気になり続けてきた『滝山コミューン1974』片山を中心とする学級づくり、学校づくりに身も心もつぎ込んだ原の当時の級友たちが、30年を経て会ってみればその記憶すらほとんどないという事実からしても、原の執着に私はどこか異質なものを感じてしまう。

【読み飛ばしの記録】・・・備忘録です。

 

『ある一生』(ローベルト・ゼーターラー・朝井晶子訳/新潮クレストブックス/2019年6月刊/1700円+税)

f:id:keisuke42001:20200628163733j:plain

友人からいただいた本。クレスト文庫は『朗読者』や『パリ左岸のピアノ工房』『停電の夜に』『帰郷者』など優れた小説がたくさんある。これもまた静かないい小説だ。

裏表紙に「人生を織りなす、瞬くような時間。恩寵に満ちた心ゆすぶられる物語。」とある。変動に満ちた欧州の中で、一人の男が生きた80年。こういう生き方があるのかとため息が出るような作品。読み終わるのがもったいないと久しぶりに感じた。

 

『暗幕のゲルニカ』(原田マハ新潮文庫/2018年7月(単行本2016年)刊/750円+税)

f:id:keisuke42001:20200628163825p:plain

4年前に大きな話題になった作品。原田マハの作品は『楽園のキャンバス』に続いて2作目。ナチスに占領されたパリでゲルニカを書くピカソと彼を取り巻く人間模様にとどまらず、ミステリ―の空気をまぶした力作。もっと突っ込んでほしいというところはたくさんあるのだが、全体を通せば過不足なく書かれていて、まとまっている。人物像が分かり安すぎるところがやや劇画風。ピカソを登場させるのだからもっとピカソにしゃべらせてほしかった。

『滝山コミューン1974』(原武史講談社/2007年5月刊/1700円+税)

f:id:keisuke42001:20200628163916j:plain

10数年、読まずに気になっていた本。

全生研の集団主義教育の実践にひたすら違和感を感じ続け、学者、研究者となってからもトラウマとして引きずってきた時間を、30年以上を経て捉え返したドキュメンタリー。

面白かった。

ここまでこだわり続ける筆者のトラウマの深さは想像を超えたものがある。集団主義教育になじめなかった心の間隙を、鉄道への傾きと有名私立中学受験によって埋めようとして、それほど上手に埋めきれなかった悔恨は痛切だ。

しかし、「待てよ?」という声が読みながらずっと聞こえていた。

著者の年齢は、私が横浜で教員になった1976年に、初めて受け持った中学2年生にあたる。著者の住んだ東京の団地と横浜は距離的には3,40キロほどの隔たりしかない。

滝山団地につくられた七小に赴任した片山先生、彼が七小での集団主義教育の中心的な教員となっていくのだが、彼は私よりたぶん5つほど年齢が上。同じ都留文科大学文学部の出身である。

原は、集団主義教育への傾倒を「都留文科大学での民主化闘争の経験が、七小に着任してからも影響を与えたのではないか」と分析するが、30年ぶりに再会した片山はこれを否定する。

片山と5年ちがう私は、同時期に在学していたわけでもないし、もちろん面識もない。だから、片山が大学でどのような位置にいたのかはわからないが、多くの大学での政治構造同様、都留文科大学も某新左翼党派と日本共産党の学生組織である民青の攻防が日常化していた。

民青が全生研へのシンパシーを強く持っていたことは、当時としてはごく当たり前のことであったし、新左翼系と言われる学生たちは、教員という権力に対する懐疑が前提にあり、その点で「学校」に対する認識において大きな違いを見せていたように思う。

 

学生時代はノンポリであった私は、教員になってから全生研=集団主義教育の流れをくむ横須賀池上中の実践などに注目したり、無着成恭の明星学年の実践発表会などに出向いたことがあった。

しかしそうした関心は、現実の中学が徹底した集団管理、効率主義による何の面白みのない、気持ちとしては「この仕事、ずっとやっていくのかい」という嫌気の反動であった。

2年目以降、日教組内右派の浜教組を脱退して以降、当時の実践の根拠となっていたのは、教師権力者論であり、教師存在の自己否定とそれに対置する生徒の自治論であった。

生徒との関わりは、集団を効率的に動かしていく(理念的には全生研の換骨奪胎)という方向にはいかず、いきおいアナキスティックな方向に行きがちであった。それは生徒指導においても同様で、管理、効率化というかたちで切り捨てていくやり方に対し、生徒自身の手にゆだねるという放任主義であり、生徒個々に個的に誠実につきあおうとする私なりの現場主義であった。

原と同じ年代に位置する当時の中学生は、そうしたいわゆる「反管理」の動きをする教員対するシンパシーは保護者も含めて少数ではあってもたしかに存在していた。

 

違うと感じるのはそうした点である。

原は、あの時代、集団主義教育が実質的な力をもって現場を席巻したかに云うが、私にはそうは思われない。たしかに七小にそういう空気がつくられたことは事実かもしれないが、それを一般化はできないのではないか。

70年代に入って通信簿や指導要録などの「評価」問題が焦点化され、80年代初めには「荒れる中学」が全国を席巻する。そうした時代における滝山団地の七小は、どちらかと云えば少数に属するものではなかっただろうか。

それよりも、原が自分のアイデンティティとしようとして仕切れなかった、現在につながる有名私立中学をめざす流れの方が、当時は強かったのではないか。

そのへんの位置関係がわたしに「まてよ?」と思わせた点だ。

それにしても、ここまで30年を経て小学校時代をここまで書き込む原の執念に凄みを感じるが、それほどまでの「学校」にとらわれてしまった原に、私は気の毒な思いを強く持ってしまう。

たかだか学校、されど・・・なんていらない。学校なんてラララ♬という具合にはいかなかったのか。

片山を中心とする学級づくり、学校づくりに身も心もつぎ込んだ原の当時の級友たちが、30年を経て会ってみればその記憶すらほとんどないという事実からしても、原の執着に私はどこか異質なものを感じてしまう。

 

原は、どうしてここまで拘るのか。当時の状況を徹底して客観的に描き出そうとすればするほど、原自身の少年時代の個人的な思念がわたしは気になるのだが。