『月』(辺見庸)読了。辺見は、全てを敵に回して、「わたしたちのいま」を見せてくれる。

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『月』(辺見庸)の朗読を終えた。

5月16日に始めて、7月11日まで2か月弱かかった。

朗読をしなかった日は6~7日、小刻みに、長くても20分程度。それ以上は重すぎて続かなかった。

18時30分~19時の、Mさんがキッチンで夕食をこしらえている時間、時にはまな板で野菜を切る音にかき消されそうになりながら読んだ。もう一人のオーディエンスは、前足に顎をの載せた気ままなスタイルで付き合ってくれた。

 

この時間は、通称「フライング」の時間。一日でたまった芥を流すべく、3~4種類のalcoholが誘いをかけてくる。ともすれば、スタートが早すぎて夕食が始まる前にゴール?してしまうアブない時間。

その時間を我慢して読み続けた。

 

 

 

『月』は、限りなく饒舌で豊穣な反骨の詩である。

 

きいちゃんは

園の入所者。ベッド上に一つの”かたまり”として存在し続ける。性別、年齢不明。目が見えない、歩行ができない、上肢下肢ともに全く動かない。発語できない。顔面を動かせない。からだにひどい痛みをもち、時に錯乱し悩乱する。しかし自由闊達に〈思う〉ことができる。(主な登場者たちから)

 

思うことができるきいちゃんに対し、「在る」ことの是非を問うのがさと君である。

さとくんは、

園の職員。表面は明朗快活な性格で、園の人気者だったが、のちに辞職。園の仕事を通じ〈にんげんとはなにか〉といった大テーマを考えるようになり、「世の中をよくしなければならない」と決心する。(主な登場者たちから)

 

作者は饒舌で豊穣な詩をもって、ことばをもたないきいちゃんを表現する。きいちゃんの中に思索はあるのかないのかなんて誰にもわからない。そこをを超えて、きいちゃんが「在る」ことによって放出されるさまざまな思念をどう受け止めるか。殺されてしまうきいちゃんが語ることばたち。

 

だから

「本作品はフィクションであり、実在の人物、団体、組織とは一切関係ありません。」

最後の318頁のとなりの頁番号のないページに、無表情にこう書かれている文言は、KADOKAWAのすさまじい過剰防衛であるのだが、辺見はそれを許しつつも作中では、はっきりと

 

「本作品はフィクションではあるが、すべて実在の人物、団体、組織にかなりはっきりとした関係があります」

 

と言っているように読み取れる、そうでなければ、作品のもつ重さと平仄が合わない。

 

作中から引用したい箇所は、数十か所ある。頁を折り込んでいる箇所は、それ以上かもしれない。

 

しかし、私がそんなむだなことをするより、多くの人にこの作品に接してほしいと思う。

 

被害者の人権とか被害者の遺族への配慮とか、前提としたいものを放棄するところから辺見は始めている。自分自身の歴史性や身体性を切り刻むように、まったくの丸腰でこの事件に挑んでいるようだ。

 

それは、「障がい」や「障がい者」とはどういう存在なのか、そこにある「思念」とはどういうものか、それに向き合う「健常」であるとする私たちとな何かを、執拗に問う。

戦後の進歩的マスコミや左派知識人も徹底して批判されるが、それは同時に辺見自身の思念のありようを突き崩すものであるようだ。

 

だからこそ、それは饒舌かつ豊穣な詩によってしか表現できなかったのかもしれない。

 

辺見は、全てを敵に回して、「わたしたちのいま」を見せてくれる。

 

 

「あなた、ひとですか?」

「ひとのこころ、ありますか?」

 

これはきいちゃんだけでなく植松の問いそのものであり、何度も何度も作中で問いかけられる。きいちゃんのどこまでも広がる「思念」が、この問いに容易に応えることを許さない。

 

KADOKAWAは逃げても、辺見は逃げていない。

表現するということのぎりぎりの場所を辺見は見ているようだが、私にはまだぼやけてしか見えていない。