オトナのひろしま修学旅行③ 中澤晶子さんのガイドでツアーが始まる。

12時30分をすぎると、三々五々、参加者が集まってくる。

ガイド役をお願いしてある児童文学作家の中澤晶子さんが見える。何人か見知った人たちに挨拶している。お昼がまだのようだ。「ご飯、食べさせて」とベンチでランチ。

富山の塚原さん、キャリーバッグを引いている。ホテルに寄る時間がなかったようだ。

今日は、平和公園内の移動のみ。キャリーバッグひとつなら問題なし。

横浜、神奈川、山梨、埼玉、愛知、大阪から17名の参加者。千葉の吉田さんは、一昨日、キャンセルとの連絡。腰痛を悪化させてしまったとのこと。皆さんでビールでもとカンパを戴いた。

ほとんどが前期高齢者より上に分類される方々だが、若者が一人。横浜から参加の藤原侑貴さん。30代、職業小説家。雑誌『対抗言論』1〜3号(3号の特集は”反ヘイトのための交差路 差別と暴力の批評”)の毎号の編集人に名を連ねていて、作品も毎号発表している。彼が中学生の頃、私が3ヶ月ほど学級担任をもった縁だ。

さて、ツアーのスタート。原爆ドームについてのお話。背中が中澤晶子さん。

お話の終わりに、写真の背景に少し写り込んでいる「おりづるタワー」について。

地元大企業マツダがつくったこの施設については、毀誉褒貶さまざま。旅行業者は

修学旅行のコースに組み入れ、子どもたちをここに誘導する。

折り鶴を折って収めるのにお金がかかるとか、大人の入場料金2200円は法外だとか、

批判はうなづけるものが多い。

私も一度だけ上ってみたが、景観を眺めるだけであれば、500円が相当だと思った。少なくとも修学旅行の生徒をここに案内しようとは思わない。地上90mからの景観は、最後の修学旅行でおこなったダイインと真逆の発想に思える。

さらに、折り鶴への過度な傾斜は、佐々木禎子さんのお話に依拠しており、原爆の攻撃を受けた広島を、情緒的な被害者論へに誘導してしまうある種の「傾き」を有しているように思う。

これについて女性史研究家で被爆者でもある加納実紀代氏は、次のように語る。

 

「それに加えて、まさに禎子、十二歳の少女の白血病死です。しかも戦後十年たって、ようやく復興に向かって日本は活気づいている時です。ものすごく痛ましいという想いで受け止められ、<無垢なる被害者>というものが貞子を契機に構築されることになります。それが結果的にみると侵略戦争の加害者性というものを隠蔽することにつながったのではないか、私はそう思います。」(講演「平和」の表象としての鳩と折り鶴」『広島 爆心都市からあいだの都市へ』(インパクト出版会・2022年11月刊)所収)

 

また折り鶴そのものについては、次のように語っている。

 

「それから折り鶴は、日本の伝統文化であり、それを自ら折るということで参加意識につながり、その千羽鶴を皆で集めるということで共同性も形成される。そこでナショナル・アインデンティティーが生まれる、ということになるわけです。「被爆憲法9条」が日本の戦後軸とだということで平和国家というイメージが作られていくわけですが、アメリカの核の傘の下の平和であり、沖縄に基地負担を押し付けての平和であったことが、今はもう明らかになっております。その辺のことを直視しないできたことを改めて思う次第です。」(同)

 

私的財力でこの地に建てられたおりづるタワーが、原爆ドームや慰霊碑を含む平和公園全体を臨む位置にあることの意味、そして現在の日本の置かれた位置からこの発想をどう考えるか、私たちも問われているのかなと思う。

 

ゆっくり歩きながら西に向かう。原爆攻撃の目標となった相生橋、デルタの平和公園に入るT字型の橋を通る。

この地点を目標にしながら、実際の爆心地は東南に300m離れた島外科南側の大手町駐車場となる。上空580〜600mで爆発したとされる。

爆心地は「島外科」と記憶しているのだが、現在は「島内科」。代替わりによって診療科目が変更になったのだろう。

 

本川小学校平和資料館へ少し急いで向かう。

都会の中の学校だけに警備は厳しい。門扉は閉じられている。

事前に見学依頼書をFAXで提出したのが4月10日。14時30分を第一希望に第三希望まで記して提出したのだが、いずれも却下。他団体が入っているとのことで、希望していなかった13時30分に。

係の人が招じ入れてくれる。校舎はごく普通のよくあるものだが、この資料館は、当時のもの。

写真

人はもちろん、校舎は壊滅的な打撃を受けたが、一部この部分と地下が残された。

爆心地から410m、校舎にいた児童400人と教員10人のうち、児童一人、教員一人が生き残った。その児童が居森清子さん。2005年に横浜在住であることを新聞で知り、連絡。当時の在任校に来ていただいてお話を伺った。その後10年近く、横浜の中学校で被爆体験をお話ししてくださった。2016年にお亡くなりになったが、お連れ合いの公照さんは清子さんの遺志を受け継ぎ被爆講話を続けている。

児童が制作した掲示

以前は原爆資料館に置かれていた原爆攻撃の模型が置かれている。爆心の上には原爆の火球が糸で吊るされている。街全体の位置関係がよく分かる。

中澤さんは、「現在、資料館の模型は高度な仕掛けのものに変わっていますが、この模型の方が想像力を刺激してくれるようです」と話す。

じいっとみていると、確かにいろいろなものが見えてくる。

 

トイレのある公園で一休みすることに。

本川橋を渡って再び中洲、デルタの平和公園内に入る。

韓国人原爆犠牲者慰霊碑へ。

G7広島サミットでは、尹錫悦(ユン・ソンニョル)韓国大統領と岸田首相が訪れたところ。時を同じくせずに(さあせられずに)、韓国在住の被爆者も訪れ、ぬかづく姿が報道された。

元々は、この慰霊碑、1970年に公園の外に建立された。私が初めて広島を訪れたときは、まだ本川橋の袂にあった。公園内への移設は1999年。朝鮮の人々の犠牲の数は明らかになっていないが、被爆者7万人、犠牲者4万人と言われている。大統領の訪問によって、韓国内の被爆者への処遇に変化が起きるのかどうか。北朝鮮にも被爆者がいることは知られているが、救済の動きはない。韓国人原爆犠牲者慰霊碑

続いて、慈仙寺跡の墓石を見る。

平和公園の中で、ここ一箇所だけが原爆攻撃以前の地面を見ることができる。

まるで、水のない池の中に墓跡があるように見えるが、これは公園全体(もともとは人々が住む街だったが)が15cmから50cmの盛り土がなされているためだ(広島国際大工学部の石丸紀興教授)。盛り土の目的は、公園を作る際に、一帯にひろがるおびただしい遺骨の収集が難しかったためだったようだ。

墓石の多くが激しい爆風によって吹き飛ばされ、激しく変形、損傷。公園内で直接原爆の被害が形となってみることができるのはここだけとのこと。慈仙寺は浄土宗の大きなお寺だったようで、たくさんのお墓が並んでいたと想像できる。この墓石は広島藩浅野家年寄岡本宮内のもの。

 

原爆供養塔の前では、小学生らがガイドの話を静かに聞いている。オトナのツアーは、供養塔の裏にまわり、中澤さんのお話を伺う。

ここは1955年、被爆10周年の年に各所に散財していた無縁の遺骨を納骨したところ。約7万人の遺骨が収められていると言われるが、当時の状況を考えれば正確なことはわからないと中澤さん。

この供養塔の前で被爆証言をしていたのが佐伯敏子さんだ。私は初めて佐伯さんのお話を聞いた時、その迫力に圧倒されたことを覚えている。

佐伯さんについては、『チンチン電車と女学生』の著者、堀川恵子さんの『原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年』(文藝春秋)が詳しい。

堀川さんが佐伯さんと初めて会うのは1993年。佐伯さんを見つけ一目散に走っていくと佐伯さんは堀川さんに

「あんた、元気なのはええけどね、ここはソオッと歩かにゃいけんよ。まだ大勢の人が眠っておられる場所なんじゃから」

と言ったという。

1998年、病に倒れて佐伯さんは供養の前から姿を消す。堀川さんが再会するのは15年後の2013年だ。

佐伯さんは、目が見えず、歩くこともできずに、市内の老人施設で生活をしていた。

そこから、堀川さんの取材が始まる。

今まで佐伯さんがあえて語ってこなかった被爆当時のお話が語られていく。これほどのことがと、読んでいて辛かった。ぜひ読んでほしい本だ。

2017年、佐伯さんは心不全のため亡くなる。97歳。

昨年、ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会による「原爆納骨堂を守り続けて 佐伯敏子さんの証言」と言う冊子が発行された。佐伯さんのお話や文章をまとめた遺稿集である。その最初のページに佐伯さんの言葉が掲げられている。

 

広島には歳がありません。

50年経とうが、

100年経とうが、

この世界の中で、

人間を殺す道具があるかぎりは、

広島に歳をとらせないでください。

   (1996年8月5日「原爆犠牲ヒロシマの碑」碑前祭での生徒への呼びかけ)

 

供養塔の正面に移動、原爆供養塔納骨名簿 遺族を捜しています、という掲示板がある。広島市は全国の自治体に対し、遺族捜索の依頼を続けている。

「歩道のないところに行きます。クルマに気をつけて」という中澤さんの注意に、皆少し緊張する。

「広島二中原爆慰霊碑」。国際会議場の裏手にあたる。広島二中の生徒がほぼ全滅した本川の土手に慰霊碑がある。

1年生6学級のほぼ全員、2年生と教職員含めた300人を超える人々の名前が慰霊碑の裏面に刻まれている。

集合して点呼をとっている時の惨劇。爆心から500m。 

 

六日夕、捜しに入った母親は「水際に至る迄(まで)重なるように重傷の子供充(み)ち、水中のイカダにもたれて叫ぶのもあり」と、光景をとどめた。七日朝に着いた父親は「屍(しかばね)は既に膨張し、どれもこれも同じ様な容貌(ぼう)」と、焼け残りの着衣やベルトで息子を確かめるしかなかった。                   (「爆心への幼き動員」 広島の記録遺影は語る から)

 

広島二中については、1969年に松山善三、杉本春子によるドキュメンタリーが制作されていて、よく知られている。また2015年には是枝裕和綾瀬はるかのコンビでリメイク版が制作された。この時に難を逃れ生き延びた生徒へのインタビューも行われた。碑裏面に削除されている名前があるのはそのためだ。

私の広島二中との出会いは50年前、『男声合唱のためのレクイエム「碑」』という作品だ。

私の二つ下の学年が定期演奏会でこの曲を演奏した。広島から千キロ以上離れた会津若松でのことだった。

 

作曲は森脇憲三、作詞は薄田純一郎。ドキュメンタリー「碑」の企画を担った人。広島二中の卒業生だ。

この曲の初演の時の様子を少し長いが引用する。

 アンコール! アンコール! 感動の涙をぬぐっていた白いハンカチが、拍手でうちふられた。その拍手にこたえて客席にふり向いた指揮者の山本定男さんは、客席に静かに語りかけた。
  「このホールの正面に、原爆で全滅した広島二中一年生の『碑』があります。扉を開いて、少年たちにこの歌をおきかせしたいと思いますが・・・・・」。
  大きく開かれた扉の真正面に、花でかざられた石碑が、照明の中で浮かびあがっていた。その石碑にむかってもう一度うたわれる終曲の一節。言葉にならない感動がホールいっぱいにひろがっていった。 十月二日、広島市公会堂でひらかれた同市のアマチュア男声合唱団、広島メンネルコールの第十一回定期演奏会のクライマックスだった。
  二十五年前、広島に投下された原爆で全滅した広島二中の一年生三百余人。その碑を建てるために少年たちの家族を追跡調査するもようをえがいたテレビ・ドキュメンタリー・ドラマ「碑」 。これに感動した前記の山本さんたちが、「広島にうまれ育った私たちの原爆への怒りをうたいたい」と作詩(薄田純一郎)、作曲(森脇憲三)を委嘱、合唱団創立十五周年記念にあたるこの日、発表初演したものだった。
  この話題が地元紙に大きく紹介されたために、この日の会場・市公会堂はおよそ千五百人の聴衆で満員。地元・広島テレビが演奏会のもようを中継録画するなど、合唱演奏会としてはかつてないほどのもりあがり。第一部、清水脩の「或る夜の心」、日本民謡のステージにつづいて、いよいよ注目のレクイエム「碑」が演奏された。
  「この歌はわれわれにしかうたえない。原爆を語れるのはわれわれでしかない。」というメンバーの意気ごみで、ステージは異様なほどの迫力。あるいは静かに語りかけ、あるいははげしく怒りをぶっつける演奏に、客席はシーンとして水を打ったよう。四十分をこえる長大なこの作品も、すこしもダレをみせずに、胸をしめつけるような感動のうちにおわった。
  客席に涙をハンカチでぬぐう人の姿も多く、いまさらのように平和への願いをかみしめているようだった。ある十三歳の中学生は「ぼくは戦争も原爆もしらないけれど、ぼくより年下の彼らが、いまぼくのすわっているここで死んだことを思うと、戦争のおそろしさに身がすくむようです」と語っていた。
  会がおわって人気のなくなった碑の前にすわっている老婦人。この歌の中でうたわれている少年、「坪木くん」の母親だった。坪木くんはお母さんにも会えず、「夢の中でお母さんに会うんだ」といって息をひきとったのだという。
  なおこの作品は、来年二月、福岡市でひらかれる森脇氏の作品発表会で、この日とおなじ山本さんの指揮、広島メンネルコールによってうたわれることになっているという。

(1970年「旬刊音楽展望(カワイ楽譜発行)」より)
 
 
 
 
 
 
 
 

指揮をした山本定男さんはご存命とのこと。

広島二中は、現在の広島県立広島観音高等学校となっている。

 

さて、碑巡りも終盤に。

最後は今朝訪れた広島市立高女の碑。

中澤さんは、戦後市立高女は広島市立舟入高等学校となったが、そこの出身とのこと。これほどの犠牲があったことを在学中は不覚にも知らなかったと話された。

中澤さんのお話を伺いながら、この碑の前で何年もお話をしてくださった方のお名前を思い出した。渡辺美代子さんだ。

 

渡辺さんを2012年に取材した朝日新聞の記者のレポートを見つけたので紹介する。

 

 

語る、心に届くと信じて

「この辺には多くの被爆者が水を求めてさまよっていたのよ。両腕から、皮膚がだらっと垂れ下がっていたんじゃよ」
 7月半ば、広島市中区平和記念公園被爆体験の語り部をしている渡辺美代子さん(82)が両腕を突き出し、小刻みに震わせた。中身は壮絶だが、語り口は淡々としている。
 聞いていたのは地元の小学6年生。よそ見して退屈そうな子もいる。後で聞くと「実感がわかない」「こわかった」とつぶやいた。戦争を知らない私自身、朗読を聞いているように感じた。渡辺さんの言葉は、子どもたちの心に届いているのだろうか。ふと疑問を感じ、渡辺さんを訪ねた。

「最初は嫌でしょうがなかったのよ。あの日の出来事を思い出したい被爆者なんて一人もいないわ」
 入院中の病室でベッドに腰掛け、渡辺さんは言った。病院で療養しながら語り部を続けている。
 ――高等女学校3年のとき、広島市の自宅を出ようとして原爆の閃光(せんこう)を浴びた。居間に行くと、髪の毛が逆立ち、頭から血を流した母親がいた。「助けて」。今でもその姿と叫び声を忘れることはできない。父親は上半身に大やけどを負い、終戦翌日に逝った。
 戦後、被爆者の男性と結婚したが、30代で死別。息子が1人いるが、被爆体験を話したことはない。「大半の語り部はそうだと思う。語り部はあくまで公人として、被爆の実相を伝えるためにやってきた。息子は被爆2世。無駄な心配をさせたくなかった」
 語り始めたのは30代後半。女手一つで子育てし多忙を極めた時、東京から、中学教諭の男性が突然訪ねてきた。修学旅行生に体験を語る被爆者を探していた。
 原爆の記憶は、思い出したくない過去だった。だが熱意に負け、子どもたちが、平和について考えてくれるのならと決意した。
 最初の頃は語り出すと、被爆した両親の悲痛な姿が思い浮かんで、涙が止まらなくなった。「だけど、子どもたちは何がなんだかわからないでしょ。だから、あえて感情を押し殺して、冷静に語っているの」。そう明かした。半世紀近い証言は数千回に及ぶ。話し終えると今も、どっと疲れが出る。

  ■   ■

 話をしても、最初は落ち着いて聞いてくれない。ただ、最後はわかってくれるのでは。そんな自負を支える出来事があった。
 証言を始めて20年ほどたったころだ。相手は、佐賀市から修学旅行で来た中学3年生。話し始めると1人の男子生徒が、わざと大きなせき払いを繰り返し、壇上に足を伸ばした。それでも、語り続けていると様子が変わっていった。気づくと姿勢を正していた。
 翌春、この男子生徒から手紙が届いた。「ぜひ卒業式に来て、変わった姿を見てほしい」。平和な時代を生きていることに気づかされたと、お礼の言葉があった。電車を乗り継いで行くと、数カ月前とは違う若者が深く頭を下げた。「ありがとうございました」
 この経験が、渡辺さんが語り部を続けていくうえで大きな力となった。
 原爆投下から67年、直接体験した世代は少なくなった。証言だけから当時の状況を実感するのは難しい。それでも、渡辺さんの言葉一つひとつには、被爆者が背負ってきた人生の重みがある。多くの被爆者が残してきた言葉や資料を手がかりに想像力をどう鍛えていくか、私自身の課題だ。
 (倉富竜太、37歳)

 

 

この中に出てくる被爆証言者を探している中学の教員というのが、江口保さんだ。長崎で被爆、東京の中学の教員となった江口さんは、山陽新幹線が開通したことをきっかけに広島修学旅行を計画する。

生徒も教員にもなかなか賛同を得られず苦労するが、実現。上平井(中)方式という、生徒が直接被爆者から話を伺うという形をつくった。

1986年、異動先の学校で賛同を得られなかったことを契機に早期退職。広島市にアパートを借りて「広島修学旅行を手伝う会」をたった一人で発足。生徒を受け入れる旅館の確保や被爆証言者を探しながら、下見にやってくる教員の相談に乗っていた。

この時につくられたいわゆる「江口グループ」と呼ばれる語り部の人たち、佐伯敏子さん、沼田鈴子さん、山岡ミチコさん、吉川生美さん、松田雪美さん、山崎寛治さん、岡ヨシエさん、切明千枝子さん、、挙げればキリがない程の実のある素晴らしい語り部の方達だ。今回話していただく植田さんや豊永恵三郎さんもその中のお一人。

私が下見で初めて広島を訪れたのが1991年。その年の夏に東京で江口さんにお会いして、いわゆる業者任せでない自前の修学旅行の方向について長時間お話を伺った。

私がその後、広島に下見に伺うと、平和公園のどこかから自転車に乗って現れ、真っ黒に日焼けした顔で、すぐさま「ここに行った方いい。ここに一緒に行こう」などと貴重な示唆を与えてくださったものだ。

 

江口さんも渡辺さんも既に鬼籍に入られた。

広島修学旅行は、少しずつ業者任せの方向に移り始めているようだ。訪問先も証言者も自分で見聞きし、確かめもせずに、業者の言うがままに流れていく。それでも続けているのならまだいいのだが。

私の最後の在任校も、先頃20年近く続いた広島からの撤退を決めたという。1998年刊

 

ツアー1日目。ずいぶん長くなってしまった。

残すところ、夕食交流会。

三山町のほおずき。繁華街八丁堀のど真ん中。はたして時間まで集まれるか?

7割がたの人たちは私と一緒に平和公園から歩いて直接。ホテルに一旦戻った人の中にお二人「迷子」が出た。

この時のために、午前中の「下見」が役に立った。

私と同じように迷っていたお二人を次々と救出?

カープのゲームがプロジェクタに映し出される中、賑やかな宴が無事始まった。