2日目(6月14日)、午後。
植田さんをお送りするタクシーの手配。うろうろしてると、中澤さんが「私がいつも使っているところ、呼んであげる」。
まさにおんぶにだっこ。
植田さんをお送りして、次の予定の縮景園までは、少し時間の余裕がある。
私が勝手に勘違いしていた。
ここからはそれぞれ自由に時間を過ごして、各自で縮景園前に集合と思い込んでいた。それでそんなふうにみなさんに伝えたのだが、なんとなく元安橋の袂に皆さんが集まり始めたので、「袋町小平和資料館に行く方は、一緒にいきましょう」と声をかけた。
旅程の第一次案では、「自由に」だったが、最終案では「15:00袋町小平和資料館見学」となっていた。
レストハウスから袋町小までは、500メートルほど。
途中、少し遠回りだが、爆心となった島病院あとへ。戦後、2代の方が島外科に。現在は3代目の方が島内科を経営している。当時は病室が50室、看護婦10人というから、大きな個人病院だったようだ。
ここがまさにグランド・ゼロ地点。
このエントランスだけを見ると、古い学校のようだが、古いのはここだけで、袋町小自体は、他施設をさまざま共有する近代的な校舎。繁華街の中にあるため、セキュリティも厳しそうだ。
資料館は、靴を脱いで、まずすのこにあがる。脱いだ靴を下駄箱に入れる。
外国人親子の鮮やかな色の2足の靴が、すのこの上に並んでいる。なんだかとっても微笑ましい。そっと下ろしておく。
袋町小は「壁に残された伝言」で知られる。1945年8月6日、爆心に近いここ袋町国民学校は、疎開に行かなかった1、2年生と教職員が全員が亡くなっている。
急造の救護所となった校舎には、家族を探しに来た人たちが、壁にさまざまな伝言を残したことが知られていたが、校舎を改築する時に壁は塗り込められ、伝言は54年間隠されたままだった。1999年の改築の時に、生存者の話をもとに漆喰の壁が取り除かれ、コンピュータ解析をして、その文言が明らかになった。
地下の教室では、その経緯が20分ほどの作品にまとめられ、常時、鑑賞できるようになっている。
ちょうど、英語版の上演の最中。
壁面に書かれた伝言のひとつ。学校近くの病院に勤めていた娘を探す母が、「田中鈴江 右ノモノ御存知ノ方ハお知らせ下さい」と書き残している
写真は、シンク・ジ・アースのHPからお借りしました。
縮景園の集合時間が迫っている。
みなさんを急かして、150メートルほどの袋町の電停に向かう。
これが失敗の原因。少し歩く距離を延ばして、紙屋町東の電停に向かえばよかったのだが、長く歩くのがしんどいかたもいるし、何より自分も少し足が痛む。
住数人が並ぶと袋町電停は身動きが取れないほど。
時間がないからと、来た電車の行先も見ないまま、「乗ってください」。
電車が出てから、西広島、己斐方面に行く電車であることに気づく。大失敗。
次の本通りで一旦降りてもらい、広島駅に向かう電車を待つ。
なかなかこない。縮景園ではヒロシマ宗教協力平和センターの方々が、待っているはず。
電車賃も2度払いになってしまった。ツアコン失格。
ようやく来た広島駅行きの電車に乗り、今度は八丁堀で白島線に乗り換える。
広島の繁華街の中心。横断歩道を渡って白島線の八丁堀の電停へ。
これまたなかなか電車が来ない。この路線は、ピストン、折り返し運行。行った電車が戻らなければ出発しない。ここも狭い電停に10数人が立ち並ぶ。
白島行きが来て無事乗車。時間はすでに予定の集合時間15時30分を過ぎている。
縮景園前駅には10分ほどで到着。
みなさんを置いて、一人早足で県立美術館前を通って縮景園へ向かう。
少し雨もよい。
入口を入ったところで、3人の方が待っていてくださる。
波多野さん、細光さん、上田さん。平謝り。ご心配をおかけしてしまった。
ここは65歳以上は入場無料。
縮景園自体については
今回案内していただけるのは、名勝地としての縮景園ではなく、被爆地、被爆樹木の縮景園。
爆心から直線距離で2km足らず。この地でも数千人の人々が一瞬で亡くなったと言われている。
その後、広大な庭の池の水を求めて、すぐ近くの京橋川の水を求めて、被災した人々が押し寄せた。
昨年、ここを案内してくださったのが波多野愛子さん。
中国軍管区司令部地下壕に学徒動員されていた岡ヨシエさんの伝承者をされている方だ。
波多野さんは、中澤さんの『あなたのいたところ 14歳のひろしま ワタシゴト2』に登場する。
第2章 もと防空作戦室(爆心地から790メートル)
波多野さんは波野さんという名前に。
この章は、穹とリサという中学生を引率している村木先生自身が、中学生の時にここを訪れ、岡さんのお話を伺い、お話に集中しない生徒を前に岡さんが帰ってしまうという経験をしている。
そのシーンと村木先生の深い後悔のシーン。
「あなた方が、まじめにきく気がないのなら、わたしはもう帰ります。このあたりで大勢の女学生は亡くなりました。あなたたちと、同じ十代でした。わたしは、その人たちの代わりにいまここにいて、みんなの代わりにあなたたちに話をしているのです」。
そういうと、その人は、私たちに背を向けた。まだ、肝心の話は始まっていない。帰るなんて冗談でしょ、とみんな思った。
かびくさい地下室に入ると、わたしたち女子は、奥にかたまって隣同士押し合い、くすくす笑った。班行動であちこち歩いて、いいかげん疲れてもいた。また、立ったまま話をきかなくちゃならない。どこか涼しいところに座って、ジュースでも飲みたいな。みんな、そんな感じだった。わたしたちの小さな笑いが、水の輪のように広がり、男子までがけけけと笑いはじめる。
しまった、と思った時はもう遅かった。引率の先生がすぐに謝り、何度も岡さんを引きとめたが、そのひとは、地下室を出て行った。振り返らない背中は、思いのほか小さく、弱々しかった。その後すぐに先生は岡さんを追いかけ、自宅まで行って謝ったけれど、もちろん、もうわたしたちが話を聞く機会は二度となかった。
・・・あのあと、横浜に帰って先生からもらった、岡さんの体験記を読み直したとき、自分は最低だと思った。どうしてわたしたちは、あの場所で笑ったりしたのか。夜、ベッドの中で泣いたことをきのうのことのように思い出す。生まれて初めての真剣な涙だった。
この時は入れた軍管区地下壕、司令部跡は今では危険ということで入れない。
波野さんが岡さんの話をするシーン。
「さあ、移動して建物の外観をもういちど思い出しながら見てみましょう」
波野さんが声をかける。
穹は立ち上がって大きく息を吸い込む。なんて、おいしい、くうき。りさも立ち上がる・。二人で、ううん、とのびをしたら、わきに波野さんが立っていた。
「岡さんは、亡くなる前、あそこに見える病院に入院していて、窓からこの土手を見ながら、わたしに、なんども何度も、『若い人たちに、ずっとずっと伝えていってくださいね。お願いしますね』と言われました。あるときは、『引き継いでもらって、これで安心です』とも言われました」
波野さんは、そこまで言うと、まるで岡さんがそこにいるかのように、病院に向かって小さく手を振った。
「わたしも、あなた方と同じように、あのときまだ生まれていなかったから、戦争を知りません。でもね、わたしは、岡さんから託されたのだ、と思っています。
長い引用になった。
岡さん、村木先生、穹とりさ、そして波野さん。継承していくことの困難と大切さをリアルに表現した素晴らしいシーンだと思う。
小雨の降るなか、3つの班に分かれて、園内を歩く。
私たちを担当してくださったのは上田さん。この団体の理事長さんだ。
縮景園を案内するは今回初めてだという。
ひとつ一つ、間違えないように丁寧に話される。
メモを取っていないので、一つだけ、昨年のブログから引用する。
1987年7月31日、地表50㎝のところから大量の人骨が発見される。その数300~500個の骨片。
発見のきっかけとなったのは、元朝日新聞のカメラマン松本栄一さんが1945年9月に雑誌『科学朝日』の原爆特集の取材で撮影した写真。この写真を手掛かりに遠くの牛田山の稜線や京橋川のかかり具合などから場所を特定したという。
縮景園には何度か足を踏み入れたことがあったが、原爆被害を意識して見学したのは初めてのこと。
さて、本日の予定はここまで。
HRCPの3人の方にお礼を言って、解散。
電停でその中のお一人、細光さんと一緒になる。
「流川はどの辺りですか」と聞いたのは誰だったか。流川は広島の一大歓楽街。
まだ日は高いが、さっそく、夜の会場のあたりをつけるあたりは、長年の気合を感じさせる。
細光さんの指差す方へ、からだごと流れていく高齢男性たちだった。