『水上タクシーで巡る広島市』(毎日新聞7月3日”私の穴場”)『川面から見るヒロシマ』(毎日新聞広島県版7月4日”支局長からの手紙”)

今日は七夕。そして一粒万倍日。グリコみたいな日だ。

この重なりは縁起がいいそうだ。今日は出かける。サマージャンボを買うのもいいかもしれない。

 

梅雨が明け、猛暑日が続いたが、今朝は24℃台。エアコンどころか扇風機もつけずにこれを書いている。

 

5月に広島に行った話は何回かに分けてここに書いた。

あの時、船で平和公園から広島駅のほうまでさかのぼったことを少しだけ書いた。

1時間以上の船旅?だったが、費用は実はタダだった。

というのも、あれは毎日新聞の全国版の「わたしの穴場」という企画。

広島支局長の宇城昇さんが児童文学作家中澤晶子さんとともに水上タクシー広島市内をめぐるというもの。

私は中澤さんと宇城さんのご厚意で便乗させてもらったのだ。

 

その記事が、7月3日に毎日新聞全国版に掲載された。

記事が大きいので2枚に分かれるが、紹介する。

 



 

 

だからこの記事には私はもちろん出てこないのだが、6月になって、宇城さんから電話で取材の申し込みがあり、まとまらない話を40分ぐらいした。

その記事がこれである。

 



私が広島修学旅行に関わり始めた90年代前半、語り部の方々の平均年齢は若かった。

 

綺羅星のごとく、とか名物語り部とかいった言い方が適切かどうかは別としても、当時は佐伯敏子さん、沼田鈴子さん、松田雪美さん、吉川生美さん、切明千枝子さん、山岡美智子さん、岡ヨシエさん、松原美代子さん、山崎寛治さん、植田規子(規のへんは夫ではなく矢)さん、川本義孝さん、豊永惠三郎さん、野村剛さん、梶山雅子さん‥‥挙げればきりがないほどのたくさんの個性的で素晴らしい語り部さんがたくさんいた。

 

80歳前後だった松田雪美さんを除けばほとんどの方が60歳から70歳前後だったのではないだろうか。

平和公園のそれぞれのゆかりの場所で語り部さんを囲んで7~8人の中学生が車座になり話を聞くというスタイル。

お話は1時間から1時間半ほど。語り部の皆さんが元気だったからこそのスタイルだった。

 

いつしかそうした光景は消えていった。

原爆資料館や国際会議場の会議室などで大人数で被爆証言を聴くスタイルに変わっていったのは、やはり語り部の方々が亡くなっていくにつれのことだったと思う。

 

今では名前を挙げた方の中でご存命なのは植田規子さん、切明千枝子さん、豊永恵三郎さん・・・。

 

7月4日の新聞では、厚労省の調査によると

2022年3月段階の被爆者の人数は11万8935人。昨年より約8千800人減り、12万人を割ったという。

平均年齢は、84.53歳だが、語り部の中心層だった方々は、被爆当時、13から14歳、15歳の旧制中学や女学校生。この方たちが皆90歳を超えている。

 

直接被爆者から被爆体験を聴くことはかなり難しくなってきている。

だから宇城さんの記事の結語が、被爆体験の継承について触れているのも、まさにむべなるかななのだが、しかしこれは容易なことではない。

広島現地では行政だけでなく、民間でもさまざまな取り組みが始められている。

今回、お話を伺った広島宗教協力平和センターの波多野愛子さんらの取り組み。もちろん中澤さんのように個人で地道に取り組んでいる方もいる。

 

雁木の設置された広島市内を流れる川は最大の被爆遺構というのが、今回の乗船体験の私の大きな気づきだったのだが、現地にいない私がはてこれをどこにどうつなげていくか、思案のしどころではある。

稲荷町電車専用橋(爆心から1.35㎞)