放棄し続ける独立国家としての自治を回復させようとするか、今までどおり民意を無視した対米従属の路線を守るのか、この選挙結果は政権の喉元に突きつけられた鋭いナイフである。

9月30日(日)
 早めに呑み始めた酒が過ぎたのか、7時半ころ早々と床に就いてしまった。目が覚めると0時過ぎ。外の風の音に反応したようだ。強風というよりもはや暴風。木が揺れてぶつかり合う音がすさまじい。ふだん雨や風の音はよほどのことがない限り聞こえない。こんなに風の音が聞こえるのは、ここに移ってきて初めてのことだ。

 

宇宙から見た台風24号

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 台風24号が沖縄を経て九州に上陸、そのままスピードを上げて本州を席巻。

 昨夜は22時には首都圏の電車全部が運休となる。計画運休というのだろうか。これも初めてのこと。
 

 

 早朝4時のテレビが各地の被害を伝えている。西日本で雨の被害が出ているが、関東は風の被害が中心。風速40mを超え大型トラックが横転したり、店舗が崩壊したところも。


 大きなニュースがもうひとつ。沖縄県知事選。深夜につれあいから玉城デニー氏が勝ったことを聞いたのだが、票数までは分からなかった。今朝の報道では玉城氏が40万票以上を獲得、佐喜眞氏に8万票の差をつけたとか。下馬評は“僅差”だっただけにうれしい。

 これで沖縄の民意は改めて辺野古反対ということがはっきりした。政権はこの結果を受けてどうするのか。放棄し続ける独立国家としての自治を回復させようとするか、今までどおり民意を無視した対米従属の路線を守るのか、この選挙結果は政権の喉元に突きつけられた鋭いナイフである。

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 何人かの友人から「勝ったね」のメールが届いた。

 

 


 北海道新聞東京新聞中日新聞など連載されてきた桐野夏生新聞小説『とめどなく囁く』が、昨日9月30日で終了した。414回。休載は一度もなかったのではないか。

 一回分が400字詰め原稿用紙で3枚弱ほどだから、1000枚にもなる。1回目から欠かさず読んできた。桐野夏生の小説、全部読んでいるわけではないけれど、どちらかと言えば静かな部類に入るもの。

 

(ほぼネタバレなしの簡単なあらすじ)
 「塩崎早樹は前夫・庸介が海難事故で死亡認定された後、年の離れた克典と再婚。庸介の姿を見たという義母の話から彼の釣り仲間を訪ねた。庸介が自殺したのではという憶測に苦しむ早樹は、克典に心情を吐露する。そして克典も同様に前妻の死が自殺だったのではと悩んでいたことを知った。」
                         
 中心は早樹と、死亡認定された庸介の話なのだが、そこに克典の家族、とりわけ真矢という娘との関係、早樹の家族、庸介の母親、そして庸介の友人や早樹の友人も絡んで400回。最後の5,6回ほどで大胆ななぞの開示。桐野はこれをダメージとの闘いを描くのが小説だという。

f:id:keisuke42001:20181001165816j:plain桐野夏生

書き出す前に彼女はこんなことを書いている。

人生はダメージとの闘いであり、小説はその闘いを描くものではなかったか。自分が滞りなく仕事を回していた時は、ダメージに対する実感が失われていたとつくづく思った。

 今回の「とめどなく囁く」の女性主人公は、前夫を海難事故で失った経験をしている。「失った」と簡単に書くけれども、その喪失はいったいどれほどのダメージを彼女に与えたのだろう。夫が突然いなくなった彼女の日常はどう変わり、その心はどれほど傷付いたのか。

 しかも、ようやく新しい日常を確立した時に、再びアクシデントが起きる。前夫の母親が、夫は生きている、と彼女に囁くのだ。 その小さな囁きによって、彼女は今度はどんなダメージを喰(く)らうのだろうか。ダメージとの闘いを描くのが小説だと思うと、私たち作家は、とても怖(おそ)ろしいことを考え、そして書いているのだ、と今から緊張してしまう。(木)


どこまで引っ張るのかとも思ったが、結局1年以上、毎朝楽しませてもらった。

 新聞小説は、途中で「もういいや」という場合も少なくない。最後まで読ませるのはやはり技量の高さだと思う。ただ、これほど長くなければならなかったのかとも思う。新聞小説でなかったならまた違ったものになっていたのではないか。
 

 夕刊では、桜木紫乃の『緋の河』が好調だ。カルーセル麻紀を題材とした小説。現在257回。直木賞受賞の『ローヤルホテル』(2013年)に唸ったおぼえがある。ほかに何編か読んだが、桜木の文章にはつやというか、惹きつける力があると思う。

f:id:keisuke42001:20181001165949j:plain桜木紫乃


 

 カルーセル麻紀の一代記としてこのまま続くとすれば、400回では終わらないのではないか。『とめどなく囁く』は、登場人物が思いを語る部分が多かったが、『緋の河』は主人公に動きがあり停滞感が感じられない。毎朝の愉しみは続く(夕刊はどういうわけか朝に読む習慣になっている)。

 ちなみに桐野夏生のあとは中村文則の『逃亡者』が今日から始まっている。『教団X』を読んだことがある。それほど良いとは思わなかったが。
 

『原民喜 死と愛と孤独の肖像』(梯久美子)生きるために身を売り、文を売るというのではない、書くことそのものが生きることというところまで突き詰めた人生は、読んでいて息苦しくなるほどだ。

    梯久美子原民喜~死と愛と孤独の肖像』(岩波新書・2018)を読んだ。原爆の詩人原民喜の伝記である。

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    梯の著作は、少し前に『狂う人「死の棘」の妻・島尾ミホ』(2016年)を読んだ。島尾敏雄の妻島尾ミホという人物の、複雑で迷宮のような怪奇さに正面から勝負を挑んだ、鬼気迫る著作で、私は正直途中で「まいった」と思った。へろへろになりながらほうほうのていで最後まで読み継いだのを覚えている。梯という人は、大変な書き手であると思った。

 

  『原民喜』も、期待をして、そして半分身構えて読み始めた。
   わたしは原のことを『原爆小景』の詩人、『夏の花』の著者としてしか知らず、仕事の関係で広島市内の円光寺にある原家の墓を見学したことはあるが、ほとんどその人生について詳らかには知らなかった。ただ墓石をみたときに、妻貞惠が原爆投下の前年に亡くなっていることだけは憶えていた。

 

    梯は、46年間の原の生をその出生から丹念に追い、父との関係、兄弟との関係、文學仲間との関係をあたり、何より妻貞惠の在りし日の姿(1944年結核にて没)を、無口で痩身の原とともに豊かに浮かび上がらせている。

 

   原の文章が『夏の花』もそうだが、夾雑物をぎりぎりまで刈り込むような、まるで祈りのような端正さ、端麗さをもって書き継がれていったこと、それが原の生得的なものだけでなく、貞惠との間に形づくられた他者の介入を許さない独特の濃密な空間から生み出されたのだということが、よくわかった。

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   その濃密さの対極にあるような原の、通常の人たちとはかけ離れた対人関係への極端な萎縮、社会的世間的なつながりへの忌避、そうした生きづらさが書くことへの執着を支えていたということも。

   何も知らない幼児が、突然ぽんと世間の荒波にほおりだされたような、と思わざるを得ないほど、原には世過ぎ身過ぎの知恵はからきしない。そこまでの人ならば、通常の時代ならば、その才を見越して、実生活を補ってあまりある人々が現れるものだが、原の晩年は戦後間もなくの数年だ。妻はすでになく、実家は原爆禍の中、没落し、少ない友人も生きるか死ぬかの生活にある中、原は清貧のなかでただ純粋に「書く」ことへ執着し続けた。その意味で原は稀有の文学者と云っていい。生きるために身を売り、文を売るというのではない、書くことそのものが生きることというところまで突き詰めた人生は、読んでいて息苦しくなるほどだ。

 

   自ら命を絶つ前日、なけなしの遺品を整理し宛名を記す律義さには言葉がない。この本の惹句である「悲しみの詩人」という表現は、読み終えてみてこれ以上でも以下でもない掛値のないものだと思った。

 

   10代から読んできた『原爆小景』の詩人、『夏の花』の作家、原民喜に、もう一度しっかりと向き合わせてくれた良著だ。

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『愛しのアイリーン』リアルではあるのにリアリティはない。常に動いているのにどこか「静」のところがある。不思議な映画だが、印象に残る、なかなか忘れられないという点では、面白い映画だと思う。

    前号で書いたように、ひょんなことから愛しのアイリーン』(日本・2018年・137分・監督吉田恵輔・主演安田顕をみた。“ひょん”と云っても、いくつかのブログで触れられていて「みよう」と思っていた映画なのだが、評判はいろいろ、『寝ても覚めても』優先というつもりだった。

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 このポスターのシーン、映画の中にはない。岩男(安田顕)が、結婚式のタキシードを着て、無精ひげのないつるっつるの顔で出ているシーンなどないし、アイリーン(ナッツ・シトイ)がウエディングドレスを着ているシーンもない。

 鏡張りの、たぶんラブホテルのバスタブのように見えるが、水の代わりにおびただしい数のパチンコ玉。こんなシーンはない。

 カメラをみている二人は無表情。右側に“二人で歩む、地獄のバージンロード”のキャッチコピー。この一枚、映画の中にはないものの、秀逸なポスターだと思う。


 映画そのものもシュールというか、ドロドロの現実を前にしながら、どこか非現実的。原作はビッグコミックスピリッツに1995年から連載された新井英樹の同名漫画。

 

「日本(の農村)の少子高齢化」「嫁不足」「外国人妻」「後継者問題」といった社会問題に真っ正面から取り組んだ作品。特に「国際結婚が内包している種々の問題」に対して丁寧に描写されている。終盤にかけては「夫婦の愛情」「母から子への愛情」などにテーマが広がっていき、最終的には「家族の愛」が描かれた。

                      (ウイキペディアから)

 

この漫画は読んでいないが、映画は少なくともこのウイキペディアの説明とはかけ離れたものであることは間違いない。


 岩男は農家の長男。町のパチンコ屋に勤めている。農業を手伝っているふうもない。恋愛経験も結婚相手もなく、悶々とした日々を過ごしている(嫁不足)。

 母のツルは、、毎晩自慰を繰り返す岩男の部屋を覗くのが常となっていて、何とかして岩男に嫁を迎えたいがために奔走する(後継者問題)。

 職場の子持ちの女性に初めての恋愛とばかりに必死に求愛する岩男だが、『そういう熱いのって苦手』などといわれ、恋に破れる。


 地元から姿を消した岩男はフィリピンの嫁さがしツアーに参加し、300万円を払い、家族にも仕送りをすると約束し、フィリピン人女性のアイリーンを連れて帰国する(外国人妻・国際結婚問題)が、それはちょうど認知症だった父源蔵の葬式の当日だった(後継者問題・介護問題)。

 ツルは猟銃を持ち出してアイリーンを殺そうとする。

 はじめ二人はホテルを転々とするが、実家に戻ってくる。3人の生活が始まる。ツルはアイリーンが日本語がわからないことを言いことに“虫けら”と呼ぶが、アイリーンはアイリーンで負けていない。ツルの差別と悪意がすごい。

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 岩男はアイリーンとのセックスを切望するも、アイリーンは“初めてのセックスは好きになった人と”と拒否。岩男の悶々とした生活は続く。

 フィリピンパブに出入りするうちアイリーンは、フィリピン人と日本人の子どもである売春宿の女衒塩崎に会う。塩崎は、自分の出自に劣等感があり、アイリーンに対し結婚も売春もカラダを売るという点で同じだという。

 塩崎がツルと結託してアイリーンを売春組織に売ろうとするのを岩男が見つけて、追いかけ、猟銃で殺してしまう。ここでようやく岩男とアイリーンは結ばれる。しかし、塩崎の仲間のやくざに嫌がらせを受けるうち、岩男は極度の不安から誰かれなく性欲をぶつけ、暴走する。kinohana

 ツルは友達の左時枝(劇中の名前がわからない)が紹介する親戚の娘を岩男にあてがおうとするがうまくいかない。岩男は酔って山中をさまよっているうちに足を滑らせて死んでしまう。アイリーンは岩男を探して山中に入るが、木にナイフで書きつけられてあった「アイリーン」の文字を見つけ、同時に岩男の死体を見つける。


 必死に岩男を探すツルをアイリーンは山につれていき、岩男の死体を見せる。ツルは絶望し「自分を山に捨てろ」とアイリーンに命じるも、アイリーンのおなかに岩男の子どもがいることを知るとそれも断念する。

 こうして書いていても、“確かにそんな話だったけど、いやいやほんとにそんな映画だったっけ?”という感がぬぐえない。

 アタマの中には岩男がひっきりなしに連呼、絶叫する○○○○がこだまし、登場人物が少しずつ常軌を逸していって(そうでないのは、アイリーンとアイリーンの相談にのる近所のお寺の若い坊さんぐらいか。この坊さんも岩男は嫉妬に駆られて殴ってしまうのだが)、なんだかみな破滅の方向に向かっていく。

f:id:keisuke42001:20180926114953j:plain木野花

 

 

 ひとことで言えば“性と死”だろうか。社会問題云々と云っても、人間、最後はそれに集約されるということか。

 人は皆それぞれほどほどに真剣に生きているけれど、傍から見るとかなり可笑しくユーモラスに見えてしまう、そしてそのユーモアがどこか悲し気でもあることも事実だ。

 岩男のセックスへの渇望は異様なものに描かれるが、異様なのは岩男にはセックスが愉しいものと感じられてはおらず、職場の寡婦で子持ちの奔放な女性とのセックスもせっかく成就したにもかかわらず、愉しげではない。アイリーンとのセックスさえ、不安の中で最中に吐しゃしてしまう。

 ひたすらに連呼、絶叫しながら岩男はセックスに溺れているようで溺れておらず、どちらかと云えばどこまでやっても自分の中の空虚さが埋められないことにいら立ち、そしてあきらめているように見える。

 

 そして死。まず認知症の源蔵が死ぬ。岩男が死ぬ。左時枝が死ぬ。ツルが死ぬ。塩崎が死ぬ。

 死ぬことで多くの問題は“解決”する。解決しないのは遺産相続問題ぐらい。

 映画のそこここで、これはこうなるんじゃないか?という予想が次々に覆されていく。源蔵は認知症が改善するのではないか、岩男に安寧なセックスが訪れるのではないか、ツルとアイリーンはどこかで気脈が通じるのではないか、塩崎はアイリーンに惚れて助けてくれるのではないか、左時枝の親戚の娘真島琴美は岩男の自慰行為を見せられて去っていくが、もう二度と姿を現さなくてもよいのではないか・・・まだまだあるが、どれもみな覆されてしまう。この裏切られ感が快くないわけではない。

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 137分、かなり長いのだが、最後までみてしまった。すとんと落ちない所、宙づりにされているせいもあるのだが、役者の力、演出の力も大きい。ツルを演じる木野花の演技は、助演女優賞もの。左時枝との絡みなど唸らせる。職場の同僚吉岡愛子を演じる河井青葉、細身で折れそうでしなだれかかってくるような風を見せてはいるけれど…。塩崎を演じる伊勢谷友介もうまい。なによりアイリーンを演じるナッツ・シトイ、時には少女のように、時には成熟した女性のように、さまざまな表情を見せる。開き直って啖呵を切るところもいい。全編不条理でありながら、これらの演技に支えられて映画の決行を保っているところもあると思う。


 妙に甘ったるい音楽にも時々はっとさせられた。

 長岡近辺?のロケ中心、リアルではあるのにリアリティはない。常に動いているのにどこか「静」のところがある。不思議な映画だが、印象に残る、なかなか忘れられないという点では、面白い映画だと思う。

検察側の罪人、重々しいばかりで、???がひっきりなしに浮かんでくる集中できない映画だった。


 ららぽーと横浜TOHOシネマズで『サニー』と『寝ても覚めても』が間1時間ほど置いて二本続けてみられる。『サニー』はともかく『寝ても覚めても』はそれほど集客力があるとは思えない映画だけに、ラッキー。そのあと長津田の行きつけの居酒屋が新規出店したお店へ行けるなと考えていた金曜日。

 券売機の前で上映時間が変わっているのに気がついた。そういえば前にも同じことがあったような記憶が。土曜日ならわかるのだが、金曜日に編成が変わってしまうとは。
 

 つれあいの冷たい視線を避けながら、薄暗いチケット売り場で、代わりに何をみようかとそれぞれ電光掲示板(古いか)を見ながら思案。

 『検察側の罪人』が上映開始時間が過ぎているが、まだ予告編の時間。原作は雫井脩介、どうしても、ではなく機会があれば見てもいいかなと思っていた。おお、なんと続けて『愛しのアイリーン』がみられる。間が詰まっている分、居酒屋へ行く時間が1時間ほど早くなる。ちょっとうれしい。


 検察側の罪人』(日本・2018年・123分・原作雫井脩介・監督・脚本原田眞人・出演木村拓哉二宮和也)。

 原作が雫井脩介、監督が原田眞人だけど、どうだろう、また期待が裏切られるのかなという不安?。原作は読んでいないけれど、今まで読んだ雫井脩介の作品の延長上なら小説はそこそこ楽しめるものになっているのではないか。となると、問題は原田の脚本とキャストだ。


 原田の傑作わが母の記』(2012年)井上靖の原作、原田が脚本を担当。今回と同じパターン。監督が自身で脚本を書くというのはいい。オリジナルならさらに良いが。

 レンタルDVDでみたのだが、役所広司樹木希林の演技はもちろんのこと、全編最初から最後まで緊張感が途切れず、骨太なうえに情感あふれるつくりに唸ってしまったものだ。それまでもぱらぱらとはみてきたが、『わが母の記』以降は、原田の作品というと気になって、映画館に足を向けてきた。
 

 『駆け込み女と尻出し男』(2015年)『日本の一番長い日』(2015年)『SCOOP』(2016年)『関ケ原』(2017年)。残念だが面白かったのは『SCOOP』ぐらいだろうか。世評は別として、あとは私にはどれもそこそこの映画にしか見えなかった。

 『SCOOP』以外は、みないわゆる超大作。予算もかなりかかっている。それなのになぜかいつも「そこそこ」。キャストを中心にいつも話題性だけは十分なのだが。

 そのキャスト、これらの作品には当代人気の俳優が名を連ねている。大泉洋役所広司福山雅治岡田准一、そして今度はキムタクに二宮和也。みな好演していると思う。なのに映画の仕上がりは「そこそこ」。今回はそのキャスティングもミスだと思う。
 

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(略)ある殺人事件を巡る2人の検事の対立を描く。都内で発生した犯人不明の殺人事件を担当することになった、東京地検刑事部のエリート検事・最上と、駆け出しの検事・沖野。やがて、過去に時効を迎えてしまった未解決殺人事件の容疑者だった松倉という男の存在が浮上し、最上は松倉を執拗に追い詰めていく。最上を師と仰ぐ沖野も取り調べに力を入れるが、松倉は否認を続け、手ごたえがない。沖野は次第に、最上が松倉を犯人に仕立て上げようとしているのではないかと、最上の方針に疑問を抱き始める。木村がエリート検事の最上、二宮が若手検事の沖野に扮する。
                              映画・COMから

 

 キムタクの演技は、暗いだけで正直いいのか悪いのかよくわからないのだが、キムタクはキムタクにしか見えない。二宮和也も同じか。片や“冷”で片や“熱”という具合で二宮など熱演なのに面白くない(予告編で見た松倉を取り調べるときの早口でまくし立てるシーンはそれだけだと迫力があるが、映画の流れの中では?という感じ)。このふたりが邪魔して物語の中になかなか入っていけない(是枝裕和監督『三度目の殺人』の福山雅治もそんなふうに感じたが)。
 検察の建物の内部や犯行現場、クラブ、などまさかこんなじゃないだろうというのも含めていろいろなシーンがよくつくられている。ずいぶんおかしなものもあるが、さすがに原田のリアリティ、独創性だなとも思うのだが、ふたりが動き出すとどういうわけかそこから浮き上がってしまうように感じられる。吉高由里子も同様。かわいすぎる。よくない。かなりえげつないことをやっているのだが、えげつなさの深みが感じられない。


 原田の魅力的な演出力によって松重豊、酒向芳、弓岡嗣郎の3人が迫力のあるいい演技をしているのだから、遠藤憲一光石研、田口トモロウなどを配してみたら、リアリティが出て話に入っていきやすい。人気俳優を起用するなら脇役の方がいい。ファンからすれば“何をいってんだか”というところなのだろうが。

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 で脚本だが、つくりが複雑で整理されておらず分かりにくい。中心に、ある工場の経営者夫婦殺人事件を中心において、最上がかつて住んでいた学生寮の娘の殺人事件、平岳大が扮する弁護士が告発した政治的なスキャンダル、日本会議アパホテル?さらに最上と松重演じる諏訪部の親の世代のインパール作戦が絡む。最上の家庭の問題もあって・・・。
 小説ならそれぞれの要因がうまく配されて重厚かつ重層的な物語になっているのだろうが(小説は読んでみたいと思った)、映画の方はどれも中途半端。何でもかんでもとりあえずぶち込んだという感じ。

 最上は、かつてなついていた学生寮の娘が殺された時効事件の容疑者だった松倉(酒向芳)が、夫婦殺人事件の容疑者であることから決め打ちで執拗に追い詰め、がさ入れの時に歯ブラシと競馬新聞を盗み、それにDNAを付着させた凶器を包んで発見させるというトンデモ検察ぶり。さらには釈放される松倉を諏訪部と組んで認知症の老人に交通事故に見せかけて殺してしまうのもなんだか。

 一方で真犯人と思われる弓岡演じる大倉を拉致して、自分の別荘の敷地で殺し埋めてしまうというのもすとんと落ちてこない。何をどんだけはっちゃけさせても、そこに至る経路がしっかりわかればトンデモぶりなどいくらでも減衰させることができると思うのだが。

 一般的な筋道としては、最上にあこがれて検事となった沖野(二宮)が、最上のやり方に疑いをもち始め、そして決裂、最終局面で対決するまでの二人の心理的な葛藤描くのではないか。その心理的な葛藤が全くといっていいほど描かれない。最後のシーンも自殺した弁護士が保持していたスキャンダル文書を最上が沖野にていじするのだが、これもよくわからない。

 繰り返すが、小説ならばじっくりといくつもの背景をかみ合わせて物語が構築されていくのに、この映画は材料を並べただけでそれが相互にどう関連付けられるのかが不十分すぎる。脚本が雑だったのか、編集の時に多くのシーンをカットしてしまったのか、いずれにしても,重々しいばかりで、???がひっきりなしに浮かんでくる集中力に欠ける映画だった。

『バーフバリ伝説誕生』(インド・2015年・138分・監督S・S・ラージャマウリ)『バーフバリ王の凱旋』(インド・2017年・141分・監督S・S・ラージャマウリ)を続けてみた。休憩時間を入れて5時間。み始めて1時間も経たないうちに「帰ろうかな」と思った。

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『バーフバリ伝説誕生』(インド・2015年・138分・監督S・S・ラージャマウリ)『バーフバリ王の凱旋』(インド・2017年・141分・監督S・S・ラージャマウリ)を続けてみた。休憩時間を入れて5時間。み始めて1時間も経たないうちに「帰ろうかな」と思った。

 すさまじいCG画面に重ねられる何万人ものエキストラと壮大なセット(どうもほんものらしい)、次々に繰り出される信じられない武器と立ち回り、頭がくらくらしてくる。
 物語の筋はいたって単純。3代にわたる王権をめぐる相続争い。インド映画だけに踊りも歌もすばらしい。数知れない象までが躍る。息をもつかせない。次から次と繰りだされる荒業にただただ圧倒される。
 でも「帰りたい」と思うってしまうのって何なんだ?
 これっていつの時代の話?古代インドというのだが、壮大なセットはインドっぽくないし、南国かと思えば高地の雪のシーンも出てくる。宗教色も薄い。壮大な宮殿も面白味を感じない。主人公バーフバリはほとんどスーパーマン。迷いとか悩みとかそういうのとは無縁。物欲も性欲も感じさせない。
 とにかくスキがない。ほとんどの画面が美しいし絵になっている。面白くないわけではないのだ。結局最後までみてしまったのだから。こういう映画もあり、なのはよくわかる。インド映画というだけで出かけてきてしまった自分の浅慮を恥じるしかない。もうみない。

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”絶叫上映”の様子

お彼岸が近づくにつれ、ヒガンバナが増えていくような気がする。23日で昼夜の長さが同じになるが、同じにというよりどんどん日が短くなってきているようだ。

   境川河畔にも時々冷たい風が吹くようになった。

   河川敷やちょっとした空き地に、気がつくとヒガンバナ(曼殊沙華)が目立つようになった。草が刈り取られたあとに、3~40㌢ほどの高さでまっすぐに細い軸を立てている。白いものもある。ヒガンバナというものはみな赤いものだと思っていた。シロバナマンジュシャゲというのだそうだ。お彼岸が近づくにつれ、増えていくような気がする。23日で昼夜の長さが同じになるが、同じというよりどんどん日が短くなってきているようだ。雨が多いせいか、朝はいつまでも暗いままで、なかなか夜が明けない。

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 本の整理を始めようと思い立った。9年前、大豆戸町からここに引っ越した時に、古本屋さんを呼んで大量の本をもっていってもらった。その時に捨てきれなかったものがまだたくさんある。暇つぶしに読んできた小説が中心で、どの本も2度読むことはまずない。あの本は読んだぞというだけの意味で所有しているに過ぎない。それに本棚に埋もれている本の中には、タイトルをみてもページを開いても記憶にない本がある。買った覚えくらいあってもいいのだが。だからほとんどただの場所ふさぎなのである。
 
 図書館から本を借りて読むようになったのは最近のこと。
 区の図書館のカードは仕事をやめた2014年につくったのだが、足繁く通うようにはならなかった。元来不精な性格だからネットで本が買えるという便利さに、本屋にもいかなくなった。送料はかかるけれども古本も悪くない。売り物だけに図書館の本の状態よりかなりよい。中には送料で儲けているのでは?と思うほど本体価格は安いのに送料が高いものもあるが。新本なら在庫さえあれば次の日に届く便利さに浸ってしまっている。


 仕事をやめてからの4年間も現役時代から引き継いで独立労組の役員を務めてきた。現役の時から数えると40年近く活動してきたいわば活動家だったのだが、それをこの4月に辞めた。大したことをしていたわけではないのだが、時間をとられるのと人との関係は、役職がなくなって初めて結構気ぶっせいなものだったとわかった。

 去年1年間は、マンションの自治会の回り持ちの役員も仰せつかっていた。月に2~3回の会議が土日に入る。行事も多い。これは1年で終わったが、少しほっとした。
 今年で3年目になる大学の非常勤講師の方は、後期一コマだけなので、4月から9月までの間は余裕がある。
 
 

f:id:keisuke42001:20180921110806j:plain大和市シリウスにある図書館の内部

そんなこんなで、図書館に行くことが増えた。以前、このブログで書いたが、となりまちの大和市の文化創造拠点”シリウス”という施設の中にある巨大図書館にも行く。ここは本を読んでいても、館内に流れる空気が他とは違うように感じられる異空間だ。置いてある雑誌の数も区の図書館とは比べ物にならない。文芸誌、総合誌がかなり揃っている。昨日も藤沢の病院へ行くついでに途中下車をして、雑誌を読みにいったのだが、なぜかしら気分が落ち着く。周りを気にせずに心静かに本が読める。特に入館者数が適正規模と思われる平日はいい。
 

 急いで読みたい本以外は、なるべく買わずに借りることにしている。
 部屋の中を眺めていると、整理されないよくわからない本や資料が気になってくる。これらがどれだけ今の自分に必要なのか、考えなくてもわかる。二度と読むことのない本がほとんどだ。何冊もページを開いていない全集もある。だいたいどこに何の本があるのかがわからないほどに積んである。

 古本屋へもっていけばいいのだが、あの、本を売った時の意味不明のとげとげしさ気分を考えると、もし誰か知り合いにこの本を読んでくれる人がいたら?と考てしまう。
 

 本を整理したいという人が、よく“好きな本、もって行ってください”とか“取りに来ていただければいくらでもどうぞ”などと云うのを聞くが、自分の身になってみればよほどの本好きでなければ“勘弁してほしい”のではないかと思う。

 わざわざ出かけて行ってみる価値のある古本などあるはずもなし、薄汚れた埃だらけの本など欲しがる人は少ない。私のところも全く同じである。


 そこで考えた。同じ作家で揃えたら、その作家が好きそうな友人をピンポイントで指名、押し付けにならないようにこちらから要るか要らないかを丁寧に確認し、OKが出たら宅配便で送る。もちろん送料は此方もちである。

 これなら雑本も少しは価値が保たれ、もらった人がだれかにあげるにしても「揃い」なら少しはましかもしれない。


 試しに三人の友人に声をかけてみた。一人は大阪の友人である。本好きである。彼女には90年代から毎年1作ずつ刊行されてきたパトリシア・コーンウエルの文庫本、全部ではないが20冊出てきた。いっときは暮れに出るのが待ち遠しかったものだが、ここ数年は出ているのかどうかも気にしなくなった。興味が失せてきたのだ。

f:id:keisuke42001:20180921110902j:plainパトリシア・コーンウェル


 あまり読んでいないという。もらってくれるとの返事があった。ありがたいものだ。古本屋に持っていっても二束三文の査定をされるときのむなしさからすれば、送料を負担してでも「読みたい」と云ってくださる人のところに届けられればうれしい。
 

 もう一人徳島に住む若い友人に声をかけた。あまり本は読まないそうだ。こちらは横山秀夫の単行本。たくさんあったはずなのに6冊しか見つからない。メールで要不要を問うてみる。若い友人なので断りにくいだろうと思い、「要らないならはっきり言って」と念を押したのだが、OKとの返信。ありがたい。横山秀夫の全盛期のものはほぼ10数年前のもの。せっかく送るのだからもう少し何か新しいものをと物色してみたら、薬丸岳氏の単行本が4冊見つかった。今ちょうど映画やテレビドラマの原作になっている。これに村上龍の『半島を出でよ』(上・下)と前川裕や小野不由美の文庫本の新しいものをいれて送る。用意した段ボールがちょうど埋まった。
 

 相場英雄は長期の入院をしている従兄のお見舞いに何冊かの新本と併せて送った。「好みをよく知っているね」と言われた。
 

 こんなことを繰り返していれば、いずれ本棚はスカスカになってくれるのではないかと期待している。
友人間で、○○に本をもらってくれと言われたら大変だよ、なんてうわさが流れないといいのだけれど。

 

 

 

 

リドリー・スコット、81歳。クリストファープラマー89歳。次はどんな映画を撮るのだろうか。

 ゲティ家の身代金』(アメリカ・2017年・133分・原題:All the Money in the World・監督リドリースコット・出演ミシェル・ウイリアムズ・クリストファー・プラマー
 

    監督リドリー・スコットは今年81歳になる。私が見た彼が監督したいちばん古い映画は『エイリアン』(1979年)。続いて『ブレードランナー』(1982年)『ブラックレイン』(1989年)『ハンニバル』(2001年)『プロメテウス』(2012年)『リピーテッド』(2015年)『オデッセイ』(2016年)『エイリアンコベナント』(2017年)『ブレードランナー2049』(2017年)。

 
 元来、監督や俳優の名前を憶えない質なので、今になってこの映画もリドリースコットが監督していたのか、というものがいくつもある。たとえば『ブラックレイン』『ハンニバル』『リピーテッド』など。それぞれ印象的な映画だ。リドリー・スコットとはっきりと意識してみるようになったのはごく最近のこと、『オデッセイ』あたりから。それ以降見たのは本作で4作目になる。

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 最近の三作をみても、とにかく重厚で緻密、完璧主義という印象が強い。“映画界屈指の映像作家”というような評価があるようだが、その通りでとにかく凝り性だということはよくわかる。それだけでなく作品に込められた思想的というか文学的な深さをみるごとにいつも感じる。私の勝手な見立てで恐縮だが、この『ゲティ家』もそう感じたのだが、『オデッセイ』『エイリアンコベナント』『ブレードランナー2049』に共通するのは、圧倒的な“孤独”だ。『オデッセイ』『エイリアンコベナント』は宇宙空間を使って、『ブレードランナー2049』は未来空間を使って、『ゲティ家の身代金』は現実の世界を使って、それぞれ圧倒的な孤独へどう向き合うのか、というテーマがあるように思えた。特に本作のクリストファー・プラマー演じる石油王ジャン・ポール・ゲティのお金に対する執着と自恃の気持ち、それに倍する孤独の深さがよく表れていると思った。
 
1973年に起こったアメリカの大富豪ジャン・ポール・ゲティの孫が誘拐された事件を、「オデッセイ」「グラディエーター」など数々の名作を送り出してきた巨匠リドリー・スコット監督のメガホンで映画化したサスペンスドラマ。73年、石油王として巨大な富を手に入れた実業家ジャン・ポール・ゲティの17歳の孫ポールが、イタリアのローマで誘拐され、母親ゲイルのもとに、1700万ドルという巨額の身代金を要求する電話がかかってくる。しかし、希代の富豪であると同時に守銭奴としても知られたゲティは、身代金の支払いを拒否。ゲイルは息子を救うため、世界一の大富豪であるゲティとも対立しながら、誘拐犯と対峙することになる。ゲイル役をミシェル・ウィリアムズ、ゲイルのアドバイザーとなる元CIAの交渉人フレッチャー役でマーク・ウォールバーグが出演。ゲティ役をケビン・スペイシーが演じて撮影されたが、完成間近にスペイシーがスキャンダルによって降板。クリストファー・プラマーが代役を務めて再撮影が行われ、完成された。  
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    もともとリドリー・スコットは、石油王ジャン・ポール・ゲティに老優クリストファー・プラマーを充てようと考えていたと言われるが、諸事情からケビン・スペイシー(私は『評決のとき』(1996年)『L.A.コンフィデンシャル』(1997年)『交渉人』(1998年)などをみているが、いわゆる人気俳優である)で全編を撮り終えた。直後にスペイシーのセクハラ問題が発覚、スペイシーの出ているシーンをすべてクリストファー・プラマーで撮りなおしたという。それだけで1000万㌦かかったというから破格だ。

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クリストファー・プラマー


    クリストファー・プラマーは、今年89歳になる。このブログの6月の項で触れたが、映画『手紙は憶えている』(2015年)で主演、認知症で元ナチス兵の役を演じた。ラストシーンの大どんでんがえしは忘れられない。素晴らしい演技だった。古くは『サウンドオブミュージック』にも出ているらしい。

f:id:keisuke42001:20180917165718j:plain                       手紙は憶えている』のクリストファー・プラマー

 

 プラマーは映画公開直後にアカデミー賞はじめたくさんの映画賞にノミネートされているが、すべて助演男優賞だ。たしかに誘拐されるジャン・ポール・ゲティ三世の母親ハリス役のミシェル・ウイリアムズが主演ということになるから“なるほど”なのだが、プラマーもまた助演ではなく主演なのではないかと思う。それほどにプラマーの演技には凄みがある。ケビン・スペイシーの降板は、怪我の功名、災い転じて福と為す、だったのではないか。スペイシーで見ればそれはそれなりにいいのだろうが、プラマーをみてしまうと差し替え不能という感じがしてしまうのは身びいき過ぎるか。

 『手紙は憶えている』とこの『ゲティ家の身代金』を続けて見れば、プラマーの円熟を通り越した存在のすごさがよくわかるはずだ。

f:id:keisuke42001:20180917153419j:plainケビン・スペイシー


    この映画のいいところは、身代金奪取を狙う犯人側とそれを阻止しようとする警察との誘拐活劇になっていないところだ。

 映画は人も物も細部にわたって1970年代前半のイタリアの雰囲気がつくられているし、石油王のゲティが所有する家や物も時代を感じさせる。当時の誘拐犯に対する警察の追及もアイテムがしっかり時代を感じさせるし、犯人のアジトや逃走の背景など、マカロニウエスタンをみているような迫力を感じる。が、それ以上に母親、息子、祖父の3人の演技、映像による心理描写をじっくり見せてくれるのがいい。セリフはそれほど多いわけではないが、その分それぞれの表情が複雑な感情を表現しているのだ。それにリアリティを与えているのが細部の完璧主義だ。


    誘拐活劇を期待している人にはあまり面白い映画ではないかもしれない。クリストファー・プラマーをはじめとする心理劇をみにいくと思えば、十分に楽しめること請け合いである。
   

    リドリー・スコット、81歳。クリストファープラマー89歳。次はどんな映画を撮るのだろうか。