりに、公立学校の教員は、本俸の4%をあらかじめ支払われる。

 

給特法は72年に定められた法律であり、4%は当時時間外8時間程度の額にあたる。

 

50年近くもの間、労基法を原則適用せずに、ダラダラと問題を先延ばししてきた結果、教員不足は深刻化し、採用試験の倍率は2倍を切ることが珍しくなくなってきている。

 

12日、この問題を検討している中教審特別部会が、4%の教職調整額を10%に増額するという案を持っていることが報道された。

新聞の見出しだけ見ると、いよいよ教員の働き方改革も実質的な改革に歩を進めるかのような印象を受けるが、違うと思う。

これはアドバルーン、だと思う。

 

文部官僚と中教審委員は、まずは大きくぶち上げ、世間に改革の目玉を示し、財務省との交渉を有利に進めようということだ。

いつものテである。

夏の概算要求と同様、省として方針を決め予算化を公表しても、その後の財務省との交渉で、気がつけばアドバルーンは空気が抜けて小さくなっていく。

 

 

さらに地方自治体の公費負担問題もある。

 

4%を10%に引き上げた場合の財源の公費負担は2100億円と試算されている。

国の負担は三分の一だから700億円、それに対し地方は1400億円の負担となる。

 

地方財政がこれほどの増額を全国的に受け止められるだろうか。

 

10%が仮に実現したとしても、これもまた問題の先送り。

実際に「時間外在校等時間」は、昨年の日教組、全教二つの連合体の調査でも平均90時間を超えている。10%を単純計算しても20時間分にしか充当せず、残り70時間はサービス残業ということになる。

 

さらに中教審は、若手教員を指導する新ポストを新設、給与も増額することを提案している。これも予算が伴う。いかほどを考えているのか。

 

2008年に新設された主幹教諭が、組織の活性化にどれほど寄与しているか、疑わしい。

管理職とまでは言えない主幹教諭が、無責任に組織を掻き回してしまう実態もある。

おべっかとゴマスリの蔓延?

新しいポストをつくっても、階層意識だけが強まり、組織は弱体化する。

ナベブタと言われる教員組織の原形は、養育や教育、あるいは子育てという境界の見えない労働にあって、それなりに機能してきた、と私は考えている。境界をはっきりさせずに協働する文化が教員の集団には一定に根付いてきた。

それを壊してきたのが、00年代に始まる教員の個人化、人事評価制度と新ポストの新設だった。

 

複雑化する子どもの問題を解決するには、それに合わせた柔軟で想像力のある組織が求められる。

 

東京都ではすでに「主任教諭」という形で導入されているが、新設にどれほどの意義があったのか。

 

向かう方向が違うのではないか、と思った二つの中教審案である。