佐木隆三『身分帳』を読む

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4月16日 庭のモッコウバラの接写

今朝も10℃。歩き始めは肌寒く、手が冷たい。

早瀬とか早淵という言葉があるが、よどみというのか淵というのか、そんなところにサギ、アオサギ、カワウ、カモ、セキレイが集まっているが、みな互いに無関心。カワウだけが無心に潜っては顔を出しして、えさを漁っている。

 

西川美和監督の映画『素晴らしき世界』の原作となった佐木隆三の『身分帳』を読んだ。

原作と言っても、『素晴らしき世界』とは別物だなと思った。

 

「身分帳」とは、収容者の家族関係や経歴、犯歴、入所中の態度や行動、賞罰などが記載されている書類のこと。一般に本人には渡らないもののようだが、小説の主人公山川一は刑務所内での看守の暴行に対して訴えを起こしており、その書証として裁判所に提出されたので本人の手元にも残ったという。

 

佐木隆三の小説はきわめてたんたんと、山川一の身辺に起きた多くの出来事をトレースしていく。過度な思い入れや表現がない分、人物造型の奥行きが深く、大変に難しい人物として山川を浮かび上がらせている。

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1993年文庫版の新装版(2020年7月)

 

いくつかのエピソードは映画でも使われているが、役所広司が演じる山川はこだわりが強くかっとなりやすい半面、情も厚いといった人物で、役所の醸し出す雰囲気には、それほど「難しい人物」という印象はない。

13年にも及ぶ刑務所生活から娑婆に放り出され、あちこちにアタマをぶつけながら、結局うまくなじめず、からだを壊して亡くなっていく、いわば「生き方下手」な男として描かれているが、小説『身分帳』の中の山川は、そこにとどまらない、というよりそこよりもはるかに奥深いほの暗さをかかえた人物として描かれている。

 

佐木隆三は、この1冊の中に「行路病死人-小説『身分帳』補遺」を書いて、山川(実名:田村明義)とのかかわりに事実を明かしている。ここではさらに、抱えてもなおそこから大きくこぼれてしまうような田村(山川)の難しさが伝わってくる。

補遺としているが、『身分帳』とあわせてひとつの作品である。

「自分のことを小説にしてほしい」というところから始まった田村との付き合いは、最後は「喪主」となって送るまで続くのだが、佐木にとってのそれは「小説を書く」というより抱えてしまった難しい人物との格闘のようなものだったかに見える。

 

山川の難しさとは何か。一言で言ってしまえばアイデンティティーの欠落といったことになるのだろうか。どこまで行っても母親を追い求めてしまう山川は、拠って立つところの地盤の緩さにいつも戸惑っていたのではないか。過度な几帳面さ、過度な正義感、対人関係のつくり方のぎこちなさなどがそこにつながっているように感じた。

 

 

映画『素晴らしき世界』がつくられ公開されることで、絶版になっていた『身分帳』が新たに日の目を見た。それだけでも映画がつくられた意義があるというものだ。

 

若いころ、好んで読んだと言っても、実際に読んだのは膨大な佐木隆三の作品の一部でしかない。

印象の強い作品として、『復讐するは我にあり『慟哭 小説・林郁夫裁判』『宮崎勤裁判』(上・下)『悪女の涙福田和子の15年』『ドキュメント狭山事件』などがあるが、『身分帳』もそれらに並ぶ作品だと思った。

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新装版に映画用のカバーをまいた文庫

 

『私の叔父さん』絶妙な佳品。 『春江水暖』実在する家族のドキュメンタリー見ているよう。 『記憶の技法』タイトルに惹かれてしまった。

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14日(火)

久しぶりの映画へ。時間がかかっても、にぎやかな横浜近辺に足を向けたくない。

そうすると、駅前の109シネマズか小田急沿線の新百合ヶ丘か本厚木のkikiということになる。

 

kikiから毎月送られて来るラインアップを見ながら、考えあぐねる。

イラン映画を2本続けてみるか、それとも邦画、中国映画、デンマーク映画と3本はしごするか。

 

イラン映画も捨てがたいが、今日は後者に決定。本厚木に行く方法は3つ。バスで小田急鶴間駅、バスで東急田園都市線南町田グランベリーパーク駅、バスで相模鉄道瀬谷駅。歩けるのは南町田。 

 

瀬谷駅に出てみることにする。

瀬谷区民ではあるが、北の一番はずれ、100㍍も歩かずに町田市と大和市というところに住んでいるので、瀬谷区の中心、瀬谷駅三ツ境駅に出ることはほとんどない。区役所か図書館に用事があるときぐらいだ。

 

歩いて10分くらいのところに八幡神社前というバス停があって、ここを通る鶴間駅瀬谷駅のバスは1時間に多いときで7本、本数が多い。マークスプリングスー瀬谷駅の直通は朝と夕方は1時間に4本ほどあるが、日中はほぼ消えてしまう。

 

しかしうまくつながればこの直通瀬谷駅が一番近い。

 

8時08分発のバスに乗り、本厚木9時前。かなり早い。

歩いて5分でkiki.

ビルの9階。眺望の素晴らしい映画館。晴れていると大山・丹沢の山並みが近くに見える。

チケットを3枚買ってしまう。1席空きの販売だが満席になることはまずないのだが、今日は火曜日。ポイント2倍の日。7ポイントで招待券。

いつもはこの時間閑散としているのに、すこしにぎわっている。

 

1本目。

『記憶の技法』(2020年/105分/日本/監督:池田千尋/出演:石井杏奈・栗原五郎/2020年11月27日公開)

 

監督の池田千尋の映画は今まで一本だけ見たことがある。クリーピー偽りの隣人』(2016年)のみ。ホラーの原作を読んで見に行ったのだが、はずれだった。ホラーになっていなかった。今回はついタイトルに惹かれて選んでしまった。先は見えてるのにリズムが合わないというか、もたもたと感じてしまってつまらなかった。石井杏奈という役者も今一つ。栗原五郎は雰囲気があった。

 

食事をして2本目。

『春江水暖』(2019年/150分/中国/原題:春江水暖 Dwelling in the Fuchun Mountains(富春山居図)/監督:グー・シャオガン/日本公開2021年2月)

 

大河・富春江が流れる街・富陽の美しい自然を背景に、変わりゆく中国社会の中で懸命に生きる大家族の四季を描いた人間ドラマ。中国のグー・シャオガン監督の長編デビュー作で、2019年・第72回カンヌ国際映画祭批評家週間のクロージング作品に選ばれた。再開発のただ中にある杭州市の富陽地区。顧家の家長である年老いた母の誕生日を祝うため、4人の息子や親戚たちが集まる。しかし祝宴の最中に母が脳卒中で倒れ、命は取り留めたものの認知症が進み、介護が必要になってしまう。飲食店を営む長男、漁師の次男、ダウン症の息子を男手ひとつで育てる三男、気ままな独身生活を楽しむ四男ら、息子たちは思いがけず、それぞれの人生に直面することになる。日本でも2019年・第20回東京フィルメックスコンペティション部門で審査員特別賞を受賞。

 

食事のあとだったせいか、それとも独特の淡い画面のせいか、最初の20分ほど気を失っていた。

あらすじ通りの映画。

日本とは違う家族の風習、考え方、人間関係の濃厚さが物語の底にあって、しかし時代に合わせて変化せざるを得ない家族間の親密さと酷薄さ。差し込まれる再開発で変わり始める富陽地区の変化と重ね合わさりながら、慌てずにじっくりと描かれている。

 

つくりものなのに、感情表現がナマというかリアルでストレートなので、ついどこかに実在している家族のドキュメンタリーを見ているような気分にさせられた。人物造形がに優れているというか、並々ならぬ存在感、リアリティ。

150分。はじめは寝てしまったけれど、長いとは感じなかった。

 

3本目はデンマーク映画

『私の叔父さん』(2019年/110分/デンマーク/原題:Onkel/監督:フラレ・ピーターゼン/出演:イェデ・スナゴ― ペーダ・ハンセン・テューセン/日本公開2021年1月29日)

 

 傑作だと思う。

セリフが極端に少ない。最初のセリフが出るまで10数分かかったか。音楽も、ほとんどはいらない。半分過ぎてから思い出したように、しかし絶妙のタイミングで入る。そしてまた消える。エンドロールのも音楽はない。画面全体がやや薄暗いのは照明を使わずに自然光で撮っているからだろう。それと自然の風景を撮るときの明度が同じで、はっとするほど美しい。登場人物はほぼ4人。叔父と姪のかわす自然なほほえみ、ユーモアがグッとくる。

日常生活ってこういうものかな。

こんなふうに思いの強さを表現する映画はあまり見たことがない。

あらすじもラストひとつ前の衝撃的なシーンも何も書かない。

これぞ映画なんて言うつもりはないけど、そっとさし出された佳品。

ぜひ見てください。

原題のOnkelは、叔父さんのこと。英語のUncle、発音は何度聞いても再現できない。

 

汚染水・コロナ・教師のバトン

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mo

Mさんの手づくりマスク各種


今朝、横浜のはずれは9℃。東京は6℃。

肌寒いけれど、昨日の雨も上がってさわやかな朝だ。

 

歩いていると花々が目に入る。知っているものを挙げてみると、サツキ、ハナミズキモッコウバラツツジ・・・。藤の花の鉢を並べているおたくも。

 

集団登校する子どもたちの長蛇の列とすれ違う。

Mさん「子どもたちってこんなつまらない顔して学校に行ってたって?」

一本道のせいか、話し声も聞こえない。皆うつむき加減。勝手に走り出す子もいない。歩道が狭いから2列並ぶのが精いっぱい。

辻々には保護者の姿。おとなのおおきなあいさつの声が響く。子どもたちは「ううっ」とうめくようなあいさつ。気持ちはわかる。 起きたばかり、まだ眠いのかもしれない。

集団下校はない。午後3時ごろすれ違う子どもたちは、結構バラバラ。走り出す子もいるし、お喋りに夢中になっているグループなどさまざま。きのうは、体操着の袋?をけりながら歩いている女の子をクルマのなっから目撃した。

 

汚染水の海洋放出が閣議決定されたという。もう仕方がないだろうという雰囲気づくり。理屈や逃げ道もちゃんとつくっておいての仕儀だ。

方法は十分に検討した、もうこれしかない、時間がないんだ、大丈夫安全だ・・・。

信じられない。

10年、汚染水を集め続け、廃炉に何十年かかるかもわかららない代物だ。10年かかって実害も風評被害も跳ね返してきた漁業者たちの声を無視しての見切り発車はおかしい。きちんと話し合いをして了承を得てからやるという約束があったはずだ。

 

薄めれば無害化できる、中国も韓国もやっている・・・・。政治的とはいえ、その中国も韓国も反発している。中間貯蔵施設はどうなった?これもぎりぎりまでもっていく算段か。

 

ならば、東京湾相模湾に放出すればいい。菅を先頭に皆でそろって海水浴、とれた魚もしっかり食べてほしい。

 

かつて東京に原発を、という提起があった。同じことだ。

 

トリチウムゆるキャラ

いつも自分だけは別、自分だけは安全なところにいるからそういうふうに発想してしまう官僚たち。

 

原子力緊急事態宣言は解除されていない。

 

 

コロナも同じ。

神奈川も蔓延防止重点策を要請。じわじわとすでに第4波が来ている。

緊急事態宣言とまんぼうはどこが違うのか。口が裂けても緊急事態宣言とは言えない。

 

だって聖火リレーを始めたいから緊急事態宣言を解除したのだから。

 

大阪では府立学校での部活動中止、大学でのオンラインの要請。

変異ウイルスの増加は目に見えているのに、あちこちでオリンピックまで「あと100日」のイベントが報じられる。

 

 

コロナがなくてもオリンピックはいらない。

 

みんな知っている。

GOTOの二の舞。アクセルとブレーキを同時に踏んでいる。

 

フクシマややまゆり園で聖火リレーを始めたり、採火式をやったり。

人の気持ちにこんなに想像力がはたらかない国だったか。

 

教師のバトンも同じ

走りだしてもバトンを渡す人がいない。

受け取る人もいない。

そもそもこのリレーに誰もエントリーしない。

 

2020年4月、 業務量の適切な管理等に関する指針の策定

2021年4月、 一年単位の変形労働時間制の適用(休日のまとめ取り等)

 

給特法改正の2つの目玉。目は開かない。

 

そこで出てきたのが教師のバトン。

 

2021年1月の中教審答申を読んでみるといい。

society5.0⇒GIGAスクール構想にただただ寄り掛かった「令和の日本型教育」

 

文科省だけが悪いのか、という識者がいる。彼に言わせると

現場が自分で考えようとしないのが問題だ、と。

考え違い。

みな人のせいにしないでそれぞれの場所で知恵を出し合って頑張ろうよ。

違うと思う。権力構造は見えない忖度の集積だ。

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蕎澤のそばがき

 

 

オンライン呑み会・『カポネ』そしてハクボシネマ

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境川河畔の枝垂れ八重桜


昨夜、2時間ほどのオンライン呑み会。

定年退職してちょうど7年が経つ。最後に勤めた職場の人たちとのオンライン。

福岡、徳島、香川(福井)。いったん横浜の学校に就職して、数年たって地元の教員採用試験に合格して戻った人たちが多い。

横浜にいた時は首都圏の話し方をしていた人たちが、地元の言葉で自然に話している。こんなに味のある言葉をもっていたのかとちょっと感動する。

 

呑み会と言っても飲んでいるのは私ともう一人だけ。あとの人はお茶やノンアルビール。

シルバーの夕方は夕食を食べるだけだが、若い人たちは小さな子どもたちがいていろいろと忙しい。

なかなかつながらないと言って電話で参加するシルバーも。

 

仕切りがいないからそれぞれ自由にしゃべる。6~7人だとミュートをかけなくてもハウリングは起きない。がやがや感はしっかりある。

互いの近況を話すうちに仕事の話に。

部活、どうなってる?マスクももうあんまりつけていないし、普通にやってるよ。いやいや、こっちは週4日間しかできないし、朝練も中止しているよ。こっちも4日間だけど

大会やってるし、今日も行ってきたよ。

地域によって大きな違い。通勤距離40㌔という話もあった。

 

話しているうちに唐突に訪れる一斉沈黙。画面の中の顔を見渡す。いきおい話そうとすると、すぐかぶる。リアルなら起きないこのアウン感のなさ。

各地の幼児たちがその隙間を埋めてくれる。5歳くらいまでの幼児が5人参加。2歳のみゆちゃんが竹内まりあを歌ってくれた。

 

コロナでなくても、これだけ広範囲に住んでいる人たちが集まるのは簡単ではない。

日曜日の夜を家庭に設定したのは私。無理に付き合わせてしまったかもしれないが、楽しい時間だった。

 

備忘録。今日は映画。

『カポネ』(2020年/104分/アメリカ・カナダ合作/原題:Capone/監督:ジョン・トランク/主演:トム・ハーディ/日本公開・2021年2月26日)

・・・カポネの知られざる最晩年を新たな視点で描き出す。1940年代。長い服役生活を終えたカポネは、フロリダの大邸宅で家族や友人に囲まれながらひっそりと暮らしていた。かつてのカリスマ性はすっかり失われ、梅毒の影響による認知症が彼をむしばんでいる。一方、FBIのクロフォード捜査官はカポネが仮病を装っていると疑い、1000万ドルとも言われる隠し財産の所在を探るべく執拗な監視を続けていた。カポネの病状は悪化の一途をたどり、現実と悪夢の狭間で奇行を繰り返すようになっていく。

                      (映画ドットコムから)

 

手帳を見てみたら3月16日に『この世界に残されて』と一緒に見ている。『この世界に…』がしみいるようないい映画だったせいか、『カポネ』は薄っぺらくて面白みがなかった。

1977年生まれの人気俳優トム・ハーディがカポネの晩年の狂気をよく演じていると思うが、奇行の不気味さだけでそれ以上の情感のようなものが感じられない。

とりあえず最後まで見たが、最後の殺戮シーンもなんだかなあという感じ。

 

 

11年になるテレビを1月に新しくした。二人とも目も悪くなってきているのでなるべく大きいのがいいとかなり無理をして65インチのものにした。今までは42 インチだった。

今どきのテレビはインターネットに接続する。今まではスマホからHDMIでつないでみていたAmazonプライムビデオがふつうにみられる。無料のyoutubeもabemaTVもすぐにそのまま。

音声検索もあって「ジャズピアノを聴かせて」というとyoutubeがジャズピアノの演奏をランダムに選んでずっと流してくれる。テレビを見ていてなんだこれは?と思ったことは声に出して聞いてみる。ある程度のことは教えてくれる。番組のクイズに答えたのは初めて。知らない間にテレビも進化していた。

 

ただ、困った点が二つ。お金を惜しんでBLレコーダーにせずに外付けHDにしたこと。一つの番組を録画すると同じ時間のものが録画できない。

今まで使っていたものはテレビと一緒にMさんの部屋に移ったので、そちらでは多重に録画できるのだが。

 

もう一つはこのテレビ、時々いうことを聞かなくなること。

別売のサウンドバーというのをつけたのだが、ある時、音が出なくなった。販売店に持ち込み、ソニーに見てもらったら「問題なし」。

結局、原因はわからなかったが、届けてく設定してくれた配送の若者が「こういうのもできますね」とHDMIを使って接続したら、スピーカーのリモコンを使わなくてよくなった。HDMIは別売りだから最初の配送の若者はただふつうにテレビとスピーカーをつないだだけだったということ。瓢箪から駒

 

ある時、リモコンの電源は入るのだが、それ以外、全く応答しないということがあった。初期不良か?

いろいろ調べてみたら、ソニーのサポートで24時間、LINEで質問を受け付けるシステムがあるのに気がついた。

パソコンのサポートなどなかなか電話に出ないし、電話代がかかったりするが、これは症状を伝えると、文字ですぐに返ってくる。

機械ではないと思うのだが、とっても丁寧な対応。韓国か中国系の女性の名前で応答する。

「リモコンの電源以外、動かない」と入れたら、

「リモコンの電池を抜いて、電源ボタンを10秒押してください」

そんなんで直るのかと半信半疑でやってみたら、一発で復旧。

 

故障と言っても、これはテレビというよりパソコンのようなものかと納得。「再起動」とか「電源の抜き差し」などで解決する。部分的に壊れているというより、どこかで信号?が目詰まりを起こしていることのようだ。

 

昨年5月ごろから始めた夕方に映画を見るという習慣。「薄暮シネマ」と名付けたが、格段に見る楽しみが増えた。

ざっと挙げてみる・・・(勝手に五つ星)

夢売るふたり(2012年/137分/日本/出演:松たか子阿部サダヲ)★★★</p>

*松、阿部二人の達者な役者がそろうとつい引き込まれてしまう。

『はじまりへの旅』(2016年/119分/アメリカ/日本公開2017年)★★★☆

*70年代っぽい?こういう映画がアメリカでも見られて、日本にも輸出される。

グッドネイバー(2016年/98分/アメリカ/日本での劇場公開はなし。2017年にDVD発売)★★★☆

*最後までしっかり見た。日本で公開されてもそこそこ見られたのではないかと思うのだが。悪くない。

『嫌がらせのお弁当』(2019年/106分/日本/主演:篠原涼子)★★★☆

*話題作、暇つぶしのつもりでみたが、丁寧につくられていると思った。よかった。

『ベテラン』(2015年/123分/韓国/主演:ファン・ジョンミン/日本公開2015年)

★★★★

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韓国映画によくパターンだが、これは完成度が高くて引き込まれた。

『ロープ 戦場の生命線』(2015年製作/106分/スペイン/日本公開2018年)★★★☆

*こびないところがいい。
ヒトラーVSピカソ 奪われた名画のゆくえ』(2018年/97分/イタリア・フランス・ドイツ合作/日本公開2019年)★★★</p>

*すごい緊張感、徹底したリアリズム。ヒトラーものをつくり続ける欧州の映画界はすごいと思う。

『愚行録』(2017年/120分/日本/出演:妻夫木聡満島ひかり)★★☆

*原作を先に読んでいたので、これはちょっといまいちで…。

『罪の余白』(2015年/120分/日本/出演:内野聖陽)★★

*これも広がりがないというか、先が見えてつまらない。

『ろくでなし』(2017年/106分/日本/出演:大西信満)★☆

*まあ失敗作だろうなあ。

プラハモーツアルト(2016年/103分/チェコ・イギリス合作/原題:Interlude in Prague/日本公開2017年)★★★

*ストーリーのスケール感がない。音楽をもっと聞かせてほしい。
『ザ・ハント ナチスの狙われた男』(2017年/135分/ノルウェー)★★★☆

*迫力あり。最近のナチスを扱ったものでは出色だと思う。

『グランドファーザー悲しき復讐』(2016年/92分/韓国/出演:パク・クニョン)★★

*韓国のこれふうの映画そのもの。悪いとは思わないが・・・・。

『特捜部Qカルテ番号64』(2018年/100分/G/デンマーク・ドイツ合作/日本公開2019年)★★★☆

『特捜部Qキジ殺し』(2014年製作/119分/デンマーク・ドイツ・スウェーデン合作/出演:ニコライ・リー・カース/日本公開2016年)★★★☆

『特捜部QPからの伝言』(2016年製作/112分/デンマーク・ドイツ・スウェーデンノルウェー合作/日本公開2017年)★★★☆

*3作とも楽しめた。ニコライ・リー・カースの対人関係のダメさが映画を面白くしている。

『タロウのバカ』(2019年/119分/日本/出演:菅田将暉・仲野大賀・YOSHI)★★☆

*大森立嗣という監督は出来不出来の幅が大きい。これはええ加減な映画だが、YOSHIという俳優の面白さ、ちょっとびっくり。

『透明人間』(2020年製作/122分/PG12/アメリカ/エリザベス・モス・日本公開2020年)★★★☆</p>

*映像に深みは感じるが、そこまで。

 

『日本蒙昧前史』(磯崎憲一郎)『広島平和記念資料館は問いかける』(志賀賢治)

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自画像(笑)

影を撮るなんて。間違ってシャッターを押してしまう。消そうと思ったが、なんだかもったいないような気がしてとっておいた。

 

覚え書きなのに書いていないことのほうが多い。身辺雑記、見た映画、読んだ本、、気になった新聞記事・・・忘れていくばかりだ。

 

思いつくままに、忘れかかっていることを書いておこう。

 

『日本蒙昧前史』(磯崎憲一郎文芸春秋・245頁・2310円・2020年6月)図書館で借りて読んだ。

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おおかたは忘れたが、面白かった。1965年から1985年間に日本で起きた事件、大阪万博日航機事故、グリコ森永、バブル・・・特定の主人公はいないが、それらのはざまで生きていた田中角栄や横井正一、五つ子、太陽の塔の目玉男、川端康成・・・あの時代ってこういう時代だったのかと振り返る。

「我々は滅びゆく国に生きている、そしていつでも我々は、その渦中にあるときには何が起こっているかを知らず、過ぎ去った後になって初めてその出来事の意味を知る、ならば未来ではなく過去のどこかの一点に、じつはそのときこそが儚く短い歴史の、かりそめの頂点だったのかもしれない、奇跡のような閃光を放った瞬間も見つかるはずなのだ」

 

自分もあの時代に生きていたのだなと思い知らされ、あれ?自分は何者だったんだろうと考えてしまった。

 

広島平和記念資料館は問いかける』(志賀賢治・岩波新書・946円・2020年12月)

著者は元館長。1978年広島市役所に入職。2013年3月退職。同年4月、広島平和記念資料館館長に就任。2019年3月までつとめる。

 

資料館が現在のようなしっかりとした図録など持たずに、集まった遺品すらまともに保管されてこなかった歴史などよくわかるが、オバマ大統領の訪問や1950年代なかばにこの資料館で行われた原子力平和利用博覧会などについては深く触れておらず、まして全国から修学旅行に訪れる児童・生徒などにも触れていない。

さらっと読み終わるが、大事なことが抜けているという感覚が最後まで残った。

1954年に第五福竜丸被爆した直後、CIAと日本政府、読売新聞などが結託して開催した原子力平和利用博覧会は全国10か所、260万人の人を集めたが、その中心が広島平和記念資料館であったことは忘れてはならない事実だ。

76年のうちには、さまざまな政治的な動きに影響を受けるのは当たり前のことで、現在に至るまで原爆の惨禍を伝え続けている資料館の存在価値は大きな意義があるところだが、負の歴史もまた継承すべき。館内には確かオバマ大統領の折った折り紙が展示されているが、資料館は、オバマ大統領の式典への出席の姿、意義について歴上の出来事として正確に記録しておくべきだと思う。

長崎の資料館の名称が原爆資料館であるのに対し、広島は平和記念資料館。この違いは何なのか。平和教育、平和学習などと平和を冠することで見えなくなってしまうものがある。広島で見えなくなっているものとはなんだろう。

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『原発棄民に抗う』(村田弘 著) 横校労機関紙連載がまとめられる。復興五輪なんかいらない!

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庭のコデマリ


八重桜が満開である。

今朝の気温は8℃。花冷えとか寒の戻りということばがあるが、散歩のときに中に一枚着るかどうか悩む。

天気予報は晴れだったから、薄着のままでかけたのだが、すこし風があって肌寒かった。

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冊子を紹介したい。

原発棄民に抗う~折々の避難者レポート』作者は村田弘(ひろむ)さん。

村田さんは元朝日新聞記者。1942年生まれ。定年退職後、故郷の南相馬市小高区で農業を営む。2011年の原発事故で横浜に避難。「福島原発かながわ訴訟原告団」の団長。

 

横浜に避難していた村田さんに、ヒロシマ修学旅行に取り組む組合員が声をかけ、中学生に話をしてもらったのがきっかけとなり、横浜学校労組の機関紙「月刊横校労」(現在は隔月刊)への連載が始まる。

第1回は2015年5月号。連載は31回続き2019年に完結。この3月、「横校労叢書④」として冊子にまとめられた。

 

現在、県内外に避難を続けている人は、福島県の発表では36000人、各自治体発表では67000人超。いまだに調査方法がばらばらで実数がつかめていない。

 

閑散とした中、沿道だけはきれいに整備され、聖火リレーが始まった。スピーカから流れる大音量の企業のスポンサーの掛け声だけが荒れ果てた田畑に響きわたる光景は、醜悪というしかない。

 

10年間、故郷に帰れない人たちに「復興五輪」の声はどんなふうに響いているか。

汚染水は薄めて海洋投棄をするのだという。ウソと金で始めた東京オリンピック

日本の政治の汚染は薄めても薄まらないことを胸に刻んでおくことだ。

 

4年間の連載は、大変に貴重な資料であるだけでなく、避難者の痛切な肉声にあふれている。冊子は連載だけでなく、・平川執行委員長の「発刊に際して」・1月の横浜地裁判決への組合員のコメント ・村田さんによる連載番外編①② ・佐藤嘉幸、田口卓臣氏による村田さんへのインタビュー(『脱原発は語る』より再録、・福島原発かながわ訴訟の年表が収録されている。

もし希望する方は私のアドレスkeisan2298@gmail.comまで連絡をください。横校労と連絡を取ってお送りする手伝いをします。1冊600円+送料です。

 

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村田さんの「あとがき」

 

なお、横校労叢書のラインアップは、

 

横校労叢書①

『喜多方から ~農を続けながらフクシマを生きる~』(歌人 五十嵐進 著)

(「月刊横校労」2011年9月~2014年3月連載を収録)A4版 34頁 定価600円

 

横校労叢書②

『ふかやんの学校シッセキ簿』(中学教員 深沢裕 著)

(「月刊横校労」2007年4月号~2013年8・9月号連載を収録)A4版72頁 定価600円

 

横校労叢書③

『読者・Q&Aコーナー 

     教育「改革」下の横浜で98の悩み事相談にこたえた14年間の記録)』

               (中学教員 赤田圭亮 著)

(「月刊横校労」2002年7月号~2015年2月号連載を収録)A4版 100頁 定価800円

 

 

なお叢書①の「喜多方から」がもととなり、影書房より俳句と評論集『雪を耕す フクシマを生きる』(1800円+税)が刊行されいてる、

レンギョウが咲いている。『ケナリも花、サクラも花』を読む。

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境川の菜の花

一昨日は急に気温が下がったのだが、今朝は12℃。歩いていると日陰は少し寒いが、朝日が当たると、すぐに温かくなる。

つがいで飛ぶカワセミを見かける。あまりないことだ。シジュウカラメジロはたいていつがいだが、カワセミは一羽のことが多い。

2羽連れ立って、水面すれすれを切るようにハイスピードで飛んでいく。

 

4月もいつの間にか1週間が過ぎる。種々の花が次々と咲く。庭では今コデマリが満開。

福島・会津の友人のメールに

「いま梅と桜とレンギョウハクモクレンとコブシ、そして椿の満開の花々に囲まれて

います」

とあった。会津に住んでいたのはそろそろ50年ほど前のことになってしまう。

10代のころ、一斉に咲きだす花々に目をくれることなどなかった。

 

こちらでは、梅が咲き、椿が咲く。モクレンとコブシはそのあとか。今桜とレンギョウが咲いている。

 

レンギョウのことを韓国語ではケナリというのだそうだ。何がきっかけだったか、最近『ケナリも花 サクラも花』(1994年)という本を読んだ。鷺沢萌という作家のエッセイ集だ。鷺沢は1968年生まれ。祖母が朝鮮人で鷺沢は4分の1朝鮮人の血を受け継いでいる。エッセイは20代前半、ソウルの延世大の語学堂に留学した時のことが書かれている。

 

日本から来た女学生に対し、「韓国語が話せて当然」といきなり韓国語でインタビューを依頼してくる韓国ジャーナリズムに対して、鷺沢は嫌悪感を隠さない。

 

 

 

 だから、ある春の日の午後にかかってきたその電話での取材依頼をどうして承諾したのか自分でもよく判らない。たぶん、受話器の向こうから聞こえてきた韓国語がとてもやさしく聞こえたことが原因の一つだろうと思う。

 たいていの場合、そういった電話はいきなりものすごい早口の韓国語で始まる。こちに住んで勉強してるってんだから、これくらい理解できるのは当然だろう、と言わんばかりの調子である。

 

その感じの良い同い年の記者のインタビューを受けたあと、二人は写真撮影のために公園を歩く。

 

 公園の中では、黄色い花が咲き乱れていた。日本語でいえば、「れんぎょう」の花だ。わたしは思いついて、この花の名は韓国語で何というのか、と彼女に訊ねた。

「ケナリ」

 彼女は答えた。

ふうん、と言ってしばらく歩いたあと、わたしは再び立ち止まった。行く道の両側では相変わらず満開の黄色い花が風に吹かれてそよいでいる。

「…ナグネでしたっけ?」

 わたしは訊いた。花の名をいっぺんで覚えられなかったのだ。ナグネというのは「旅人」という意味の単語で、その単語はちょうどそのころ学校で使っていたテキストに出てきたばかりだったのである。どこかで混線してしまったらしい。

 母国語として韓国語を使っている人には可笑しくてたまらないだろうこの単純な間違いに、スヨンも陽射しの中で声をあげて笑い、それから一音一音区切るようにして、「ケ・ナ・リ」と大きな声でもう一度教えてくれる。

写真もほぼ撮り終え、公園の出口ところまで来たとき今度はスヨンがふと立ち止まった。そして彼女は、今を盛りと咲き誇っている傍らの黄色い花を指差した。

「もう一度、復習しましょう。この花の名前は?」

 あろうことかウッと口ごもったあとで、わたしはまたもや言った。

「ナグネ…?」

 スヨンは驚いて目を見開き、それから弾けたように笑った。

                        (第7章から)

 

 

この後スヨンは、手帳のページを破いて「ケナリ」と書いて鷺沢に渡すのだが、タイトルとなったこの文章にひかれた。

 

鷺沢の小説は若いころに読んだ記憶があるのだが、それほど強い印象はない。

今回、この本と一緒に『私の話』(2004年)も読んだのだが、やや露悪的、自虐的とも思えるようなところもあって、すっと入れないものがあった。

 

このころ鷺沢は家庭崩壊のはざまで小説を書くかたわら、川崎の青弓社に出入りし、オモニたちの識字学級に足を運んでいた。日本人の子も在日の子も一緒に集まる学童クラブの名前がケナリクラブ。実在のペ・ジュンドやその娘も登場する。

1985年の指紋押捺の運動のころ、ペさんや青弓社の理事長だった李仁夏のお話を何度お聞きしたことがある。その数年後の90年ころに鷺沢はここに来ていたことになる。

ケナリの話はその前後のことだ。

 

どちらのエッセイも、自虐的にどこかはぐらかしながらも、その底には「私は何者なのか」という問いがあるように思えた。外国人登録証をもっていない鷺沢は、明らかに朝鮮人ではないが、かといって自分を日本人とは言えない出自を強く意識している。

 

鷺沢は36歳で自死するのだが、破滅型を感じさせる文章とともに、ケナリのことをナグムと何度も言い間違えるというエピソードに鷺沢の哀切を感じた。

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