お彼岸が近づくにつれ、ヒガンバナが増えていくような気がする。23日で昼夜の長さが同じになるが、同じにというよりどんどん日が短くなってきているようだ。

   境川河畔にも時々冷たい風が吹くようになった。

   河川敷やちょっとした空き地に、気がつくとヒガンバナ(曼殊沙華)が目立つようになった。草が刈り取られたあとに、3~40㌢ほどの高さでまっすぐに細い軸を立てている。白いものもある。ヒガンバナというものはみな赤いものだと思っていた。シロバナマンジュシャゲというのだそうだ。お彼岸が近づくにつれ、増えていくような気がする。23日で昼夜の長さが同じになるが、同じというよりどんどん日が短くなってきているようだ。雨が多いせいか、朝はいつまでも暗いままで、なかなか夜が明けない。

f:id:keisuke42001:20180921110606j:plain

 

 本の整理を始めようと思い立った。9年前、大豆戸町からここに引っ越した時に、古本屋さんを呼んで大量の本をもっていってもらった。その時に捨てきれなかったものがまだたくさんある。暇つぶしに読んできた小説が中心で、どの本も2度読むことはまずない。あの本は読んだぞというだけの意味で所有しているに過ぎない。それに本棚に埋もれている本の中には、タイトルをみてもページを開いても記憶にない本がある。買った覚えくらいあってもいいのだが。だからほとんどただの場所ふさぎなのである。
 
 図書館から本を借りて読むようになったのは最近のこと。
 区の図書館のカードは仕事をやめた2014年につくったのだが、足繁く通うようにはならなかった。元来不精な性格だからネットで本が買えるという便利さに、本屋にもいかなくなった。送料はかかるけれども古本も悪くない。売り物だけに図書館の本の状態よりかなりよい。中には送料で儲けているのでは?と思うほど本体価格は安いのに送料が高いものもあるが。新本なら在庫さえあれば次の日に届く便利さに浸ってしまっている。


 仕事をやめてからの4年間も現役時代から引き継いで独立労組の役員を務めてきた。現役の時から数えると40年近く活動してきたいわば活動家だったのだが、それをこの4月に辞めた。大したことをしていたわけではないのだが、時間をとられるのと人との関係は、役職がなくなって初めて結構気ぶっせいなものだったとわかった。

 去年1年間は、マンションの自治会の回り持ちの役員も仰せつかっていた。月に2~3回の会議が土日に入る。行事も多い。これは1年で終わったが、少しほっとした。
 今年で3年目になる大学の非常勤講師の方は、後期一コマだけなので、4月から9月までの間は余裕がある。
 
 

f:id:keisuke42001:20180921110806j:plain大和市シリウスにある図書館の内部

そんなこんなで、図書館に行くことが増えた。以前、このブログで書いたが、となりまちの大和市の文化創造拠点”シリウス”という施設の中にある巨大図書館にも行く。ここは本を読んでいても、館内に流れる空気が他とは違うように感じられる異空間だ。置いてある雑誌の数も区の図書館とは比べ物にならない。文芸誌、総合誌がかなり揃っている。昨日も藤沢の病院へ行くついでに途中下車をして、雑誌を読みにいったのだが、なぜかしら気分が落ち着く。周りを気にせずに心静かに本が読める。特に入館者数が適正規模と思われる平日はいい。
 

 急いで読みたい本以外は、なるべく買わずに借りることにしている。
 部屋の中を眺めていると、整理されないよくわからない本や資料が気になってくる。これらがどれだけ今の自分に必要なのか、考えなくてもわかる。二度と読むことのない本がほとんどだ。何冊もページを開いていない全集もある。だいたいどこに何の本があるのかがわからないほどに積んである。

 古本屋へもっていけばいいのだが、あの、本を売った時の意味不明のとげとげしさ気分を考えると、もし誰か知り合いにこの本を読んでくれる人がいたら?と考てしまう。
 

 本を整理したいという人が、よく“好きな本、もって行ってください”とか“取りに来ていただければいくらでもどうぞ”などと云うのを聞くが、自分の身になってみればよほどの本好きでなければ“勘弁してほしい”のではないかと思う。

 わざわざ出かけて行ってみる価値のある古本などあるはずもなし、薄汚れた埃だらけの本など欲しがる人は少ない。私のところも全く同じである。


 そこで考えた。同じ作家で揃えたら、その作家が好きそうな友人をピンポイントで指名、押し付けにならないようにこちらから要るか要らないかを丁寧に確認し、OKが出たら宅配便で送る。もちろん送料は此方もちである。

 これなら雑本も少しは価値が保たれ、もらった人がだれかにあげるにしても「揃い」なら少しはましかもしれない。


 試しに三人の友人に声をかけてみた。一人は大阪の友人である。本好きである。彼女には90年代から毎年1作ずつ刊行されてきたパトリシア・コーンウエルの文庫本、全部ではないが20冊出てきた。いっときは暮れに出るのが待ち遠しかったものだが、ここ数年は出ているのかどうかも気にしなくなった。興味が失せてきたのだ。

f:id:keisuke42001:20180921110902j:plainパトリシア・コーンウェル


 あまり読んでいないという。もらってくれるとの返事があった。ありがたいものだ。古本屋に持っていっても二束三文の査定をされるときのむなしさからすれば、送料を負担してでも「読みたい」と云ってくださる人のところに届けられればうれしい。
 

 もう一人徳島に住む若い友人に声をかけた。あまり本は読まないそうだ。こちらは横山秀夫の単行本。たくさんあったはずなのに6冊しか見つからない。メールで要不要を問うてみる。若い友人なので断りにくいだろうと思い、「要らないならはっきり言って」と念を押したのだが、OKとの返信。ありがたい。横山秀夫の全盛期のものはほぼ10数年前のもの。せっかく送るのだからもう少し何か新しいものをと物色してみたら、薬丸岳氏の単行本が4冊見つかった。今ちょうど映画やテレビドラマの原作になっている。これに村上龍の『半島を出でよ』(上・下)と前川裕や小野不由美の文庫本の新しいものをいれて送る。用意した段ボールがちょうど埋まった。
 

 相場英雄は長期の入院をしている従兄のお見舞いに何冊かの新本と併せて送った。「好みをよく知っているね」と言われた。
 

 こんなことを繰り返していれば、いずれ本棚はスカスカになってくれるのではないかと期待している。
友人間で、○○に本をもらってくれと言われたら大変だよ、なんてうわさが流れないといいのだけれど。