オトナのひろしま修学旅行2023』感想集⑤ 過去と現在をいかにつなぐか? 「棄民国家」に向き合う。

 2週間ほど前、カルガモの母鳥に連れられた4羽の子がもを見た。体長10cmにも満たない子がもたちが、母鳥のあとをついてチョロチョロと水面を渡っていった。

 Mさん、毎日のように「今日はいないねえ」と気にして探していた。カワセミを見つける確率よりも4羽を見つける確率は低い。

今朝珍しく対岸を歩いている宮本さんの姿を発見。「暑いですねえ!」と声をかけると、なにやら川面を指差している。よく見ると母鳥と4羽の子がもだ。もうずいぶん大きくなっている。カラスに襲われることもなく、4羽全てがしっかり生きていたことを喜ぶ。

 私たちにとっては境川は穏やかな散歩コースだが、水辺の動物たちにとっては、日々が争闘の場。それぞれに天敵がいて、生存競争を繰り広げている。

 とはいえ、人間に連れられている犬は別。今朝は柴犬のココちゃんと遭遇。散歩をしている犬の中では柴犬が一番多い。その中でもココちゃんは、人好きで愛想の良い点で頭抜けている。今朝はひとしきり身体中を撫でててやった。喜んでくれた。飼い主の男性もココちゃん同様、いつも穏やかに接してくださる。飼い主と犬は似てしまうのだろうか。

  

 

 

 

 

  オトナのひろしま修学旅行  〜 広がる、深まる

                                                                

                          山梨・70代

 

 

  オトナのひろしま修学旅行、まさに修学旅行で、行く前からワクワクして、旅行の間も仲間と一緒に行動し、夜のお楽しみの時間まで、いい時間を過ごさせて貰いました。日頃車の生活で、4000歩もいかないのに、連日10000歩、15000歩と越えて歩きややくたびれましたが、実に充実した旅行でした。計画してくれた赤田さん、その中身の中澤さん始めの名だたる皆さん、ありがとうございました。

 私の旅は身延線特急ふじかわ号で静岡にでて、新幹線を乗り継ぎ広島に向かいました。途中新神戸で同宿のYさんと乗り合わせて、おかげで心強く集合の原爆ドームまで行けました。仲間と合流、そして中澤さんの親しい雰囲気での案内に引率されて修学旅行の見学が始まりました。

 

 あの戦争を考えるのにヒロシマナガサキを考えないことはありません。山梨で言えばもちろん甲府空襲とかもありますが、その被害の実相のあまりの悲惨さ、過酷さ、そして今に続く核の問題と、あまりに迫るものが大きく、沖縄とともに特に目が向きます。しかし、山梨の学校の修学旅行での広島は私は聞いたことがありません。中澤さんにもお聞きしましたが、山梨の学校の案内は聞いたことがないと言われてました。それでももちろん、被爆ヒロシマの実相が伝わっていないなどということはありません。学校で平和教育も行われてきましたし、地域の運動もありました。8月6日を平和教育の日として夏休み中の登校日にしてのヒロシマの学習もありました。私の住む市川三郷町では広島の平和式典に子どもを派遣するといったこともしています。今もそうした取り組みは続いています。 

 私も関わっていますが、「平和を願う山梨戦争展」を実行委員会をつくり夏に開催しています。私たちは主として関わりのある教育問題を展示しています。今年は日川高校天皇の勅」校歌の問題とか、障害児のインクルーシブ教育の問題とかです。ここでもヒロシマ、沖縄はいつも取り上げられています。山梨県原水爆被曝者の会という山梨に住まわれる方たちの展示や証言もあります。YWCAなども原爆展として、今回の旅行でも見たヒロシマの絵を展示したりしています。それに、実は一度だけ、何かの集会のおりに資料館を覗いたことがあるのです。何よりヒロシマは様々な媒体によって伝えられていますから、ある程度知っているということにもなるのだと思います。

 ですが、それは現地での空気の中ではありません。今回の旅ではその現地広島の中のヒロシマの空気に触れたい、触れられるという思いでワクワクしてのだと思います。加えて、実は9月に関わっている「障害児を普通学校へ・全国連絡会」の全国交流集会を広島で開催します。謂わば教育の中で、差別を越えて共に生きることを追求する運動です。核廃絶、人類の共存をめざすヒロシマ平和運動と通じているという思いがあり、その関わりについても考えたいと思っていました。

 

 平和公園内外フィールドワーク、レストハウスでのお話、縮景園、平和祈念館、見たこと、聞いたこと、赤田さんがあらかじめ渡してくれた取り組みの中で蓄積された資料、想像していたものやことが確かにここにあることを感じました。いくつもの碑がありました。確かにここに居たんだよとその姿が浮かんでくるような気がしました。間違いなく広島の地でした。特に、本川小学校と袋町小学校の学校内に被爆の証として保存されている平和資料館は、その存在を賭けて戦争の悲惨さ、何より原子爆弾の恐ろしさを訴えていました。この二つの学校はこの平和資料館を通じての教育の役割も持っているんだなと思いましたが、一方で現在の教育のあり様の中で、特に差別と分断の中に置かれている障害児の教育がどうなっているのかも気になっていました。そしてそのことは9月の集会でも考える事だろうと思いました。

「原爆の図」から 朝倉賢司作

 本川小学校から平和公園に向かう途中で、ここに以前は韓国人原爆犠牲者慰霊碑があり、現在は、公園内に移されていると中澤さんからの説明を受けて案内されました。この碑が公園内に建てられなかったことに民族差別という声が出されていたことも語られました。被爆者の中の差別の問題は、語り部の豊永さんの「日本は唯一の戦争被曝者か?」という問いにつながり、いまもまだ解決されていないことをあらためて考えさせられました。あの戦争を考える、ヒロシマを考えるには、戦争の、原爆の被害だけにではなく、軍都であった広島が戦争でどのような、つまり加害の役割を果たしていたかを合わせて考えなければならないでしょう。でなければ理解されないというということです。その意味で、やや遠い市南部に今も一部が残る巨大な広島陸軍被服支廠を見ることが出来たことを合わせて考えることができてよかったです。中は見ることが出来ませんでしたが、写真を見せて貰うと軍服を作る工場のような様子が映画の1シーンのように見える気がしました。戦地から戻された血染めの軍服を洗って再生する事態は敗戦を確信させたことでしょう。引き込み線が港までつながるこの施設がどれほど日本の戦争加害に貢献したか計り知れないのです。

  一日目の夕食は中澤さんの知り合いのお店でいただき、旬だという小イワシが、もともと好きではないのに、おいしくてびっくりしました。自己紹介で9月の集会のことを話し、また来ますというと、中澤さんが、障害児の学級のことを聞いたことがあるけど、よく分からないのよね、と言われました。分からないっていわれているけど、私には分かるって思えました。こうして案内をしてくださり、その話、言葉に、中澤さんの著書の「ワタシゴト」に書かれている、「渡し事=記憶を手渡すこと、私事=他人のことではない、私のこと」を思いました。

 だからヒロシマは、原爆被害だけではなく、軍都広島の加害も隠さずに核廃絶と人類の共存を言う。広がる、深まるはずだ。

 広島の障害をもった子どもたちはどうしているか。本川小学校や袋町小学校ではどうしているか。9月にまた行って考えてみたいと思っている。

 

  最後に案内してもらった加納実紀代資料室サゴリ、ある意味で懐かしい書物、資料がいっぱい。刺激がいっぱいでした。道は険しい。

 

 

 

 

 

 

わたしたちも何者として生きてきたのかを

 突き詰めることなく過ごしてきてしまったのではないか

 

 

                         富山 60代

 

 コロナ騒動によって、富山だけで過ごしてきた3年間を経て、広島連れ出してくださった赤田さん、たくさんのお土産を持って、会計をしてくださった赤田眞知子さん、3日間ずっとおつきあいくださった中澤さんに感謝します。

  今回の旅行で印象に残ったものの一つは中澤さんの案内で最初に訪れた「本川小資料館」の地下で、改装される前の平和資料館に展示してあった大きな円形の被爆都市ヒロシマのパノラマとの対面。

 以前、現役時代に中学生と修学旅行で訪れた際に見たものがなぜここに・・・?と思っていると、中澤さんから「資料館改修にあたって、映像パノラマにするからいらなくなったと言われたので、ここに移転しました。私はこのようなアナログの方がいいんですけど・・・。」といわれ、私も全く同感でした。一瞬にして灰となった巨大都市がリアリティを持って迫ってくるのは、この円形の大きなパノラマの方だと思います。

 中澤晶子さんといえば、私にとっては90年代の国語の教科書に載っていた小品「いのちということ」の作者としての記憶が大きい。休憩した公園でそのお話をしたところ、「あれはチェルノブイリが起きたときに書いたので、3.11でフクシマの原発事故が起きたときに復刊したんです。住所を教えていただければお送りしますよ」と言われ、お言葉に甘えて自分の住所を書いて渡しました。その後、送っていただいた『あしたは晴れた空の下で』を読み返しています。

https://m.media-amazon.com/images/I/51ehtVh-6ML._SX298_BO1,204,203,200_.jpg新版(2011年刊)旧版(1988年刊)

 もうひとつは、2日目の訪れた出汐の「旧陸軍被服支廠」。レンガ建ての4棟だけでもその大きさに圧倒されそうなのに、これは作られた軍服などを保管していた倉庫で、被服支廠全体のほんの一部に過ぎないという中澤さんの説明にがくぜんとしました。当時の陸軍というのはどれほど大きな力を持っていたのかを象徴する建物でした。「よくぞ残してくださいました。」と保存に力を尽くされた皆さんに感謝しました。

 

  2日目の午後から植田さんや3日目の豊永さんのお話や平和公園を案内してくださった中澤さんのお話は、すべて心にしみるものでした。

 その心に沁みるお話を思い返して、今、考えていることは「過去と現在をいかにつなぐか?」ということです。わたしがヒントにしたいのは、3.11のエフイチの大爆発の後に読んだ本の中で東北地方のある村の酪農家が自死する前に語った「この国は『棄民』の国だ!」という言葉です。エフイチの爆発後、放射能を集中的に蓄積することになったその村の酪農家はこの言葉を残して亡くなったそうです。

 この言葉を聞いて思ったことは、明治以降、この国が行ってきた日露戦争日中戦争、そして太平洋戦争での多くの死者は、国家による「棄民」だったのではないかということです。太平洋戦争末期の東京をはじめ全国各都市へのB29による爆撃による死者も同様です。(しかし、この都市への無差別爆撃は旧日本陸軍による中華民国首都重慶への執拗な爆撃が始まりだと言われています。)

 オキナワ戦、ヒロシマナガサキへの原爆投下による住民の大量死。手を下したのはアメリカ軍ですが、無謀な戦争をやめられなかった日本の政府の責任による国家の「棄民政策」の結果なのではないでしょうか?

 さらに敗戦後、アメリカからたくさんの原発を輸入し、それを安全だと言い張り、この地震列島にこれだけ大量の「核発電所」を建設し、3・11のフクシマ原発大爆発をもたらした国家は「棄民国家」なのではないのでしょうか。

 わたしたちは、敗戦後(「終戦」と言い換え)、アメリカの属国(奴隷)となったことをひたすら隠して自らの権力を維持してきた権力者たちこそ「棄民国家」を作ってきた者たちなのではないでしょうか。一方、わたしたちも何者として生きてきたのかを突き詰めることなく過ごしてきてしまったのではないでしょうか。

 そのことに向き合って生きていくことが、「過去と現在をつなぐ」ことになるのではないかと考えています。