江刺昭子『草饐(くさずえ)評伝大田洋子』を読んだ(2)

江刺昭子『草饐』を読みながら、ずっと気になっていることがあった。

「草饐」(くさずえ)という言葉の由来である。

最後まで読み通したが、どこにもこの表題について言及している箇所はなかった(と思う)。

 

草いきれ」や「草むす」という言葉はあるが、「草饐」つまり草が饐える、草が腐る、草が腐って酸っぱくなるといった意味の言葉は、大小の辞書を渉猟してみたが、なかった。

古歌、短歌などに典をとったものかとも思ったが、広辞苑にも講談社の日本語大辞典にも見つからなかった。

 

大田洋子の生涯に対し、草が饐えたようなと表現する。

少なくともそこから肯定的な意味合いを取り出すことはできない。

ただこの著書全体を通して読み終え、大田洋子の生涯を鳥瞰した時、江刺がそのようなタイトルをつけたことに違和感はなかった。

 

コピーを何枚か取ったにせよ、図書館に本を返してからはそのことを忘れていたのだが、ブログを読んだ遠方の友人が「草饐」とはどういう意味かと尋ねて来た。

 

もう一度、調べてみる。今度はもっと丹念に。

結果は同じ。

私の結論は、「これほど探しても熟語として出てこないのだから、これは作者の造語ではないか」

だった。何か返信しなくてはならないから、当てずっぽうにそう応えた。

 

しかし、どうにも気になる。

 

そこで、広島文学資料保全の会の代表土屋時子さんにお尋ねのメールを送ってみた。

ほとんど折り返しのようにして土屋さんからメールが届く。

ちょうど、江刺さんに電話する用事があったとのこと。その電話でタイトルの由来を聞いてくださった。

 

「大田洋子さんは性格や作家としての体臭が、草が蒸れている感じなので、編集者と相談を重ねて決めた私の<造語>です。饐えるとは、飲食物が腐って酸っぱくなった臭いのことですが、それも爽やかさとは真逆の作家の<個性>として考えました。」

とのこと。

「爽やかさとは真逆の作家の〈個性〉」

江刺さんが大田洋子の人生とどれだけ激しく格闘しながら『草饐』を書き上げたかが伝わってくる言葉だ。

そして、これほどストレートに表題にこの造語を使うというところに、いい意味での若さもまた感じる。さらには1971年という時代の匂い、いや臭いを嗅ぐこともできる。

 

すごい言葉をつくり、使ったものだ。

編集者はいいとしても、商品として売る方の会社は、このタイトル、すんなり受け入れたのかどうか。

いずれにしても、復刊は叶わないのだろうか。