『歴史としての日教組』(上・下)正直じっくり読もうという気になれなかった。こうした論文集、いったい誰が読むのだろうか。少なくとも現場が研究者に求めているものではないと思う。

【読み飛ばしの記録】の続き

 

『神も仏もありませぬ』(佐野洋子ちくま文庫/2008年(単行本2003年)/580円+税)

 「いつ死ぬかわからぬが、今は生きている。生きているうちは、生きてゆくより外はない。生きるって何だ。そうだ、明日アライさんちに行って、でっかい蕗の根を分けてもらいに行くことだ。それで来年でっかい蕗が芽を出すか出さないか心配することだ。そして、ちょっとデカい蕗のトウが出てきたらよろこぶことだ。いつ死んでもいい。でも今日でなくてもいいと思って生きるのかなあ。この日本で。」(40頁)

 

「私は生きる意味を見つけ出しかねた。子供が育ち上がってから、私は何の役割もないのだった。私はウロウロするばかりで、その日その日を生きていて、飯食って糞して、眠るのだ。それなのに、私はゲラゲラ笑い、視線は空よりも地面に向かい、春のきざしの蕗のトウをさがしに行き感動して、泥棒のように蕗のトウを求めて、つくだににして、飯にのっけて「うめェ」とうめくのだった。地面にはって咲くパチッと開いた、名前を知らない小さな花を、しゃがんでいつまでも見ていた。

 そういう時、私は深くしみじみ腹のもっと下の方から幸せだなあ、こんな幸せ生まれて初めてだなあ、今日死ななくてもいいなあ、と思うのだった。意味なく生きても人は幸せなのだ、ありがたい事だと、ヘラヘラ笑えて来た。命をころげ落ちながら、ヘラヘラ笑う事にぎょっとする事もあったが、顔はへらへらし続けた。」(222頁)

 

随所に乱暴な表現がちりばめられているが、繊細な感性は隠しようがない。達観しようとして達観しきれない人の業のようなものを、俯かずに無理やり顔を上げて「こんなものだろう」と見せてくれる。読みがいのある本。

 

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『死ぬ気まんまん』(佐野洋子光文社文庫/2013年(単行本2011年)/500円+税)

 「若い時、自然など目に入らなかった。

 花が咲く時だけ、花に目を奪われ、枯れると忘れた。桜の花は年に一度だけ思い出した。

 散ると、桜の木が存在することさえ忘れた。年をとってからも、元気で忙しく立ち働いていれば花屋で花を調達することもあったし、庭の雪柳が滝のように咲くのを待った。

 しかし、今私の山の紅葉の見え方は狂っているようなのだ。ゴッホはあの輝くタッチを生みだしたのではなく、あのとおりに見えたのではないか。狂死したゴッホは死と隣り合わせで世界はあのように燃えて見えていたのではないか。この世ものは例えば一枚のコタツ板の上ですべて行われていた。花が咲きにわとりが鳴き、惚れたはれたの泣きわめき、金があるのないの飯がうまいのまずいの、どのような地獄も天国もいわば一枚のコタツ板の上でこの世というものは営まれていた。

 夕方夕陽と異様に私に迫ってくる山の木々は、コタツ板から落ちかかっているような気がするのだ。「やばい」と私は思った。夕陽が木の葉がゴッホの絵のようにうず巻いて見えたら、その人はやはりコタツ板から落ちかかっているのだ。

 死ぬ間際の人に、きっとこの世の自然は異様に美しく侵入してくるのではないか。

 明日、ここを出よう。この病院全体が、目だけになって、多摩丘陵の紅葉を見ている。ご飯は一人前の三分の二くらいは食べられるようになった。

 しかし体の痛みは一向におとろえず、あばら骨がメリメリ音を立てて粉になるかと思うほどで息もつけなかった。

 でも、出よう。こんな美しい自然に吸い込まれたくない。私は十四日目に家に帰った。」(214頁)

 

近くいたらつきあいにくい人だろうけれど、こういう画家らしい文章はいい。自分との距離感がすごいなと思う。元夫の谷川俊太郎の一面が垣間見えるのも面白かった。

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『THIS IS JAPAN』(ブレイディみか子/新潮文庫/2020年4月刊(単行本2016年・太田出版)/590円+税)

この人の本は、『女たちのテロル』『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』に続いて3冊目になる。

3冊に共通するのは、イギリスでの生活者・労働者の視点から日本の現状を重層的にみていること。『「出羽の守」にならずに一枚一枚現実を覆っているものをめくって、日英の共通点と相違点を明確にしていく。そこに緊張感を感じるのは、彼女自身の歴史のようなものを等身大に重ねているからだと思う。

ケン・ローチの『ダニエルブレイク』や『家族を想うとき』あるいはダルデンヌ兄弟の『サンドラの週末』など、欧州の現実を描く映画がまさにグローバルにつながって日本の現実をも表出してしまう今、彼女の視点は貴重だ。この本を読んでから『パレードをよろしく』をみた。『This is England』もみてみたい。

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『罪の轍』(奥田英朗/新潮社/2019年8月刊/1800円+税)

久しぶりに重厚な犯罪ミステリを読んだ気分。携帯どころか録音機すら一般に普及していない時代。実際に同じ年に起きた吉展ちゃん誘拐事件を下敷きに、報道協定や紙幣ナンバー、逆探知などその後の誘拐事件のもととなる警察の動きを中心に物語は進む。時代背景、犯人像、刑事の群像などディテールがしっかり書きこまれているから600頁近い分量も気にならない。奥田英朗は今まで何冊も読んだが、いつも少し不満が残ったものだが、今作は十分に満足。

 

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『歴史としての日教組』(上・下)(廣田照幸編/名古屋大学出版会/2020年2月/各4180円)

 

気になるタイトルだったので、図書館から借りた。大部の論文集で素人にはちょっと敷居が高い。政党含めた内部抗争が中心?で時代時代の運動があまり見えてこない。特に日教組と文部省(当時)が交渉した結果が現場の教員の働き方に影響を与えた唯一の事例である給特法の闘い、とそれ以降の40数年を総括するような論文がないのは残念。また伝習館闘争を中心とする戦後民主主義教育への根底的批判の運動の流れに対する日教組の立場、論理も全く見えてこず(教育闘争)、全教にとどまらず独立組合を含めた戦後の教育(学校)労働者運動全体(労働運動)を俯瞰しようとする視点の広さが感じられない。「歴史としての」を標榜するならば、そのあたりが重要だと思うのはこっちのピントがずれているのか?尊敬する廣田さんの編集ではあるけれど、正直じっくり読もうという気になれなかった。こうした論文集、いったい誰が読むのだろうか。少なくとも現場が研究者に求めているものではないと思う。

 

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