教員の業務の「創造性、自発性」に穴があくのだろうか。大阪府立高校損害賠償請求事件判決

7月4日、散歩の途中から雨。猛暑日が8日続いた。少しだけ気温が下がって、濡れるに任せて歩くのも気持ちがいい。

先般触れたカボチャの蔓は、もう2㍍近くもミモザの木を越えて伸びている。

 

一昨日から昨日にかけて次女の家族が泊りに。7歳の一年生はどこか落ち着きが見えはじめたが、3歳男児はさまざま知恵がついて好き放題。予期せぬ動きに翻弄される。その言動面白いことこの上なし。次女いわく「天使と悪魔が同居している」。

 

この男児ら、なぜかそば好き。そこで日曜の昼に久しぶりにそばを打つ。MさんのてんぷらとともにA君と昼からビール。女性二人の視線が気にならなくもないが。

 

大阪・府立高校教師が勝訴 府に賠償命令 「若い人に倒れてほしくない…」(テレビ大阪ニュース) - Yahoo!ニュース

6月28日。大阪府立高校の現職の教員西本武史さんが長時間勤務を強いられ適応障害を発症、休職を余儀なくされたとして、府に対し損害賠償を求めた訴訟で、大阪地裁は請求通りの230万円の賠償金の支払いを命じた。

これに対し府は、教員の負担を減じることが重要として、控訴しない方針を明らかにした。

 

判決文を見ていないのから推測でしかないのだが、満額の損害賠償を認めたということは裁判所は府側の主張をほとんど認めなかったということだ。

全面敗訴であるにもかかわらず、吉村知事が即日のコメントで控訴せずを発表したのは解せない。

やりたい放題の維新政治ならば、即日控訴が常道。弱気の断念は参議院選挙前にしっかり点数を稼いでおこうということだろうか。

 

この裁判でも教員の業務の「自発性、創造性」が問題となった。

 

教員の勤務時間法制の特殊さは給特法に極まるが、給特法というのはもともと

① 原則として法定労働時間制に則って(原則労基法適用)

② 正規の勤務時間の割り振りを適正に行い(好き勝手にアやっているわけではない)

③ 原則として超過勤務を行わせないこととし(残業命令禁止)、

④ 例外的に時間外労働を行わせる場合はその内容を4項目に限定した(限定4項目)

⑤ それを命じる場合はすべて「臨時又は緊急」にやむを得ない場合に限るとし、

⑥ その時間外労働の時間数に対応する割増賃金を支払わない代わりに俸給の4%をあ  

  らかじめ支払うとしたもの。

 

しかしながら、私も含めてだが、給特法をめぐる裁判の多くは、教員の勤務は「自発性、創造性」に基づくものとし、4項目以外の時間外労働は「勤務ではない」とみなしてきた。

 

2021年10月の埼玉超過勤務訴訟の判決もまさにそれであり、裁判所はわずかな時間のみを労働時間として認定、90%以上の労働を「勤務ではない」とした。

読めば読むほど法理を逸脱した現状追認の情緒的な判決で、これに対しては『現代思想』2022年4月号で私なりに厳しく批判を行った。

 

今回の判決の一つの特徴は、部活動指導を中心とした4項目以外の業務を「労働」と認定したこと。

労災認定の裁判などでは割合幅広く労働時間が認められる確率が高いとは言われるが、損賠を求めた訴訟でのこの認定はまれだと思う。

 

何十年も前から「自発性、創造性」論に対するものとして

「教員の自由意志をきわめて強く拘束するような形態が常態化した場合」は、4項目以外の勤務に対して超過勤務手当を支払うべき、という文言が諸所の裁判所の判決で使われてきた。

ところが、どれほど「強く拘束」を主張しても最終的には「自発性、創造性」論がこれを凌駕するという構造になっていて、割増賃金の支払いが認められてたケースはない。

 

今回も認められたのは損賠であって割増賃金ではない。これは請求の仕方が個々の超過労働時間に対する「割増賃金を支払え」ではなく、原告が適応障害を発症したにもかかわらず、管理職は適切な対応をとらなかったことに対する損害賠償だったからだ。

 

たとえそうであっても、裁判所が「自発性、創造性」論によって教員の「労働」を労働として認定しないという「常識」を覆したこと大きな意義があると思う。

 

 

来月25日に埼玉超過勤務訴訟の控訴審判決がある。

大阪の判決が東京高裁の判断に影響を与えるとは思えないが、一方で、あれほど非論理的なでたらめな判決を踏襲するとも思えない。高裁として、世情の動きを含めて相応の評価を付さないと格好がつかない。楽しみではある。

 

もう一つ実名問題。

埼玉訴訟の原告田中まさおさんは、拙稿を読んでくださり、5月横浜まで来てくださった。さまざま意見交換をしたのだが、彼は彼なりに判断で「仮名」を選択。一方、大阪の西本さんは「実名」を選択。そのことがマスコミでひとしきり話題となった。

マスコミは、この手の裁判で実名公表は珍しいなどとしているが、そうだろうか。

私も含めて、私の周辺で裁判をやった人たちはすべて実名である。

それは、裁判が第一義的なものではなく、訴訟を提起することによって現場の状況の変容を求めていくという思いがあるからで、今回のように「潔い」「堂々としている」といった意味はほとんどないと思う。

ただ、今ほどSNSなどによって執拗な嫌がらせなどない時代だったこともあるかもしれないが。

 

だからというか「田中まさお」さんを潔くないなどと言うつもりもない。逆に田中まさおさんは、田中まさおさんとして裁判の前面に出て、意見陳述をしたり、総括集会で堂々と発言を続けている。記者会見に出てこない原告とは一線を画している。

 

本名公表をことさらに云々するのは、どこか児戯に等しい

重要なのは、裁判をやってみること、問題提起をすることだ。本名か否かは些末な問題。