最寄りの電停は「袋町」。
電車通りの向こう側にNHK広島放送局。こちら側が白神社(しらかみしゃ)という神社。その隣がホテルになる。
白神社は、反対隣の三井ガーデンホテルも含めた、この一角全体が敷地だったというからかなり広い境内だったようだ。今はこじんまりとしているが。
原爆の攻撃を受けたあと、広島は復興の象徴として幅100mの平和大通りを整備するが、もともとこの道路辺りが海岸線だったとか。白神社は船の安全航行を祈る神社だったらしい。
13日朝、早めの朝食を済ませ、外を少し歩くことに。Mさんは2度目の広島。ひどい方向音痴なので足ならしが必要と平和大通りを歩いてみる。
まず、ホテルを出て東へ100mほど歩くと「広島県立第一高等女学校職員生徒追憶の碑」がある。第一県女の校舎がここにあった(現在は、昨日訪れた被服支廠近くにある県立皆実高校)。
明日14日に被爆証言をお願いしている植田䂓子さん(旧姓石崎さん)の出身校。植田さんは当時2年生14歳、妹さんの睦子さんは1年生13歳。学徒動員での建物疎開の時に被爆。探し回ったお父さんが見つけたのは睦子さんの制服だけ。その制服は資料館に寄贈されている。睦子さんは未だ帰宅していない。
道路を隔てた向かい側に戒善寺というお寺がある。
私がこのお寺を始めて訪れたのは91年のことだ。生徒がここで植田さんのお話を伺うので、ご挨拶と許可を得るためだった。
植田さんは、ゆかりの場所として、ここの本堂で長いこと被爆証言をされてきた。
1年生223名を含む生徒281名が亡くなったとある。その一人が石崎睦子さんだ。
車のクラクション、ひっきりなしに通るバス。4km続く平和大通りの東詰が、昨日お好み焼きを食べたKAJISANがある鶴見橋。比治山下だ。
通勤、通学の人が慌ただしく行き交う。自転車が多い。
私立女子校らしい生徒の制服姿が、どこか古風。伝統的なデザインをそのまま保ってきたようだ。
この碑の前でお話、証言をされていた方のお名前が出てこない。とっても元気な方で、いつも大きな声で話をされていたメガネの女性。
真ん中の女学生がE=M C2という不思議な数式を持っている。これはアインシュタインの相対性理論から取られた原子力のエネルギーの公式。
この碑の建立は1948年。日本はアメリカの占領下だったため「原爆」という言葉使用できなかった。
市立高女では、この地に建物疎開の学徒動員に来ていた1、2年生541名を含む666名と教員10名全員が亡くなっている。
多くの女学校、中学校の生徒が広島市の中心部のこの一帯に学徒動員され、ほぼ全滅している。西側の本川土堤では広島二中の生徒がほぼ全滅している。
悲惨この上ない。
広島高女、市女と呼ばれたこの学校は、現在、広島市立舟入高校となっていて、元の場所にある。
マルセル・ジュノー博士の碑やノーマン・カズンズ氏記念碑を見て朝の散歩が終わる。
米軍の原爆攻撃後、赤十字国際委員会の主席駐日代表として来日したジュノー博士の本来の目的は、連合国軍捕虜の処遇の調査だったが、広島の惨状を見て驚き、GHQに支援を要請、15トンの医薬品を持って9月8日に広島に入り、被爆者の調査とともに治療にあたったという。数万人の人々が救われたそうだ。
加藤礼子さんというベレー帽の女性が、この碑の前でお話をしてくださった。
さて、ツアー1日目は、今日13時に原爆ドーム前で始まる。
それまで4時間ほど。
Mさんは、昨日行けなかった広島市郷土博物館へ行くという。
でもその前に、広島に来たのだからぜひ見てほしいところがある。ひろしま美術館だ。
ホテルから1kmほど。一緒に行くことに。
広島に来るたびに、ここと比治山の広島市現代美術館もう一つ広島県立美術館、どれかに寄る。
公益財団法人だが、運営主体は広島銀行。65歳以上は入館料無料。
いつもながらの静かな佇まい。開館したばかりでお客さんの姿は少ない。
エントランスから中庭に出たところ。
所蔵作品は、フランス印象派が中心。ミレー、ドラクロワ、ドガ、ロートレック、ルノワール、シャガール、モジリアニ、セザンヌなど。ゴッホ、ピカソ、フジタもあってとにかく多彩。
円形の建物の中がいくつかに分かれていて、私のような美術の門外漢でも楽しめる仕組み。
ここでMさんとは別れる。
私は、とりあえず今日の夕方、被服支廠の鍵を借りに行かなければならない県庁の財産管理課の場所を確認。
歩いて八丁堀方面へ。
今日の夕食交流会の会場である三川町の火鉄焼餃子「ほおずき」の場所を確認に。
またまた難儀する。パルコ、そしてお好み村の近くなのだが。
生徒を引率して何度も宿泊したことがある「世良別館」という、今では閉館してしまった旅館の目の前、ということはわかっているのだが、なかなか見つからない。スマホの案内の使い方が今ひとつうまくいかない。10年前の記憶は曖昧。
いい天気の上に気温もぐんぐん上昇。
Mさんに負けない方向音痴、同じところ何度も歩いて、ようやく見つける。世良別館あとは駐車場に。
2階にあるお店の階段を前に「なんだ、来たことがある」。居酒屋としてセンスの良い店だった印象がある。
今夕、皆バラバラにここに向かうとして、ちゃんと到着できるだろうか。
喉が渇いたので、コンビニで飲み物を買い、近くの袋町公園で一休み。
埼玉の山際さんからメールが入る。
「本日からよろしくお願いします。私と佐野さんは広島駅に12時27分に到着予定です。まあ多分間に合うと思いますが。」
ほとんどの参加者が、今広島に向かっている。心配だった天気も上々。無事の到着を祈るばかり。
このあと、国立祈念館(正式には国立広島原爆死没者追悼平和祈念館)でおこなれている企画展「空白の天気図」を見る予定。
その前に、道すがら「袋町小学校平和資料館」に寄ってみる。明日か明後日、参加者に来場を促すためにリーフレットをもらっておくのが目的。
受付にやや高齢の男性が一人。見学者はいないようだ。
ポツリポツリと言葉を交わす。
それによると、ここと平和公園を挟んで西側にある本川小の平和資料館が、いずれ原爆資料館の分館という位置付けに変わるとのこと。
つい
「似島の平和資料館は?」と尋ねる。
首を振る。
あれこそ、ちゃんと分館扱いにしないと、維持、運営が大変じゃないでしょうか、というと大きく頷いてくださる。
似島の平和資料館は、看板こそ広島市長の揮毫だが、運営は地元任せ。かなり厳しい状況であることは、昨年、ボランティアガイドの中心である宮崎佳都夫さんから伺った。
平和資料館至近の二つの小学校が分館となることは意義があるが、似島を放っておいていい理由がわからない。
まさか似島が軍都広島を支える一大要衝であったことと関わるわけではあるまいと思うが。人数分のリーフレットをもらい、国立祈念館に向かう。
国立記念館は地下に造られている。
入口は地下にあって、そこから階段降りると死没者追悼空間が現れる。
今日の企画展は「空白の天気図」。柳田邦夫氏の著書『空白の天気図』に由来するもの。
企画展会場では、独自に制作された映像が流れている。
『空白の天気図』は、1945年8月6日の原爆攻撃を受け、1ヶ月後に枕崎台風の被害を受ける広島にあって、広島地方気象台の職員の動きを克明に追った優れたドキュメンタリー。今でも古さを感じさせない。
しかし、映像は原爆被害が中心で、気象台の職員としての動きが薄く、期待はずれだった。
外国人の視聴者が多いのが目についた。
さて、12時を過ぎた。
どこかで食事をと言っても、わざわざお店に入るのも面倒。
電車道のコンビニでおにぎりとお茶を買おうと、歩き始めたら向こうからMさんがやってくる。同じコンビニで買い物をしたようだ。
原爆ドームの碑の前にはたくさんの観光客。ボランティアガイドが何人も。
晴れた空と鮮やかな緑に原爆ドーム。人々の想像力を刺激する建物。予想より大きく見える、いや小さく見える・・・人それぞれの感じ方。
12時30分。最初の参加者が姿を見せる。