きのう、久しぶりに本厚木へ。『ハッチング 孵化』と『親愛なる同志たちへ』の2本を見た。これについてはまた。
小田急線が相模川を渡ったのは9時ごろ。快晴の下、いつもは目にしない釣り人の姿が目に映った。一人、二人ではない。
はたと気がついた。6月1日、アユ漁の解禁日だ。友釣りの解禁だという。
釣りなど全くしたことはないが、この日を待つわくわくする気持ちはわからないではない。
今年は魚影濃く、大ぶりのものが目だつのだとか。
釣れるのはほとんどが天然ものだという。
「釣りはいいもんだよ」と呑みながら話してくれた、亡くなってもう30年にもなるIさんという先輩教員のことを思い出した。
栃木県の出身だった。話すことばにおだやかな東北なまりが残っていた。
栃木は東北とは言えないが、北部は地理的にもことば的にも南東北であり、福島に通じるズーズー弁の地だ。
「おれは若い頃生徒から”えっぽ”って呼ばれていたんだ」
生徒の集団を前に号令をかけるときに、一歩前といったそうだが、生徒の耳には”えっぽ前!”と聴こえてたということだ。
「い」と「え」は福島でも区別がつきにくい。関西弁の「いいか」を「ええか」というとは違う。曖昧母音というか「い」と「え」の間をとったような発音だ。
ふだんの話す言葉はゆっくりと穏やかで、年齢よりもふけて見えたが、目はいつもきらきらしていて子どもっぽさを兼ね備えていた。
今では大問題になること必至だが、通りすがりの若い女教師の尻を触ったりもしたが、愛嬌のある人だった。
お宅にも連れて行ってもらったこともあった。大きな水槽に魚がたくさん泳いでいた。きれいに並んだ何鉢もの菊があった。Iさんは技術科の教員で、そのころ授業では板金や菊の栽培などをやっていた。パソコンなどまだ学校には姿も形も見せていない頃のことだ。
お土産に冷凍のアユをたくさんいただいたこと、焼いて食べたその味をよく覚えている。
今でも、旅館や居酒屋でアユを食べるとその味と引き比べてしまう。
臨時的任用教員をしていた女性が、広島市の男性と結婚することになり、どういうわけかIさんと私が披露宴に出席することになった。
新幹線で京都の先に行ったのはこのときが初めてだった。1986年のことだ。
今では広島まで3時間半時速300キロの世界、日帰りもできるが、当時は5時間半ほどもかかった。
1泊2日の旅。新幹線も現地でも二人で吞み通しだった。
次の日の披露宴で、Iさんはお祝いのスピーチを20分以上も話し続け、私はお祝いとはとても言えないような歌を大きな声で唄った。二人とも酔っていた。宴席に知り合いは新婦だけ。横浜の職場から来た凸凹コンビが顰蹙を買ったのは間違いない。新婦は「そんなことない」とは言っていたが。
Iさんのことを書いていると、なんとなく気持ちが温かくなってくる。
私は76年に教員になり、77年に日教組を脱退、全国で初めてできた独立組合に加入した。
横浜市の教員12000名のほとんどが、日教組傘下の横浜教職員組合の組合員。鉄壁の100%組合。非組という存在はあり得なかった。まして他組など考えられなかった。
しかし現実は、本部書記長がそのまま教育長になるなど本部役員は教育委員会の役人に横滑りし、支部役員は校長や副校長などの現場管理職になるという、いわゆる御用組合。かつて横浜市は飛鳥田一雄革新市政がといわれたが、そのころ労組(社会党右派)と行政による二重(もう一つ横浜国大閥も入れると三重)の現場管理構造がつくられていた。
教員になって2年目の組合脱退。私とISさんという二人が職場でハネたわけだが、「和を乱し」た者への反発は激しかった。
トイレにいわれのない落書きをされたり、新たにつくった組合の掲示板には、配ったビラが破られたまま貼られてもいた。
sのおころ現場は3学年1900人というマンモス中学で、ひたすらに管理優先の生活指導の方針に反発する生徒たちとともに、若手教員の一部も反発を続けていた。
いま振り返れば、分裂していたのは労働組合だけでなく、旧世代の管理優先派と全共闘を経た自由な教育派の世代だった。職員の中の亀裂は深かった。
40代のいわゆる主任層、今考えれば学童疎開世代の人たちだが、管理職昇進を目指してしのぎを削っていた。そんな世代の少し上にIさんがいた。
昇進組からすれば、跳ねっかえりの私たち二人は扱いにくい存在、私たちも何かといえば反発を繰り返していたのだが、そんな中にあってIさんは、いつも私たちの話を聞こうとしてくれた。
跳ねっかえりとは言え、まだ二十代の若者。差別的な扱いはこたえるもの。Iさんが他の若い教員とわけへだけなく扱ってくれたことがうれしかった。
とにかくよく呑ませてもらった。
私も管理職になることなく、20年ほども主任の役割を担ったが、お酒はともかくとして、たくさんの若い教員に対してIさんのような包容力をもてたのかどうか。狭い見識を押し付けるばかりだったような気がする。
思いもかけず昔のことを書いてしまった。老人性によるものだろう。
小田原行き急行が相模川を渡りきるのにかかる時間は10数秒。
走馬灯のようにというのは大げさだが、30数年前のことが一気に思い浮かんだ。
写真はカナロコより拝借しました。