2人目の登壇は柴田優呼さん。
柴田さんは『”ヒロシマ・ナガサキ”被爆神話を解体する』(作品社)の著者。朝日新聞の記者から研究者となり、現在ニュージーランド・オタゴ大学言語学部の助教授。
被服支廠保存を考える上での貴重なお話だった。
まず初めに、戦後日本は軍事国家ら平和国家へスタンスをうつすが、
軍事的発展の歴史については封印
今の広島で知られているのは民生関連の施設のみ。
被服支廠は、軍事国家からの転換を明確にする重要な施設。
ここから柴田さんは、〈服〉をキーワードに持論を展開。
服とアインデンティティー
・天皇が軍服を脱いで背広姿に
・一方、被服支廠は〈服をつくるところ〉
・そこは服をなくした人たちが逃げてきたところだった(峠三吉「倉庫の記録」)
・アラン・レネの『広島モナムール・24時間の情事』
(この映画は何度か見たが、難解である。邦題のつけかた(誰がなぜこんなタイトルにしたのか)から当時チャンバラ映画を上映する映画館で公開されたという。アラン・レネ(脚本はマルグリッド・デュラス)が意図したものは何だったのか、私にはまだつかめない。数年前、この女優が撮影以来数十年ぶりに訪日して話題となった。)
15年後のヒロシマ
岡田英次…シャツのネクタイのダンディな姿
仏人女性に対し
「君はヒロシマを見ていない」と繰り返す。
この広島はどんなヒロシマなのか
被服支廠はこの3つとも兼ねる
軍隊・被爆・復興(ここは復興の拠点にもなっている)
私たちはまだ内側に軍服を着ているのだろうか
これがつめられていない これを考えるうえで被服支廠は重要な施設
利用方法について
平和公園と被服支廠を結ぶルートをつくる
ボランティアとともに2・7㎞という距離、被爆者が逃げた道程をトレースする
シビリアンがターゲットだったことを知ってもらう
平和公園(昔の繁華街)と軍事施設の距離を体感する
被服支廠はそれを補うことができる
からだを動かすと自分自身の体験になる
語り部やボランティアと歩きながら話す、聴く
パーソナルなつながりは記憶が強化され忘れにくい
倉庫の広大さと逃げてきた人々の人数を想像する
一種のダークツーリズム ➡ アポカリプス(全滅)への憧憬を否定する
核を「崇高」(サプライ無、圧倒的な力や畏れの対象にさせない
うまくまとめられないが、柴田さんのテーマは、戦後日本(人)がつくってきた
平和神話を問い直すことのようだ。
その問いのひとつが、原爆「投下」という表現へのこだわり。
原爆は明らかな核戦争であるのに、二つの爆弾が「投下」されたというかたちに矮小化されているのではないか。
著書をさっそく会場で購入した。この本のサブタイトルは、「隠蔽されてきた日米共犯関係の原点」というものだ。
このサブタイトルから頭に浮かぶのは、アメリカの占領政策の巧妙さとそれに追随してきたこの国の保守勢力とのつながりだ。
原爆は重大な戦争犯罪であるにもかかわらず、いつしか親米寄りかかりの文化が日本に定着してきた。原発を売り込むためにアメリカが何をしたか、日本の親米派がどんな役割を果たしたか。
これは「新しい戦後史」を紡ぐことではないかという気がする。
柴田さんは映画や文学にも造詣の深いようだ。まだちゃんと読んではいないのだが、そこから読み取れる「神話」を対象化する方法を提示しているような本、だと思う。
3人目は松本渚さん。大阪大学の大学院の学生。5人で始めた保存キャンペーンの一員。
資料をもとに、被服支廠の全体像と、現在の広島での保存をめぐる論議の様子を提起してくれた。
とくに「私の視点」として紹介された6人の方のこの建物に対する思いが書かれたパンフレットの紹介が面白かった。
3人のお話のあいだやそのあとに、中国新聞の記者の方や、実際に大学の寮として使われていたこの建物に入ったことがあるという方のお話など、貴重なお話をいくつもお聞きした。
2019年秋の広島県の「1棟外観保存、2棟取り壊し」の方針に対し、さまざまな方面の方が尽力し、現在とりあえず「先送り」というところまできた。
しかし、完全に方針が撤回されたわけではない。
さまざまな「視点」と具体的な活用案が話されることが保存につながるのではないか。
グランドゼロの原爆ドームには人々のいぶきは残っていないが、被服支廠にはたくさんの人たちが生きて逃げてきた「空気」が残っている。それを作品として結実させた峠三吉の「倉庫の記録」は、文学であると同時に、みえないモニュメントとなっているのだと思う。
問題は、広島に留まらない。国会でもすでに議論がなされており、与党も含めて保存の推力は強まっていると思う。
なんとかして全面、出来れば4棟(国の所有の1棟も含めて)保存が実現することを願っている。
追記
小村公次さんの「戦没作曲家・学生の音楽」のところで紹介のあった『「ヒロシマ」が鳴り響くとき』(能登原由美・春秋社)も、音楽の視点から「ヒロシマ」の在り方の変容を追っている。政治としての音楽を、つくる側、聴く側、演奏する側から分析していて興味深かった。