『「ヒロシマ」を原点に生きた人生』(関千枝子さん追悼集)

 昨日の菅の原稿読み飛ばし、原因は原稿がノリでくっついていたからとのこと。

そういうのを原因とは言わない。

原稿を誠実にしっかりと読もうという気持ちがないことが原因。それがないからノリでくっついているのに気がつかないし、確かめようともしない。

原因はノリではなく気持ちのもちよう、ということだ。

 

その菅首相について、

「きのう原爆資料館のゲストブックに何と書いたのでしょう?」

というクイズが今朝、広島の友人から届いた。

こたえ「内閣総理大臣菅義偉と1ページに大書した」。あと、日付。

靖国神社の榊奉納の記帳と同じと思っているようだ。お祭りの芳名帳じゃあるまいし。

 

ちなみにぼったくり男爵バッハ会長はというと、7月16日、英語で「五輪ムーブメントは広島市民と、世界平和の中心である広島市に対し敬意を表する。ここにわれわれの平和への努力を誓う」と記したという。ヒロシマに来る政治的意味をしっかりもっているということだ。

 

比べても仕方がないけど、菅はいまや総理大臣としての格好をつける余裕もなくなっているのかもしれない。前任者は格好しかなかったけど。

 

 

さて、下は8月5日の記事。

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東京新聞8月5日一面の記事

2月に関千枝子さんが亡くなったことはこのブログでも記した。

記事に写真が出ている

『「ヒロシマ」を原点に生きた人生』(関千枝子さん追悼集)の発行と高校生の時に知り合った東京の女性堀池美帆さんとの交流を伝える記事。

 

追悼集編纂は、「ヒロシマ講座」を主宰する竹内良男さんが呼びかけた。

目次は以下の通り。

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関さんの原点は8月6日、死ななかったこと。

1944年に父の転勤で東京から広島へ。東京女学館から広島県立広島第二高等女学校(第二県女)へ転校。

1945年8月6日は、二年西組45名のうち、関さんを含め6名が欠席。関さんはおなかをこわしていた。39名は市内雑魚場町のの建物疎開の作業地で被爆。38名は8月20日までに死亡ないし行方不明。生き延びた一人も24年後に37歳で死亡。

その後の関さんの人生の原点がここにある。

 

追悼集は一読すれば、関さんの人生の大きな流れがわかるように編まれている。ご自身の発言・行動についてもごく一部分だが掲載、1985年に発刊、今では筑摩文庫で12刷を重ねている『広島第二県女二年西組~原爆で死んだ級友たち』、この本をもとにした朗読劇の台本も載っている。

ぜひ手にとってほしい一冊。とりわけご長女赤尾緑さんが書かれた「百日法要を終えて」は痛切だ。合理的かつ論理的、これと思ったことはとことん追求してやまない関さんの、家族にしか見えない別の一面がみえる。一部を引用する。

 

「・・・しかし私生活においては本質的にはとても寡黙でした。もちろん家族内の団らんや会話はほかのご家庭と同様に普通にしておりましたが、本当に大事なことは基本的にだれにも相談せず自分一人で考えて、決断、実行するというのが関千枝子の流儀であり、心の奥底の本音を吐露することもあまりありませんでした。文章にして書くのは得意でしたが、ひとたび話し言葉となると合理的すぎるあまりに表現が不躾になることも頻繁で、特に自分個人の感情が絡む腹を割ったコミュニケーションは。実は母の不得手とする領域で、この方面は不器用でした。」

 

 

ヒロシマ遺文」というサイトがある。貴重なサイトだ。

関千枝子 | ヒロシマ遺文

hiroshima-ibun.com

ヒロシマの歴史を残された言葉や資料をもとにたどるサイトです。

そこに関千枝子さんのコーナーがある。書誌として関さんがかかわった著作、資料や講演記録などがまとめてある。

神奈川区の浦島丘中学校に勤務していた1996年、関さんに来ていただき、ヒロシマ修学旅行の向かう中3生にお話をしていただいた。その時の関さんのお話を収録した修学旅行文集『ヒロシマから吹く風』(1997年3月10日刊)も載っている。

 

その6年後にも緑区の東鴨居中学校にも来ていただいた。

そのあとおみかけしたのが昨年の9月19日、竹内さんの『ヒロシマ講座』だ。

あの時、お声をかけなかったことを今でも悔やんでいる。