8月9日
朝、歩き始めた時は薄陽が差していたのだが、20分を過ぎた頃から黒い雲が空を覆い始め、30分後には突如激しい雨が降り出した。
バケツをひっくり返したような、という表現がぴったり。
ただ、雨そのものはr冷たくない、生ぬるい。からだが冷えるということはない。
傘の持ち合わせもなく、見る間に2人とも帽子から靴まで全身ずぶ濡れ。遊歩道にも水が溜まり、じゃぶじゃぶと漕いでいく。
雨でくもる遊歩道には、さっきまで行き交っていた散歩人の姿が全く見えなくなり、時折り自転車だけが急いで通り過ぎていく。
お一人、雑兵がかぶるような傘を被ったご老人、いつもゴミトングとレジ袋をさげてゴミを拾っている方と、今日もすれ違う。
お互い、ニヤッと笑って「仕方ないね」の表情。
雨は、20分間、弱まることなく降り続いた。
いっそこれぐらい降られると、小気味がいい。帰途残り10分は、日が出てくる。
降っているうちはいいが、晴れてくると老夫婦のずぶ濡れ姿は、どこか惨めさが漂う。
玄関で全て脱ぎ捨て、風呂へ。
午後は、前から予定していた神奈川近代文学館へ。
今日8月9日は長崎の原爆記念日。
今朝もテレビは
「78年前の今日、長崎に投下された原子爆弾は、多くの人の・・・」
といった言い方が繰り返されている。
どのテレビもラジオも新聞も、
「78年前、アメリカ・連合国軍は広島に対し、人類初の核爆弾攻撃を行なった・・・・」
という表現はしない。
「誰が」という主語がいつも省かれる。投下するではなく、投下されるという受動態にすることによって、主語が消えても不自然さが感じられなくなる。
オバマ大統領の2016年の広島演説もそうだった。
Seventy-one years ago, on a bright cloudless morning, death fell from the sky and the world was changed. A flash of light and a wall of fire destroyed a city and demonstrated that mankind possessed the means to destroy itself.
原爆の投下を命令をした人、命令を受けて投下した人は消えて、
death fell from the sky and the world was changed.
「死が空から落ちてきて、世界は変わってしまった」という。
現実の惨禍と比べれば、文学的修辞など何ほどのものかと思う。
日本語の主語を除いた言い方には独特なものがある。
「お茶が入りました」や、「風呂が沸きました」という言い方には、「誰が」を省くことで得られる相手への気遣いがあるが、そう考えると主語を省いた「投下された」はアメリカへの忖度か。
同じように、大日本帝国が口火を切った太平洋戦争という言い方もしない。戦争はいつの間にか終結したような「終戦」という言い方。これは誰に対する忖度?
8月ジャーナリズムは、今年もそこそこ盛んだが、慣用的な表現がもつ問題性について議論をすることも必要なのではないか、と私は今年も考えている。
さて、神奈川近代文学館。桜木町から港の見える丘公園を通る11系統のバスに乗るつもりだったのだが、タッチの差で間に合わず。次のバスは30分後。仕方ないので、石川町までJR根岸線に乗り、タクシーで向かう。
今日の目的は、作家林京子さんの「被爆とわたくし」という、2000年にここで行われた講演のDVD上映会。
NHKの「あの人に会いたい」では、林さんはこんなふうに紹介されている。
平成29年2月、86歳で亡くなった作家・林京子さん。長崎での被爆体験を元に数多くの小説を発表した。「被爆は一日だが、人間の肉体と精神の中では今もずっと続いている」。昭和5年に長崎で生まれた林さん。高等女学校3年の時に被爆。爆心地近くにいたが、奇跡的に生き延びた。結婚・出産を経験した後、息子の成長に促されて被爆体験を書き始め、昭和50年「祭りの場」で芥川賞を受賞した。以後“原爆の語り部”として多く作品を著し、被爆を抱えて生きることの意味を問い続けた。核と生命に向き合い続けた86年の人生だった。
会場は80人ほど入るセミナー室に大型テレビが用意されていたが、視聴者は私を含めて10名ほど。
1時間ほどの講演。後半に評論家黒古一夫氏との対談が30分ほど。
画面に映る林さん。語り口が穏やかで丁寧、かつ上品。手元の綴じたB4の大きな原稿用紙を見ながら話をされるが、あちこちに削除の線や加筆の様子が見て取れ、周到な準備をされての講演だったことが伝わってくる。
前半は、15歳までの上海での生活について。
言葉の話が面白かった。日本語がうまくないという。言葉を覚えた中国の四季は大雑把で、日本の四季との違和感がずっとあったという。そんなことから細やかな日本語が苦手だとか。文章の淡白さもそれゆえのことだという。
被爆当日のことを詳細に語られる。
1945年に帰国して長崎高女に編入。8月9日は市内の三菱兵器工場の学徒動員で出ていて被爆。この時、彼女は女学校の3年生だが体重33.4kg。今なら小4ほどの体格だ。兵器工場と言っても、彼女が動員されたのは体力のいらない紙屑再生工場。爆心から1.4km、瓦礫の下敷きになりなり脱出、外傷はなかった。
しかし、終生、原爆症の発症をおそれていたという。それらしき症状は、被爆直後に黄色い液を吐いたという記憶。広島の医師肥田舜太郎氏には、「がん以外では死なないよ」といわれたと語っている。
原爆を描くことへの想いを語るとき、林さんは離婚した頃のことを語る。当時45歳。子どもとともに生活していくため就職活動をしていたそうだ。しかし、年齢もあって何社も断られるうちに、履歴書の年齢を3歳サバを読んで提出したところ、採用が決まったという。
そこで、自分のカルテのつもりで書き続けてきた作品「祭りの場」を群像の新人賞に応募。小説はこれで終わりと毛rじめをつけるための応募だったそうだ。
ところが見事、群像新人賞に選出。そのまま芥川賞も受賞するのだが(このときの候補には中上健次や高橋揆一郎の名前がある)、履歴書にはやはり3歳若く記載した。このことが、審査員だった吉行淳之介の目に留まり、彼から「小6の子供が姉の話を聞いて書いたものか、その辺をはっきりしてほしい」という問い合わせが編集者を通じてあったそうだ。
書くという言うことはおそろしいものだと思ったと述べている。
それと「祭りの場」は私小説ではないと強調。体験を超えるものがなければ作品とは言えない。原爆はその日だけのことではなく、一生付き纏うもの、自分の中で進行しているもの。それを抱えて書くことを続けてきたと創作姿勢を明確にする。
小さなつどいではあったが、じっくりと作家に向き合えたような気がした。
さて、今日はもう1人、作家に会う予定がある。
近代文学館から下の道路まで歩いてバス停貯木場へ。これは26系統。本数はかなり多い。しかし、港の見える丘の近代文学館へはかなりの上り。帰りは使えるが。
横浜駅まで出て、バスターミナルで鶴見駅行きのバスを探す。今度は29系統。
国道1号線の京浜第2国道をのんびり東に向かう。
ここで、「山内若菜記憶展 サルビア現代美術展2023」が開かれている。
山内さんは藤沢市在住の新進の画家。
原爆や震災などをテーマに精力的な作家活動を続けている。
会場はそれほど広くないが、長さ数メートルある作品も置かれ、小品もいくつか。テーマは阿賀野川だったり、飯舘、大久野島、そして鶴見など、彼女の目に映った心象風景が描かれる。印刷したものは目にしたことあったが、実際に作品に接してみて迫力に驚いた。
何度も紙を上から張り合わせて塗り重ねていく手法。その分だけ凹凸が現れ、絵に深みが増しているように感じられる。
山内さんには何度かお会いしたことはあるが、話すのはこれが初めて。
ちょうど訪れる人が途切れたところだったので、20分ほどお話を伺う。
話している間も、彼女は手に絵具をつけて塗り続ける。
帰りに山内さんが絵を担当した『ウマとオラのマキバ』という飯舘村を題材とした絵本と、やはり彼女が絵を担当した『17歳の銃後 短歌集』(川崎典子)を購入。どちらもすばらしい作品。
ぜひたくさんの方々に見てほしい展覧会。開催は13日まで。
来年、広島の旧日銀での個展が予定されているそうだ