5年ぶりの広島滞在記④

25日11時。

広島駅の広電乗り場。

太陽は中天に近づいて、陽射しは真夏のように強い。

広島港行の路面電車は、的場町から本通りを経て遠回りしていく1号線と、比治山下から皆実町6丁目を経て直接向かう5号線と二通り。電車に不案内なよそ者は、石橋をたたくように案内所で番線を確認する。

 

40分弱だろうか。うとうとするうちに広島港に着く。

同行する松岡さん、長谷川さんは先に着いていて「うどんを食べた」とメールが入った。

電車を降りた先が広島(宇品)港。ここから能美島江田島への船も出ている。

構内は人けがなくがらーんとしている。似島行きの船は12時30分。

 

中澤さんからは、よけいな荷物はロッカーに預けたほうがいいとのアドバイスをもらっていたので、3人で大きなロッカーに荷物を詰め込む。

 

似島行きフェリーの往復チケットを買って、構内の食堂で昼食。ラーメンを食べるが、今年随一のまずさ。港のややたそがれた風情に鼻が鈍ったようだ。

 

定時出航。海は凪いでいる。乗客は少ない。

似島(家下)港までは20分だが、待ち合わせ場所は似島学園桟橋。いったん似島港へ寄港してから学園桟橋に迂回するため40分ほどかかる。

時間がかかるのは牡蠣の養殖の仕掛けを避けるためのようだ。ごあいさつ

 

桟橋で似島歴史ボランティアガイドの会の会長宮﨑佳都夫さんが出迎えてくださる。

日に焼けた大柄の方。似島の歴史を語る上で欠かせない人とのこと。あとで見せていただくことになる大部の村史は宮崎さんのお父様が企画し、宮崎さんが執筆したもの。筆力のほどが分かるというものだ。

同様に軍都広島を支えた似島の戦争や原爆についての調査は宮崎さんのお仕事だ。

最後に訪れることになる似島平和資料館建設も宮崎さんが中心となって担われたもの。

 

名刺をいただくが自分の名刺は宇品港のロッカーの中。

そればかりか、この真夏日に必須の晴雨兼用の折り畳み傘までもロッカーの中に忘れてしまった。

松岡さんが「赤田さん、これ使ってください。私は長谷川さんに入れてもらいますから」。

昨夜、「松岡さん、明日は傘か帽子がないと大変ですよ」といったのは誰だったか。

松岡さんの傘は未使用の真新しいもの。恐縮至極。使わせていただく。

さてフィールドワーク。

炎天下、歩きでの見学を覚悟していたのだが、宮崎さん

「動くかどうかわからなかったけど、何とか動いているから」

と軽自動車を用意してくださった。これにはひたすら感謝。

 

似島は、日清戦争から太平洋戦争まで検疫所や俘虜収容所、弾薬庫などの軍用施設がたくさんつくられたところ。

下関の彦島、大阪の桜島、そして似島と全国に3か所の検疫所があったそうだが、1895年に完成した「似島臨時陸軍検疫所(第一検疫所)」は世界最大規模を誇ったという。

 

フィールドワークはおおむね、日清、日露、そして太平洋戦争に至るまでの二つの検疫所跡や弾薬庫跡、俘虜収容所、馬匹検疫所跡をめぐっていく。

日清、日露、ともに兵隊が出ていく桟橋、帰ってくる桟橋の二つがつくられ、時代によってその石組が違っている。ひし形に並べてあるものと平積みと。

 

また第一次世界大戦時には、日本は山東半島・チンタオでドイツ軍と戦い、1918年にここ似島に500人以上の捕虜を収容することになる。

この時代、まだ牧歌的な空気が残っていて、捕虜たちは広島高等師範学校の学生とサッカーの試合をしたり、音楽会を開催したりしている。

1919年の広島県物産陳列館(現原爆ドーム)では捕虜たちが作った工芸品や食品が展示されていたという。似島バウムクーヘン発祥の地とされるゆえんだ。

いずれにしても、後藤新平が指揮して完成した検疫所は、満州事変、上海事変、盧溝橋事件と大陸へ侵攻して続く日本の帝国主義的アジア展開を支え続けていくことになる。

 

1945年8月6日。似島は臨時野戦病院となり1万人以上の負傷者が収容される。

米軍は攻撃の手を休めず、8月15日に至るまでグラマン機による銃撃を続けたという。

戦後の似島の歴史は、遺骨収容の歴史だ。

1947年に1500体の遺骨を発掘。広島市戦災死没者似島供養塔の墓碑を立て合祀。原爆の記載がないのはGHQとのかねあいだろうか。

1955年、2000体の遺骨を平和公園の「供養塔」へ合祀。

1971年には似島中学校グランド(元馬匹検疫所)から517体(推定)の遺骨を発掘。

1990年には、馬体焼却所から骨片40点が見つかる(1000体の遺体を火葬したとの証言があるが、遺体を埋めたとされる地下壕からはいまだ発見されていないとのこと)。

2004年には1971年の遺骨発掘場所付近から推定85体の遺骨が発掘されている。

 

宮﨑さんは声高には語らない。やや低めの声で淡々とその事実を伝えてくださる。

その都度クルマを降りての説明だが、私たちの疲労度も鑑みながら休憩を交えて約2時間半、資料館にたどり着いた。

お話すべてを紹介することはできないが、最も重要と思えたことは、似島は宇品港とともに、近代日本が行った数々の侵略戦争を支えた軍都広島、その出入り口の役割をはたしたところだということだ。似島抜きに軍都広島は語れない。

平和公園原爆ドームからは察することが難しい大本営までが設置された軍都広島、いまではそれを想像するには似島の歴史と残された遺跡をたどるしかないと思う。

似島に平和資料館 戦争遺構の資料を保存・展示、「学びを深める場に」 | 中国新聞デジタル平和資料館

資料館の維持も島内の戦跡ガイドの養成も簡単にできることではない。宮崎さんのような方が、いらっしゃったからこそ、いままで歴史が語り継がれてきた。広島市は資料館建設にはお金を出してもその維持運営費は出さない。宮崎さんは、窮余の策として広島市に資料館を寄付し、広島市が運営するという案を提示したことがあるが、一笑に付されたという。入り口の松井市長の立派な揮毫は何のためか。同じ広島市の資料館、分室という位置づけであっても全くおかしくはないのだが。

ここでもまたハードソフト両面にわたって継承、伝承ということが問われている。

帰りのフェリーは17時発。資料館から似島港まで宮崎さんにクルマで送っていただいた。

日が少し傾いて、海沿いの道を走るクルマの窓から気持ちいい風が入ってくる。

たった3人の訪問者のために、半日のほとんどを使ってガイドをしてくださった宮崎さんにはお礼の言葉もない。

市中心にわずかに残る戦跡からはかり知ることのできない軍都広島、似島の戦跡が手厚くもっともっとたくさんの人に訪れてほしいと切に願うばかりだ。