今朝も10℃。歩き始めは肌寒く、手が冷たい。
早瀬とか早淵という言葉があるが、よどみというのか淵というのか、そんなところにサギ、アオサギ、カワウ、カモ、セキレイが集まっているが、みな互いに無関心。カワウだけが無心に潜っては顔を出しして、えさを漁っている。
西川美和監督の映画『素晴らしき世界』の原作となった佐木隆三の『身分帳』を読んだ。
原作と言っても、『素晴らしき世界』とは別物だなと思った。
「身分帳」とは、収容者の家族関係や経歴、犯歴、入所中の態度や行動、賞罰などが記載されている書類のこと。一般に本人には渡らないもののようだが、小説の主人公山川一は刑務所内での看守の暴行に対して訴えを起こしており、その書証として裁判所に提出されたので本人の手元にも残ったという。
佐木隆三の小説はきわめてたんたんと、山川一の身辺に起きた多くの出来事をトレースしていく。過度な思い入れや表現がない分、人物造型の奥行きが深く、大変に難しい人物として山川を浮かび上がらせている。
いくつかのエピソードは映画でも使われているが、役所広司が演じる山川はこだわりが強くかっとなりやすい半面、情も厚いといった人物で、役所の醸し出す雰囲気には、それほど「難しい人物」という印象はない。
13年にも及ぶ刑務所生活から娑婆に放り出され、あちこちにアタマをぶつけながら、結局うまくなじめず、からだを壊して亡くなっていく、いわば「生き方下手」な男として描かれているが、小説『身分帳』の中の山川は、そこにとどまらない、というよりそこよりもはるかに奥深いほの暗さをかかえた人物として描かれている。
佐木隆三は、この1冊の中に「行路病死人-小説『身分帳』補遺」を書いて、山川(実名:田村明義)とのかかわりに事実を明かしている。ここではさらに、抱えてもなおそこから大きくこぼれてしまうような田村(山川)の難しさが伝わってくる。
補遺としているが、『身分帳』とあわせてひとつの作品である。
「自分のことを小説にしてほしい」というところから始まった田村との付き合いは、最後は「喪主」となって送るまで続くのだが、佐木にとってのそれは「小説を書く」というより抱えてしまった難しい人物との格闘のようなものだったかに見える。
山川の難しさとは何か。一言で言ってしまえばアイデンティティーの欠落といったことになるのだろうか。どこまで行っても母親を追い求めてしまう山川は、拠って立つところの地盤の緩さにいつも戸惑っていたのではないか。過度な几帳面さ、過度な正義感、対人関係のつくり方のぎこちなさなどがそこにつながっているように感じた。
映画『素晴らしき世界』がつくられ公開されることで、絶版になっていた『身分帳』が新たに日の目を見た。それだけでも映画がつくられた意義があるというものだ。
若いころ、好んで読んだと言っても、実際に読んだのは膨大な佐木隆三の作品の一部でしかない。
印象の強い作品として、『復讐するは我にあり』『慟哭 小説・林郁夫裁判』『宮崎勤裁判』(上・下)『悪女の涙福田和子の15年』『ドキュメント狭山事件』などがあるが、『身分帳』もそれらに並ぶ作品だと思った。