今朝の玄関の外の最低気温は-0.3℃。ぐっと冷え込んだ。
昨日、おとといは、境川の川べりを歩いていて、風がまったくなく陽射しが温かくて、
「少し春めいてきたねえ」と話していたのだが。
寒くても、あちこちで梅が咲き始めている。
『こどもに語る前に大人のための「性教育」』(岡崎勝・宮台真司・ジャパンマシニシスト社 1600円+税))を読んだ。
性教育というより性愛をめぐる社会の現状と人々の意識を丁寧に分析している。
内容的に易しいとは言えない。宮台真司さんの展開は、自在でかなりぶっ飛んでいて難しい。でも間に岡崎さんが入って論点を広げたり、また整理したり、疑問を呈したりしていて、わかりやすくなっている。
私にとっては、今まで性愛についていろいろ考えてきて、これは思い込みかなと思ってきたところなどが、すこし整理されたことと、今まで考えても来なかった、気もつかなかった視点が提示されて、眼を開かれたところも多かった。
固くなったアタマのなかをかき混ぜてもらったというところ。
それでも、この本でも触れていない、もしかしたら二人の議論の中では触れらていても、出せなかったことがたくさんあるようにも思う。それも読んでみたいところ。
性教育という点では、たとえば
・・・ボクは「性教育」と向き合いながら、この「性愛」について子どもにどうせまったらいいのかがわからなかったし、そもそも「性愛」は「教育」しうるものなのだろうかと思う。生殖と快楽(享楽)という、「性愛」の二つの面が「同一」であるという前提で「性教育」はなされてきた。だがそうか? (岡崎勝)
僕は30年以上前から、学校の性教育に期待できないといってきました。国際的な水準の「性教育」を担当するには、教員の「性愛」の経験値が低すぎるからです。その意味で、能力的に教える資格をもたないのです。だから学校では「生物学」だけ教えていればいいでしょう。
フランスやほかの国々では、「性愛」の経験値の高い専門家が、旅芸人の学校をまわるやり方をしています。今はリモートで動画を見て、「性」や「愛」について学んでいます。実は「性教育」というより「性愛教育」が国際的な水準なのです。「愛」は生物学では教えられません。(宮台真司)
ということで、「子どもの性教育」については語られていない。
展開されるのは、宮台の社会学者としての性愛の劣化から自身のワークショップの話。
若者世代の性体験率・・・
大学・高校男子のピークは2000年ごろ、大学女子のピークは2005年頃、ピーク時に比べて2017年には、大学女子は半減、高校男子も半減しているという事実。
80年代以降の新住民と旧住民との軋轢、あるいはアダルト系の動画の功罪、マッチングアプリの話などから解き明かしている。
さらに学者を超えて、劣化を防止?するためのワークショップの話も面白い。
隠さず触れられるふたりのヰタ・セクスアリスも興味深い。
社会」と「性愛」のミスマッチについては
人類学や民俗学をベースに言えば、言葉・法・損得に支配された「社会」と、言外、、法外、損得買いのシンクロが優位する「性愛」は、別の時空です。その証拠に、古今東西の別なく、「社会」に「性愛」が露出すれば、猥褻だと感じられ、「性愛」に「社会」が露出すれば、ハラスメントだと感じられるでしょう。
ここから
「社会」は、「交換」バランスをめぐる〈コントロール〉が優位、「性愛」は「贈与」がもたらす〈フュージョン〉が優位。
というテーゼが出てくる。
性愛の劣化を人権主義的な近代社会批判から行っている。私はこの視点がとても面白かった。
書いていくときりがないのでこの辺でやめる。
一読の価値あり、の本だ。
基本的に子どもの「性教育」の話は、7月に出る『小学校高学年から高校生までこども「性教育」』(仮題)をこれから二人で編むそうだ。オビにある「好きだったら、セックスしていいんですか?」は、この本で回答が出てくるのではないか?