今朝の新聞の死亡告知欄に人類学者のデヴィッド・グレーバーさんが9月2日にベニスの病院で亡くなったとの記事が載っていた。59歳。
昨日、『ブルシット・ジョブ』(岩波書店/酒井隆史・芳賀達彦・森田和樹/2020年7月刊・8月で三刷/4070円)
が手元に届いた場ばかり。
図書館で検索したら24人待ちだというので、まともに待てば1年かかるなあと思い注文。
サブタイトルは「クソどうでもいい仕事の理論」。
朝日の死亡告知欄は、この「クソ」を省略、「どうでもいい仕事からの解放を論じた」と紹介した。
私は「クソ」があったから購入することにした。
訳者の一人酒井隆史さんが、次のように解説をしている。
それでは、まず「ブルシット・ジョブ」(以下、BSJ)とはなにか。筆者であり、この言葉の作者でもある、人類学者のデヴィッド・グレーバーは、だいたいいつもこういうふうに説明している。
「BSJとは、あまりに意味を欠いたものであるために、もしくは、有害でさえあるために、その仕事にあたる当人でさえ、そんな仕事は存在しないほうがマシだと、ひそかに考えてしまうような仕事を指している。もっとも、当人は表面上、その仕事が存在するもっともらしい理屈があるようなふりをしなければならず、さらにそのようなふりをすることが雇用上、必要な条件である」。
押さえておくべきポイントは、BSJとは、当人もそう感じているぐらい、まったく意味がなく、有害ですらある仕事であること。しかし、そうでないふりをすることが必要で、しかもそれが雇用継続の条件であることである。
これはもしかして教員の仕事にも当てはまるのではないか。
では「クソ」とは?
BSJにはすでにいくつか日本語があてられている(実は訳者もあてたことがある)。
たとえば「クソどうでもいい仕事」である。今回公刊した訳書でも、一応、日本語としては「クソどうでもいい仕事」としてはいるが、基本的に、無理に日本語にするのをあきらめた。というのも「ブルシット」には、たんに「どうでもいい」という意味だけでなく、ふりをしてごまかすといった「欺瞞」のニュアンスがあるからである。
たとえば、『ランダムハウス英和辞典』では、bullshitはつぎのように定義されている。「1 *1 嫌なもの,不必要なもの 2 *2 うそ,ほら,でたらめ,たわ言;ほら吹き,うそをつくのがうまい人」。
このように、うそ、でたらめ、といった語義があって、それが、ブルシット・ジョブを考えるときには重要なのである。
少しくだいていうと、こんな仕事なんて意味がないと、それをやっている人間も多かれ少なかれ感じているが、しかし、それはいわないことがお約束になっているといった、そんな状況がBSJにはつきまとうのである。
(傍線は私)
教員の仕事なんて意味がないと、教員をやっている人間も多かれ少なかれ感じているが、それは云わない約束・・・ということになる。
教育だけでなく、ケア系の仕事も当てはまる。賃金が低くても我慢してやる仕事?
「クソ」が重要だということだ。難しそうだが、読むのが楽しみだ。
ただ、このところ「つんどく」が増え続けている。
暑いので(だけじゃないけど)、集中力が続かない。気が付くと眠っている。そんでちゃんと寝ようとすると目が冴える(笑)
またまた広島の話題。
新聞記事を読むとふむふむと読んでしまうが、これはかなりひどい話。
要するに3年前の耐震強度調査はなんだったのか?という話。
耐震費用が3分の1で済むなら、1棟保存は3棟保存にということになる。
しかし県知事はそのあたり「いやいやそうではなく・・・」などといっているようだ。
あきれるのは、県も市も広島の行政の質の低さだ。
議論の基礎となるべき「数字」があやふやなままで、どんな議論ができるというのだろう。
ごく普通に考えて、住民監査請求の対象となる案件だと思う。前回の調査への支出は不適切なものであり「返してもらう」対象になるからだ。
ついでに広島市の問題も一つ。
平和大通りの「賑わい創生事業」というのが進められている。
この2月、平和大通りの業者が市民(と書くと、おお、そうかなんて思うが、たいていこういうののうらには経済団体がついている)が、なにやら提言をしたという。
以下は中国新聞から
提言では、平和大通りのうち鶴見橋西詰め―平和大橋東詰めの約1・5キロで「カフェや芸術作品の常設、四季折々のイベントができないか」と提案。民間開発を後押しする国指定の都市再生緊急整備地域に平和大通りが含まれていることも踏まえ、「広島駅や比治山公園、縮景園などの資源を人々が巡る『広島平和回廊』を形成したい」とまとめた。
平和大通りは道路であるため、電源設備や水道設置に制約がある。常設の飲食施設の営業はできず、規制も多いためイベントは単発や短期間に限っていた。市が都市公園と位置付ければ、公募で選ばれた民間事業者が公園内で収益施設を運営することができる。(2020年2月4日付)
笑ってしまった。
『広島平和回廊』とはよく考えたものだ。
要するに平和大通りを道路ではなく公園にすれば、常設の商業施設をつくることができる、そうすればたくさんひとを呼んで儲かるよ、ということだ。
どこに「平和」があるのか。
だいたい「回廊」と云ったって、広島駅も縮景園も比治山も離れすぎ。
今、運行しているループバスが「回廊」ではなく、「巡回」している。
いろいろ言っているけど、100㍍も幅のある平和大通りを商売に使わないのはもったいない、行政が率先して認可すればもっと「賑わい」に寄与できるよという提言なわけだ。
平和大通りを歩いてみればわかるけれど、1965年につくられた新しい道でありながら、周りにはたくさんのお寺があったり、神社(白神社)があったりする。もちろん被ばく関連の碑も多い。
広島を訪れる中学生は、平和大通りの中にある慰霊碑の前で証言者のお話を聴く。お寺で証言される方もいる。
8月の報道では、慰霊碑は工事の邪魔、移設すべき、などという話もあった。ひどい話である。
行政と地元経済界の金儲け最優先の出来レースが、広島の記憶すら消そうとしている。
「折り鶴タワー」に象徴される広島の「空洞化」、気がかりである。