【読み飛ばしの記録】『あの本は読まれているか』(2020年/らーら・プレスコット著・吉沢康子訳/東京創元社 1800円+税)★★★★☆』1冊の本をめぐって第二次世界大戦後の米ソが激しくぶつかり合うという信じられない世界が、リアルに描かれているのは驚き以外の何物でもない。

就学援助の子に「昼食代」を支給する自治体が3割あるという。

調査は道府県庁所在市、政令指定都市、東京23区の74自治体。

昼食代のほかに子ども一人当たり1万円支給(福井市)困窮世帯に一食100円の配食事業(世田谷)就学援助家庭に食材送付(神戸)簡易給食の提供(高知、北九州、江戸川、渋谷)などの取り組みも。

 

横浜市」という文字を探すも、みつからない。

 

就学援助は、時に生徒の3割以上ということもあった。

横浜市の学校数は500を超える。昼食代支給と言っても、額面も事務作業量も膨大なものになる。

いつも思うことだが、人口370万人を超える自治体が、その巨体で手先を器用に動かして福祉サービスを行うのは、難しい。

 

せめて「区」単位の行政がなされれば、と思う。

 

北九州市、5月23日~31日で97人の感染が確認されている。

特別支援学校の職員3人が感染。小学校ではクラスターが発生。97人の中に、小学生6人、中学生4人、高校生1人が入っているとのこと。

どの自治体、教育行政も、緊急事態宣言解除以降、段階を踏みながら通常の学校運営に戻そうとしている。

ちょっと待て、ということだ。

3か月間、密集しなかった児童、生徒、教職員の感染が、これから危惧される。

性急なやり方、合理性のないやり方は、禍根を残すし、検証もできない。

 

またまた【読み飛ばしの記録】

 

『あの本は読まれているか』(2020年/らーら・プレスコット著・吉沢康子訳/東京創元社 1800円+税)★★★★☆

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ソ連の作家パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』がイタリアで刊行されたのは1957年。翌年パステルナークはノーベル文学賞を受賞する。その1冊の本をめぐって繰り広げられる米ソの諜報組織との闘いがテーマ。そのアメリカの作戦を陰で支えたのが、CIAの女性職員たち。原題は『私たちが守った秘密』。彼女らについての記述がなんとも切ないのだ。そして切なさと云えば、ソ連においてパステルナークを支える愛人オリガの闘いも切なくそして壮絶だ。

とにかく1冊の本をめぐって第二次世界大戦後の米ソが激しくぶつかり合うという信じられない世界が、リアルに描かれているのは驚き以外の何物でもない。

ただ読み手として残念なのは『ドクトル・ジバゴ』を読んでいないこと。ラーラ・プレスコットの名前は『ドクトル・ジバゴ』の主人公ラーラからとられたそうだ。この本の出版権200万ドルだとか。今年一番の話題作となるかもしれない。買って読んで損はない。

 

『学校の「当たり前」をやめてはいけない―現場から疑う教育改革』(2020年/諏訪哲二著/現代書館/1700円+税)★★★★

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麹町中校長工藤勇一氏が書いた『学校の当たり前をやめた。-生徒も教師も変わる!公立名門中学校長の改革』を正面から批判した本だ。諏訪氏の論の立て方は、工藤氏の視点を「人間形成」ではなく「人材養成」と見定め、臨教審の自由化論を下敷きにしていると喝破する。その論の立て方の立て付けの悪さを指摘しながら、具体的改革の中身を辛辣に批判する。そして、「学校の当たり前」こそ必要とする。

子どもは戦後の私たちが頭で妄想したヨーロッパ的な市民社会の中に自立的な個人として誕生してくるのではない。市民社会も自主的な市民の構成体ではない。こども(ひと)は近代社会でも共同体的なものに守られ養育され、(とりわけ日本の学校の伝統では)学校教育dの生活や学習や作業やスポーツや行事など通じて、だんだんと市民社会で自立する「社会的な個人」(そしてその裏側としての「内的な自己」)に成長していく。学校も最初は市民社会の範型ではなく、むしろ共同体的な集団性が必要である。それが子どもの成長とともに市民社会的性格を持っていくのである。共同体を経由しない(たとえば,家庭や地域や初期の学校といった共同体)個人など存在するはずがないのである。(47頁)

として、諏訪は工藤の「人間形成」から「人材養成」へ(この二つは諏訪の立論ための用語)スタンスをずらす視点を批判する。それは、臨教審の自由化論批判として展開される。このあたりがわたしは面白かった。

もとより麹町中の学校改革には、教員への規制を取り除き、自由競争を展開させようとする、いわば規制緩和路線の匂いが強い。働く者にとっては何とも働きづらい職場、見えないパワハラの充満する職場ではないかと思ってきた。

学級担任制廃止や学級対抗という発想をやめるとか、定期試験をやめるとか、見た目にはアッと驚くように見える改革が、実はかなりあざといものであると考えてきた。一つひとつの「改革」への具体的批判は諏訪も試みているが、学校の在り方を外側から客観的に見ようとしてきた人々にしてみれば、そのあざとさを見抜くのはそんなに難しいことではないと思う。

いつも思うことは、いくら学校に問題があったとしても、学校はなくならないし、児童・生徒は不登校の子どもたちも含めて学校を前提としなければならない。そんな学校を支えてきたのは、工藤校長のような傑出した?人ではなく、名もない多くの教員たちだということだ。そうした人々の中で、小さな改革は日常的に行われてきたのではないか。そしてそれが淘汰され一つの文化となってきた面も否定できないと思う。そんなふうに学校も変わってきているのではないだろうか。

諏訪氏の舌鋒はいつもシニカルで舌鋒鋭いものだが、ここ何冊かの著書に共通するのは、ご自分が現場にあったときの実感を率直に語っていることだ。本書でもそのあたりが印象に残っている。

 

『釣りました!』(2020年/廣木徳夫/私家版)★★★★

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私の友人の約2年間の「釣行記録」、短文と写真で構成されている。64歳のときに突然釣りにはまり、ひたすらに熱中していく姿に驚かされる。房総半島の海岸(サブタイトルにあるように彼の釣りはキスなどの陸(おか)からの投げ釣り)を縦横に動き回る姿がまぶしいほどだ。まさに「少年のような感性」(Mさんの感想)、写真だけでなく、スケッチも入れてほしかったなあ。

                       (以下次回)