「正欲」など2024年1月映画寸評①

 昨日は春一番境川沿いの河津桜も咲き始めた。

今朝は一転、北風。カワセミの姿も見えない。

 

2024年1月 映画寸評①

<自分なりのめやす>

ぜひお勧めしたい ⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️

みる価値あり   ⭐️⭐️⭐️⭐️

時間があれば   ⭐️⭐️⭐️

無理しなくても  ⭐️⭐️

後悔するかも   ⭐️

 

(1)『正欲』(2023年/日本/134分/監督:岸善幸/出演:稲垣吾郎 新垣結衣 

   磯村勇斗/2023年11月10日公開⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️

 

第34回柴田錬三郎賞を受賞した朝井リョウの同名ベストセラー小説を、稲垣吾郎新垣結衣の共演で映画化。「あゝ、荒野」の監督・岸善幸と脚本家・港岳彦が再タッグを組み、家庭環境、性的指向、容姿などさまざまな“選べない”背景を持つ人々の人生が、ある事件をきっかけに交差する姿を描く。

横浜に暮らす検事の寺井啓喜は、不登校になった息子の教育方針をめぐり妻と衝突を繰り返している。広島のショッピングモールで契約社員として働きながら実家で代わり映えのない日々を過ごす桐生夏月は、中学の時に転校していった佐々木佳道が地元に戻ってきたことを知る。大学のダンスサークルに所属する諸橋大也は準ミスターに選ばれるほどの容姿だが、心を誰にも開かずにいる。学園祭実行委員としてダイバーシティフェスを企画した神戸八重子は、大也のダンスサークルに出演を依頼する。

 

2024年、劇場で見た最初の映画。

ほつれなく最後まで集中してみることができた。とりわけ新垣結衣の存在感が大きかった。この女優の新しい面が見えてよかった。

一般的には理解されにくい独特の性的指向への差別的な視線を逸らさずにしっかり描いていると思う。

原作の緻密な構成と表現を、岸善幸・港岳彦の脚本が丁寧に映像に翻訳した印象。読む愉しさとみる愉しさの両方が味わえる。原作へのオマージュを感じる佳作。

                         

 

(2)『レザボアドッグス』(1991年/アメリカ/100分/原題Reservoir Dogs

   監督:クエンティン・タ ランティーノ/出演:ハーベイ・カイテル/2024年1月5

   日/公開 デジタルリマスター版) ⭐️⭐️⭐️

 

クエンティン・タランティーノの監督第1作で、宝石店強盗計画に失敗した男たちがたどる運命を、独特の語り口で緊迫感たっぷりに描いたクライムドラマ。

宝石店を襲撃するため寄せ集められた黒スーツ姿の6人の男たち。彼らは互いの素性を知らず、それぞれ「色」をコードネームにして呼び合う。計画は完璧なはずだったが、現場には何故か大勢の警官が待ち伏せており、激しい銃撃戦となってしまう。命からがら集合場所の倉庫にたどり着いた男たちは、メンバーの中に裏切り者がいると考え、互いへの不信感を募らせていく。

キャストには本作の制作にも尽力したハーベイ・カイテルをはじめ、ティム・ロススティーブ・ブシェーミマイケル・マドセンら個性豊かな顔ぶれが揃った。2024年1月、デジタルリマスター版でリバイバル公開。(映画.com)

 

ネットでの評判も良かったが、今ひとつ。凝っていることはわかるが、成功しているとは言い難い。ちょっと残念。

 

(3)『緑の夜』(2023年/中国/92分/原題Green Night 監督:ハン・シュアイ/

   出演:ファン・ビンビン イ・ジュヨン/2024年1月19日公開 ⭐️⭐️

人生を懸けた危険な冒険に挑む2人の女の運命を、「X-MEN:フューチャー&パスト」などハリウッド作品でも活躍する中国の人気俳優ファン・ビンビンの主演で描いたドラマ。

苦難に満ちた過去から逃れるために中国を離れ、韓国で抑圧された生活を送るジン・シャ。保安検査場での仕事中にミステリアスなオーラを放つ緑色の髪の女と知り合った彼女は、その出会いを本能的に危険だと感じながらも、ふとしたことから危険で非合法な闇の世界へと足を踏み入れていく。

自由のため大きな賭けに出るジン・シャをファン・ビンビン、緑色の髪の女を「ベイビー・ブローカー」のイ・ジュヨンが演じる。監督は、長編デビュー作「Summer Blur」で世界的に高く評価されたハン・シュアイ。(映画.com)

 

コマーシャルも多く、前評判も高かったので封切りを見にいく。期待はずれ。ファン・ビンビンイ・ジュヨンも輝きが感じられない。最後まで、何かあるのか?と期待したが、何もない。ストーリーが凡庸で、惰性に流れている。

 

(4)『弟は僕のヒーロー』(2019年/イタリア・スペイン合作/102分/Mio    fratello rincorre i dinosauri(私の弟は恐竜を追いかけます):原作/ジャコ

   モ・マツアリオーニ/監督:ステファノ・チパーニ/出演:アレッサンドロ・ガス

   マザベラ・ラゴネーゼ/2024年1月12日公開⭐️⭐️⭐️⭐️

 

 

イタリアで暮らす高校生ジャコモ・マッツァリオールがダウン症の弟ジョーを主人公に据えて一緒に撮影した5分間のYouTube動画「ザ・シンプル・インタビュー」から生まれたベストセラー小説を映画化。

初めての弟の誕生を喜ぶ5歳の少年ジャックは、両親から弟ジョーは「特別」な子だと聞かされる。ジョーがスーパーヒーローだと信じるジャックだったが、やがて「特別」の意味を知り、思春期になると弟の存在を隠すように。ある日、好きな子を前についた嘘が、家族や友だち、さらには町全体をも巻き込んで大騒動へと発展してしまう。

「僕らをつなぐもの」のフランチェスコ・ゲギが主人公ジャック、実際にダウン症でもあるロレンツォ・シストが弟ジョーを演じ、「盗まれたカラヴァッジョ」のアレッサンドロ・ガスマン、「パラレル・マザーズ」のロッシ・デ・パルマが共演。本作が初長編となるステファノ・チパーニが監督を務め、「人生、ここにあり!」のファビオ・ボニファッチが脚色を手がけた。(映画.com)

 

弟を通して兄の思春期が描かれる。愛情も痛みも思春期ではより突き刺さる角度が先鋭だ。大人ではなく、親友と思われる友人との気持ちのずれが、見る側をはとさせる。兄の一つの嘘が町を巻き込んだ大騒動になるが、現代的で面白い。弟役のロレンツオ・シストのやわらかい演技が見もの。親が子どもの障害を見る目、イタリアと日本とではかなり違う。周囲との関係を理念よりも合理性を全面に出して広がりのあるものにしていこうとしているのが新鮮。

 

 

 

 

 

 

 

 

友人が住む穴水町、全壊、半壊1000世帯超、死者16名。

1月はブログに気持ちが向かなかった。

能登地震、羽田の事故と続いて始まった2024年。

それまで、ジャニーズ、日大、宝塚、パレスチナが授業の初めのトピックス交換の定番だったが、能登地震がそこに加わった。

学生の中に東北で育った人も何人かいて、彼らが能登について触れる口吻は、他の学生とは少し違っていたのが印象的だった。彼らはいちように、何かを思い出すように確かめるように話す。

震災の時、彼らは小学校4年生か5年生、生々しい記憶として残っているようだ。その分、能登のことを我が事のように感じているのが伝わってくる。

 

古い友人が穴水町で被災したことを知った。横浜・港北で義捐金を募っているというので、そこへ便乗、わずかだが協力した。

もともと組合にいた方だが、3年ほどしか在籍しなかったから知っている人は少ない。

それでも呼びかけてみると、何人かが応じてくれた。ありがたいことだ。

 

その方、家は全壊、避難所で暮らしていたが、事情があって続けられず、金沢に住まいを借りて生活をしているという。HPを見ると、長年、地域での活動を続けて来られた。拠点となる建物も新築したのに、それも壊れてしまったとのこと。

町全体では、全壊、半壊が1000棟(1月10日)、死者16名。2月1日段階で水道復旧は37%だとか。3000世帯を超えるくらいの規模だから、大変な被害だ。

彼女は私より2、3歳上の方。高齢者ほど時間が経ってからのショックが大きいことは想像できる。生物学的にも環境への馴化が難しいし、気持ちの面でも「先」を考えにくい。察するに気の毒である。

 

私たちとて何ができるわけではないが、継続して支援できたらと思っている。

これ、境川に映った雲。こんなに水面が動かないのも珍しい。

 

 

 

 

「小澤征爾さん、死去」

夜明け前、いつものように玄関のドアを開けて朝刊をとった。

いつも一面のタイトルだけ見る。

小澤征爾さん 死去」。驚きはするが、すぐに「長い間ご苦労様でした」とひとりごちる。88歳。心不全。心臓が動くのをやめた。自然なことなのだと思う。

誰もが迎える時間。テレビは巷の惜しむ声を取り上げているが・・・。

ボストン交響楽団の追悼演奏が放送される。

バッハの「G線上のアリア」。なんという指揮者か知らないが、若い女性の指揮者。

 

記憶は朧ろなのだが、若い頃、何度かナマを聴きに足を運んだ。

はっきりと覚えているのは、東京カテドラル大聖堂で聴いたヴェートーヴェンの第九。

会場がコンサートホールでなかったから覚えているのだろう。

 

朝食の準備をしながらすぐに聴きたくなったのが、チャイコフスキーの「弦楽のためのセレナーデ」。 YouTubeを検索する。

食道癌から復帰してすぐにサイトウ・キネン・オーケストラを振ったものがすぐに見つかる。

すごい演奏だ。感情の爆発。力のたぎる演奏。だが、冷静。「枯れた」という印象は全くない。スケールも大きいし、なんとも艶のある演奏だと思う。

 

もう一つは、ずっと若い頃、同じサイトウ・キネン・オーケストラを振ったもの。髪の色が黒い。画質も悪い。50代だろうか。こちらももちろんスケール感もあるが、どちらかと言えば端正、だろうか。

 

どっちが好きかと聞かれれば、歳を重ね病気を克服したあとの演奏の方だ。

同じ曲でも、時期によって大きく違うことに驚かされる。

 

たくさんの音源を残してくれたことに感謝。

 

沢村貞子『老いの道づれ』(1995年 岩波書店)で、山田太一に出会った。

雪の重みで折れた近所のミモザの木、裂かれた枝が無惨だったが、今朝は片付けられていた。樹影は3分の2ほどに。

ひとり散歩。Mさん、昨日から不調。風邪のようだ。

 

出かける予定を変更。先日、本を整理中の友人K氏からもらった『老いの道づれ』(沢村貞子 1995年 岩波書店)を読む。30年前の本だが面白かった。明治生まれの男女の再婚、”赤い女優”と呼ばれた沢村の戦後の映画界での独特の位置。つい読み耽った。つれあいの大橋恭彦の話も面白かった。

映画批評からテレビ批評に転じた大橋の、雑誌『映画芸術』や通信社をめぐる奮闘、暗闘も興味深かったが、それ以上に沢村が大橋が書いた山田太一の『ふぞろいの林檎たち』や『男たちの旅路』の批評をかなり長く引用していて面白かった。

男たちの旅路」の中の斉藤とも子が車椅子の娘を演じた「車輪の一歩」に対して、

大橋が山田を絶賛。

「今日まで多くのプロデューサーたちが、タブー視し目をそらしてきた身障者の問題に、真っ向から取り組んだ優れてテレビ的な発想の意欲作であった」(テレビ注文帖)と冒頭で述べたあと、大橋は脚本をもとにこのドラマの流れを忠実に再現している。大橋が見たように主観的な再現なのだが、これが実にいい。

放送は1979年、養護学校が義務化された年だ。それまで就学免除・猶予されていた障がい者の就学が義務化された年だ。

義務化されることによって、新たな選別と排除が引き起こされることから長い反対運動が続いた。私もささやかだがその運動に関わったし、現場でも共に育つ取り組みを続けてきた。

そんな時代に山田は、主演の鶴田浩二演じる吉岡にこう語らせる。

「電車に乗るのに、誰かの手を借りなければホームにも上がれないのなら、手を貸してもらえばいいじゃないか。嫌がらせの迷惑はいけないが、ギリギリいっぱいの厄介はかけてもいいんじゃないだろうか。君は、そんな横着な気持ちで行動したら、世間の人は思い上がるな、というに違いない、と早くも取り越し苦労をしているが、世間に通用しようが、しまいが、それを通用させるのさ。そのうち世間の君たちへの対応の仕方が、きっと違ってくるとおもう。なにげなく手を貸してくれるようになるとおもう。どうだ、胸を張って堂々と他人(ひと)に迷惑をかけることをおそれない青年になろうじゃないか」

当時の青い芝の会の発想に近い。台本からの引き写しだが、大橋は長い引用をやめない。少し口を挟むだけ。

「吉岡の大胆な発言に、はじめはついていけない若者たちも、会うたびに彼の心情に打たれ、説得されてゆく。その経過が見ていて楽しかった。さわやかでもあった」。

続けて斉藤とも子演じる車椅子ユーザーの娘良子の母親のセリフを引用。

「もう世間なぞ信用していない。私にそういう決心をさせたのは世間なのだ、外へ出ないから勇気がないとか、そんな十把ひとからげな言い方をしてもらいたくない」

娘は「母の言うことには逆らえない」と口を挟む。

ここで吉岡(鶴田浩二)のセリフ。山田節だ。

「お母さんにさからえ、とは言っていない。お母さんは君が可愛いから、これ以上傷つけたくないと思っていらっしゃる。傷付けるのがこわいんだろう。

君は一歩も外へ出られないほど、ひどい身体だろうか。そのことを君は自分で判断しなければいけないんじゃないのか。このまま、お母さんの言いなりになっていたら、いつか、きっと君はお母さんを恨むようになるだろう。みんなが君を待っている。自分の大事な一生じゃないか」

特攻の生き残りとして、自分の人生を見つめてきた吉岡の言葉。山田は自分の思いを吉岡に語らせている。

 

最後のシーンで、私鉄の駅で改札口に通じる階段下、良子は周囲に

「誰か、誰か、あたしを上まであげてください」「どなたかあたしを上まであげてください」と呼びかける。近くを通りかかった人が二人がかりで駅構内まで連れて行ってくれる。

大橋は、

「駅前の自転車置き場の前で良子の母が泣いていた。無言で立ち尽くしている吉岡司令補の大写しで、ドラマは終わった」

と締めくくる。ややできすぎた感のあるラストシーンだが、大橋は感動している。

 

このドラマには、車椅子ユーザーの若者が

「おふくろにいっぺんでいいから、トルコに行ってみたいと頼んだことがある。どうせ、女の子にもてっこないし、嫁さんがくるとも思えないし。いっぺんでいいから、女の子と付き合ってみたいんだ。一生、女なんて縁がないかもしれないからね」と回想するシーンも紹介されている。

隣りの部屋で黙って聞いていた父が「四万ほどやっとけ。いいか、チップなんかケチるんじゃねェぞ」と怒鳴るような調子で言った。おふくろも「行っといで、いいから言っといで」と言ってくれた。明くる日の晩、おふくとに新しい下着を着せてもらって出かけた。

 

しかし車椅子はダメだとと言われ、彼はそのまま帰ってきた。そのことを両親には言えない。

「行ってよかった、よかったよ母さん」とニコニコしてみせた。奥にいた父に「そうか、よかった」と言われたトタン、俺は泣き出してしまった。こんなこと、なみの親子じゃないよね。オレたちは普通の人とは違う人生を歩いているんだね」

 

障がい者の社会との関わり、あたりまえに支援を乞うことはもとより、多くの人にとって避けられぬ問題である性について、今でも触れられにくい問題だが、40数年前に山田は、障がい者自身の自己決定や主体性という視点からこれらの問題に切り込んでいる。

ふぞろいの林檎たち』もそうだが、山田はマイノリティへの眼差しをいつも携えているが、その位置関係が独特だ。マイノリティの心情に深く入り込んでいるからこそ、そこから紡ぎ出されるセリフはラディカルで鋭く突き刺さってくる。

大橋はそれをしっかりと受け止め、沢村も同じ思いで長く引用する。

 

明治生まれの稀有な夫婦の人生が詰め込まれた良書である。

 

 

「会うのって中学(を卒業してからだから5年)ぶりだよね」

 

週に一度の「旗持ち」のあと二日ぶりの散歩に出かけた。

 

*「旗持ち」という言葉、一年前に初めて耳にした。小学生の通学の安全を守るため地域の人が横断歩道などに交通安全の黄色い旗を持って立つことを指すのだそうだ。

近くの(と言っても20分はかかるが)上瀬谷小の校外委員の方がMさんの知り合いにおられて、旗持ちの人手がないのでお願いできないかと頼まれた。

週に一度ならと二人で引き受けて11ヶ月目。黄色い帽子に黄色いベスト、黄色い旗を持って「おはようございま〜す!いってらっしゃい!」とやっている。時間的には集合から解散まで20分程度。まれにあいさつを返してくれる小学生もいるが、多くはうつむき加減で無表情。下校時にはたぶんもう少し元気な表情をしているのではないか。

 

*最近、〇〇ぶりという言い方の〇〇のところに「久し」とか「一年」とか「1か月」という時間の長さを表す言葉ではなく、「中学」とか「コンビニ」とか「カラオケ」などの普通名詞が入る言い方が気になる。若い人たちの言い方だ。先日みた映画『朝が来るとむなしくなる』でも唐田えりかが使っていた。ネットを見ると2013年年の質問コーナーにあるから10年以上使われているのだろう。若者特有の省略表現か。

  「会うのって中学(を卒業してからだから5年)ぶりだよね」

 

 

いつものこの時期、楽しみにしているミモザの開花。3月には鮮やかな黄色になる。今は少しずつ色が変わり始めている時期。

マンションのエントランスを出てすぐのところにあるそのミモザの木が、真ん中からバッサリと折れていた。雪の影響のようだ。なんだか無惨な感じがして気の毒に思えてしまう。

 

この間の雪で、丹沢がようやく雪化粧。滅多に上がらない8階まで上がり、写真を撮ってみた。

 


今朝は曇天、丹沢山塊、ぼんやりしている。昨朝は青と白のコントラストが鮮やかだった。

 

 



 

横浜で雪が降ると・・・。

5日、降雪は夕方からという予報、何も考えずに傘を持たずに本厚木kikiへ。

 

『ファースト カウ』を見終わったのが13時40分。食事をしようと外へ出ると、雪。

近くの日高屋で食事をしながらMさんのLINEを見ると、雪が積もった庭の写真。こっちよりもかなり多い。

楽しみにしていた2本目の韓国映画『宝くじの不時着』、ポイントで買ったチケットをを諦め、帰宅することに。

小田急線はスムースに動いている。

海老名で乗り換え相鉄線瀬谷駅から本数の少ないマーク行きのバスに間に合う


電車を降りると、雪の勢いが増している。マーク行きは長蛇の列。

雪のために早めに放課となった瀬谷中の生徒も多く、車内はすし詰め。

定時に発車して、徐行運転。あと5分ほどというところで、Mさんに傘を持ってきてとメール。

その直後、16号線に入る数100m前でバスが動かなくなる。

東名高速保土ヶ谷バイパスが閉鎖、のため渋滞が発生と運転手のアナウンス。

保土ヶ谷バイパスに入れないクルマが16号線、八王子街道に車が集中しているようだ。

バスが動かないから家に戻ってとMさんにメール。

20分ほどして、アナウンス「次のバス停までまだ時間がかかるので降りる方はどうぞ」

ほとんどの乗客が降りてしまう。残ったのは3人。

16号線に出れば、下り線をわずか200mほど走れば終点マーク、しかしその16号線に出られない。信号は何度も変わるのだが。上り車線が大渋滞しているからだ。バスは左折したいが、右折するクルマが16号線に入れないため、スイスイ流れている下り車線に入れない。

40分ほど待って、このままでは埒が開かないと、降ろしてもらうことに。若い運転手に激励の声をかけて下車。

降りると激しい吹雪!。映画のチラシをかざしながら5分ほど歩いて終点マーク到着。ファミリーマートの前でMさんが待っていてくれる。店の中にいるのも限界だったとか。申し訳ない。

 

バスに乗ってから1時間20分ほど経っている。いつもなら20分ほどのところ。

 

雪は夜になっても降り続けた。

隠居生活、始まる。

先日、授業が終わった。

2016年から8年間、下高井戸の文理学部に通った。いや、2020〜21年の2年間は自分の部屋から授業をしたから通ったのは6年間か。

 

公立の中学校には着任式や離・退任式というのがある。そこでは教員一人ひとりが、職員や生徒の前でひとこと挨拶をするのが習いだ。

新卒でも定年退職者でも、また正規職員でも非正規職員でも、差はなかった。最近では雇用形態によって扱いが変わってきているという話も耳にするが。

 

学校は「式」が大好きで、生徒が集まる行事にはなんでも〇〇式とつけたがる。明治以来の格式ばった「公」の表れで、卒業証書「授与」式のように、たいていが上から目線。「登校」もそうか。

 

学校はそういうところだと思っていたのだが、大学は違った。

8年前の最初の授業の日、どこかに顔を出せという指示もなし、もちろん誰かが挨拶に来るわけでもない。紹介してくれた教授の部屋に行くには行ったが、お茶を飲んだだけ。

誰が私を管理しているか、8年間、結局わからなかった。

 

事務棟の2階に講師室という大部屋がある。職員証をそこに置いてある機械にかざして出勤となる。

同じ2階のエレベーターホールの前に重厚な磨りガラスでできた両開きの自動ドアがある。エレベーターを降りた時、たまに中の様子が窺えたことがあった。

驚いたのは床が赤い絨毯敷き。外と中ではずいぶんと雰囲気が違う。正面に受付。若い女性職員が坐っている。想像するにここは学部長などの上級管理職の部屋があるようだ。非常勤講師400人ほどが利用する大部屋とは大変な格差、トイレも別にあるらしい。

ところが学内の配置図を見ても、事務棟2階には庶務部と講師室の記載しかない。構造的にかなり広さを占めているはずの管理職スペースの存在が秘匿されているのは、どういう理由によるものなのか。

私には、この間の一連の日大問題に通底するものがあると感じられた。権威主義と閉鎖性からくる狭隘な組織実態。

同じようなものを見たことがある。

横浜市の新市庁舎だ。以前にも書いたが、閉鎖的という言葉がぴったりのこの庁舎。

市民は職員の執務室に面倒な手続きなしでは入れないし、自由に出入りできる展望フロアもない。さらには、案内図の中には市長室が記載されていないのだ。

同じ発想?

かたや学校、かたや行政、建物のありようからの勝手な思い込み・・・だろうか。

 

さて、最後の日。普通に授業をして、講師室に戻り、二人いる職員に「おせわになりました」と声をかける。すると驚いた表情で、「お疲れ様でした」。

 

8年間、連絡のほとんどは、郵便とメール。提出書類は郵便で返送するが、シラバスや成績はパソコン上でのやりとり。

成績と言っても、「提出」というアイコンをポチッとするだけ。提出の実感がなく、最初はなんとも心もとなかった。

実際に顔を合わせてやりとりをしたのは、1度だけ。オンラインの設定がうまくいかず、学科所属の助教の方に直接会って教えを乞うた。

メールのやり取りが多かったのも、著書の交換をしたのもこの方だけ。

 

そんなわけで驚くのも当たり前で、二人の職員が私を認識しているとは思えない。

 

今、最後の授業資料「番外編」を作っている。完成すればブラックボードというネット上の学習管理システムに送るだけ。

このBbには随分お世話になった。

はじめの4年間は、学生から提出された手書きの課題をいちいちパソコンで打ち直し、講師室で印刷、帳合して配っていたのだが、オンライン授業以降はメールで提出してもらい、それをコピペして資料としてまとめた。字体や字の大きさ、校正など面倒だったが、一人一人の文章がじっくり読めるのが楽しかった。

 

レポートはペンネームを付して提出してもらい、そのまま掲載。学科の違う学生同士、互いがどんなふうに考えているのかが、よくわかったようだ。毎回20ページほどにもなるので、学生は閉口したと思うが、こちらの記録には役に立った。

 

といったわけで、これからこうした授業の内外に要した時間がすべていらなくなる。

いよいよ隠居、である。

 

カワセミの姿はスマホではなかなか捉えられないのだが。コイも一緒に写り込んでいる。