5年ぶりの広島滞在記②

真夏のような陽気。

護国神社の前は日陰がないので、50㍍ばかり離れた木陰のベンチで友人を待つ。

最初に現れたのは大阪から来られた松岡さん、長谷川さん。松岡さんは70代男性。長谷川さんさんは60代女性。お二人とも高槻市の教員の独立組合の方々。小さな全国組織「全学労組」での知り合い。お会いするのはずいぶん久しぶりだが、メールのやり取りのせいかそんな感じはない。

続いて中澤晶子さん。2年ぶりにお会いする。

そして友人の上野さん。60代女性。若いころの職場の同僚だった方。

途中で参加されたのが広島の精神科医大澤さん。メールのやり取りは1年以上になるが、お会いするのは初めて。

 

総勢6名。

14時から予定している波多野愛子さんの被爆者岡ヨシエさんの伝承講話の「事前学習」。

護国神社の左手の石垣の地下に中国軍管区司令部の防空作戦室跡がある。

廣島護國神社.jpg

比治山高等女学校2年、14歳の岡ヨシエさんが軍属として働いていたところだ。

かつて、この内部で、岡ヨシエさんが働いていた場所で被爆体験を生徒らに話をしてくれた。

今では、危険ということ閉鎖されたまま。

ほとんどのものが原爆によって焼失、棄損されたから、今では当時の姿を残しているのはここぐらい。貴重な原爆遺跡だが広島市は積極的に公開しようとはしない。

8月6日に外部(福山通信隊)に最初に原爆投下、ヒロシマ壊滅を伝えたのが岡ヨシエさん。彼女の講話は当時の様子を克明に伝えていてとても貴重なもの。

岡さんは2017年に亡くなるのだが、岡さんはその数か月前に知己の波多野愛子さんにご自分のことを伝承講話として伝えてほしいと依頼していた。

 

以来5年の間、波多野さんはさまざまな工夫を凝らしながら伝承講話を続けてきている。

 

昨年、中澤晶子さんが『私がいたところ 14歳のひろしま ワタシゴト2』(汐文社刊)で「防空作戦室」を取り上げ、あとがきで私も岡さんとの交流について書いた。

その時に、岡さんのお話の細部についていくつかご教示を受けたのが波多野さんだった。

今回広島を訪れるにあたって「ひとりですが、ぜひ、伝承講話を聴かせてほしい」と図々しいお願いをしたのだが、波多野さんは「お一人でもいいですよ」と快諾してくださった。

 

せっかくお話してくださるのだからと、ちょうど広島に来られていた大阪のお二人や広島の方にも声をかけて6人でお聴きすることになったのだった。

 

それで、お話を伺う前にフィールドワークをやっておこうと集まってもらったということだ。

説明をしてくださるのは中澤さん。大本営跡を最初に、広島城全体にたくさんの陸軍の施設が置かれていたことを詳しく説明していただいた。

 

中に入れぬからと、波多野さんは防空作戦室の上、石垣の上で話されることもあるという。

 

14時に借りているのは、民間の会議室。

波多野さんとはここでお会いすることになっている。

 

こられたのは3人の方。NPO法人広島宗教協力平和センター(HRCP)で活動されている。

hrcp.sakura.ne.jp

伝承講話は、3つのパーツで構成されている。

ひとつは波多野さんの岡さんの来歴などの紹介。

2つ目は高校生がつくった岡さんの証言をもとにした動画

3つ目が岡さんの証言の朗読。

 

岡さんになり替わるのではなく、後世を生きている人たちのこころとからだを通過することで起きる化学反応のようなもの・・・私は岡さんのお話を何度もうかがっているが、今日の伝承講話から岡さんが伝えようとしたものが新たなふくらみをもったものとして伝わってくるのを感じた。

証言ができる被爆者の方々の多くがすでに90代になっている。じかに証言をうかがえるのは極めて難しくなった今、さまざまな形で伝承を探っていくことが重要だと思う。

一字一句、被爆者の証言から外れることなく、しっかりと伝承する人たちをつくろうという広島市被爆体験伝承者養成事業も分からなくはないが、大事なのは「事実をそのままを」にとどまらない受け継ぐ人たちの思い。録音、録画では伝わらない今広島に生きている方々の思いを重ねていくことが重要だと思う。

HRCPでは年次報告書「折り鶴」が刊行されている。ここにしっかりした歩みが記されている。読みたい方は連絡を取ってみたらどうだろうか。

 

質疑も含めて2時間近く。

波多野さんからの有り難い申し出。縮景園被爆樹木などの案内をこのあとしていただけることに。

外から来た人たちはタクシーで。広島の方は自転車で縮景園へ。

庭園_縮景園

縮景園は1620年に広島藩浅野家の家老上田宗箇が藩主の別邸として設けた庭園。

波多野さんはボランティアガイドとしてここを観光客に案内している。

今回は特別に『原爆と縮景園』として、円の中にある慰霊碑や被爆樹木について詳しい説明をしてくださった。

その中からひとつだけ。

1987年7月31日、地表50㎝のところから大量の人骨が発見される。その数300~500個の骨片。

発見のきっかけとなったのは、元朝日新聞のカメラマン松本栄一さんが1945年9月に雑誌『科学朝日』の原爆特集の取材で撮影した写真。この写真を手掛かりに遠くの牛田山の稜線や京橋川のかかり具合などから場所を特定したという。

 

masuda901.web.fc2.com

縮景園には何度か足を踏み入れたことがあったが、原爆被害を意識して見学したのは初めてのこと。広島の方でもこれほど詳しいお話を伺うのは初めてとのことだった。ここでもHRCPで作成した貴重な資料をいただいた。

終了したのは17時近く。ほとんど出ずっぱりで案内をしてくださった波多野さんには、ただただ感謝。