広島で開催された「原爆文学の今を考える」シンポジウムにオンラインで参加。

台風7号。15日夜から、今までにない非常に強い台風が、関東に向かっているとの報道。

この台風、進み方が遅いのか、深夜に外を見た時も静かだったし、朝の散歩も濡れはしたけれど、雨も風もそこそこ。

その後、午前中に横浜に暴風、大雨、波浪警報が出た。

でも今、夕方、セミが鳴いている。雨も降っていない。

テレビは他に話題がないのか、何度も同じようなニュースを流している。

JR東海の新幹線運休や各地の雨や風のシーンを何度も。みんなでわっしょいわっしょいと台風襲来を喜んでさえいるようだ。

おかげで、今日11時に人に会う予定は延期に。

その後に予定していた映画とMさんとの外食も中止。

岸田首相退陣発表後の終戦(敗戦)記念日。

15日、閣僚が揃って靖国神社参拝。毎年繰り返される愚行。

靖国神社に行ったことのない人は、神社はともかく遊就館という併設されている戦争ミュージアムを一度でも見たほうがいい。できれば、広島や長崎の原爆資料館と比べるといい。それで十分。

 

昨日、広島で行われたシンポジウムにオンラインで出席。

2002年から続けられてきた「反戦・原爆詩を朗読する市民の集い」の一環。

初めての参加。

アン・シェリフさんは知らないのだが、他の3人のノンフィクションライターの方はお名前だけはよく知っている。本も読んでいる。司会の土屋さんは先般広島を訪れた時に「栗原貞子資料室」を案内してくださった方だ。この催しの開催と参加を呼びかけてくださったのも土屋さん。

テーマは「原爆文学の今を考える」。もう少し突っ込めば、原爆文学の現代的意義とは?だろうか。

お一人ずつお話しされたのだが、、ぼうっと試聴、メモも取らなかったので正確ではないが、印象に残ったことを少しだけ。

 

江刺昭子さん

大田洋子と同居していた時、大田が突然パジャマ姿でキッチンにきて「小説ってリアリズムよね」と言ったこと。

これと『屍の街』の公表されている幾つかの現行からの削除部分との関連について。

当時の編集者の判断なのか、文中、大田が克明に記した原爆に関する「数字」が大きく削除されている。数字こそリアリズムではないのか。それと文章がせめぎ合ってこその文学なのでは。

堀川恵子さん、テレビ局に入社したときに年配の職員から「お前たち、戦後生まれに原爆は描けないだろう」という空気を感じた。

取材は、わからないことを知るためにすること。原爆は、一瞬にして亡くなった何万人もの人たちに取材などできない。生き残ったとしても数日、数ヶ月で亡くなっていった人たちに聞くことなどできない。原爆のことは「わからない」から始まった。それでも今、描こうとする意味、意義がある。

梯久美子さんは、第一次資料にあたることから見えてくるものがある。峠三吉の「にんげんをかえせ」の最初の原稿の削除部分に峠の思いが見える。原の場合も同じ。ヒロシマのことは広島の人しか語れないか。そんなことはないと思う。広島のひとに言われたことがある。わたしたちも長い時間の経過の中「よそもの」だと。

アン・シェリフさんは、峠三吉や大田洋子、原民喜の文学があったからこそ広島に出会えた。広島市は「文学資料保全の会」という素晴らしいパートナーをもっている。中央図書館の文学資料室は素晴らしい。

 

 

行き着くところは「保全の会」が目指してきた広島文学館の創設だ。

拠点ができることによって、今まで保全の会が収集してきた資料も生きるし、それをもとに研究も進む。

 

そんな中身だった。

平和公園至近、袋町に旧日銀広島支店がある。

不定期に展覧会などが開かれる広島市の持ち物だ。先日も広島移民の企画がありのぞいて来た。

何度かここを文学館にという話は持ち上がったようだ。

広さも十分ではないが、被曝建物として保存されている。

かつて、峠三吉や大田洋子、原民喜に四國五郎などが行き交ったこの通りに文学館ができたらと思う。

 

読んだことがなかった江刺昭子さんの大田洋子の評伝『草饐』(くさずえ 1981年大月書店現在絶版)を探したら、3万円を超えていた。新たに出版は叶わないだろうか。

なかなか見つからない横浜の図書館で検索したら、あった。