「ヒロシマ文学を世界遺産に」(「文学界」2015年9月号 堀川惠子)『ヒロシマの「河」劇作家・土屋清の青春群像劇』(2019年藤原書店3200円)『被爆者の人生を支えたもの―臨床心理士によるインタビューからー』(被爆者の心の調査プロジェクト編 渓水社 2018年 2500円+税)

テレビをぼうっと眺めているように、暇に飽かせて小説を読む。

気がつくと横になっている。あるいは寝床で読む。

はて、どこまで読んだのか、前の頁を何ページも繰ることも多い。

よく忘れる。読んでも読んでも忘れる。でも読まないよりいい。読んでいるとき「面白い」と思えればそれでいい。

文章を読むのも書くのも、いわば”筋トレ”と岡崎勝さんは云う。読み書き続けても”筋力”が増強することはないだろうが、衰えのスピードは少し遅くなっていくのではないかという淡い期待がある。

 

3月に知り合った広島の精神科のdoctor、Oさんが、堀川惠子さん雑誌『文学界』(2015年9月号)に書いたヒロシマ文学を世界遺産に」という文章のコピーを送っていただいた。

堀川さんの近刊『暁の宇品』のことをメールに書いたことがきっかけで、貴重な論稿を読むことができた。

 

長文の論考だが、堀川さんの主張は明瞭だ。

戦後、GHQの統治下、”空白の10年”と言われる厳しい言論統制の時代があった。報道も行政もなすすべを失っていく、あるいは積極的にGHQに取り込まれていく中、”表現”をもって抵抗をつづけ、多くの文学作品を残したのは、原民喜峠三吉、太田洋子、栗原貞子などの文学者たちだったとして、彼らが空白の10年の中どのような執筆活動を行ったのか詳細に論じている。

 

結語は、この国の政治への厳しい批判とともに、文学資料を保存していくことの重要さを決意とともに明らかにしている。

 

社会に役に立たない文系は削減せよ、と臆面もなく言う官僚たちに伝えたい。ヒロシマの『空白の10年』を埋めたのは報道でも行政でもない、文学の力だった。私たちは「言葉」によって他者と交流し、議論し、批判しあい、よりよい未来を作り上げようとする。同時に「言葉」や「文学」を通して過去を学ぶ。文学とは、市民がよりよい社会を目指すための基礎体力ともいえる。削減されるべきは、他社に伝わる言葉をもたず、歴史のレトリックすら正しく理解しようとしない政治家の議席数だろう。文学を安易に否定することは、とりもなおさずこのくにの文化や歴史、そして未来をも否定する愚論であることは、広島の歴史が伝えている。/被爆者の年齢は今年80歳を超えた。遠からず、経験者のいない時代がやってくる。その時、あの年の8月6日、そしてその後に広島で起きた事々を伝えてくれるのは「証言記録」であり、「文学作品」に他ならない。被爆者でもあった文学者たちは、あの地獄絵図の只中に身を置き、そして塗炭の苦しみの果て重いメッセージを後世に遺した。その言葉の数々は、この世界に核兵器が存在する限り、色褪せることはない。

 

文中でも触れられている「広島文学資料保存の会」の代表、土屋時子さん。彼女は陸軍被服支廠の保存問題にもかかわり、youtub配信の「hifukusyoラジオ」の司会も務めている。

 

その土屋さんが中心となって編んだヒロシマの「河」劇作家・土屋清の青春群像劇』(2019年藤原書店3200円)を読んだ。

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「昭和の闇と光を生きた劇作家」(土屋時子)土屋清によって書かれた『河』という芝居もまた広島の『空白の10年』を描いた貴重な「文学」である。

本書は全体が土屋清の評伝でありながら、占領期の「空白の10年」に対する明確な批評性を持っていることに注目したい。

芝居「河」の上演台本(2017年版)も収録されている。峠三吉に対する土屋の輻輳した思いが込められていて、私には痛々しさすら感じられた。土屋の変転する人生が芝居に向かって収斂されていくさまもこの本には再現されているが、なにより空白の10年の中で文学に活路を求めようとした人々の苦悩が上演台本の内外にあふれている。この本にたどり着けて良かったと思う。

どの論稿も懐旧にとどまっておらず、当時と現在を往還する視点が共有されている。

2011年に土屋時子さんと『ばらっく』という芝居を演じた歌手の趙博さんは、『河』を論じながらこうの史代の『この世界の片隅に』を俎上に載せる。

 

こうの史代この世界の片隅に』は、コミック・映画ともに大ヒットを遂げた。しかし、そこで描かれ強調されるのは、悲しみの醸成と不条理の受諾であると私は看取した。つまり「わしゃ、ぼーっとしとるけぇ」が口癖の主人公は無垢でけなげで、すこしおっちょこちょい(要するに可愛い「女」)だ。その彼女が「戦争という天災」に遭遇する。それでも希望を捨てずに飄々と淡々と生きていく―この作者は、原爆投下の事実をあえて遠景に置くことで「既存の被爆者像」の解体にみごと成功した。だからこそ、漫画本は130万部の売り上げを、映画は200万人の観客動員を達成できたのである。一言でいうなら「被爆体験のサブカルチャー化」だ。

 

在日朝鮮人の趙さんにとって、みずから歌い表現するサブカルチャーとは、

 

もともと主流文化に対抗する被差別少数者の異議申し立ての一形態であり、いきおい民族や階級・階層に関連した政治的色彩を帯びることは当然だった。つまり対抗文化として、発達した資本主義国や第三世界に登場したのだ。

 

というものでありながら80年代以降のサブカルチャーは政治性や党派性を無視して「趣味」の領域に大衆を誘導し、「おたく文化=サブカルチャー」という図式をつくってしまったとする。

 

従って、「被爆体験のサブカルチャー化」(=サブカル化)とは、「暗く・重く・辛く・醜い」被爆及び被爆者のイメージを、誰でもがアクセスしやすいように「明るく・軽く・楽しく・美しく」意図的に改造するという意味である。『この世界の片隅に』は実に明るく、軽く、楽しく、美しい作品なのだ。

 

この世界の片隅に』もまた被爆体験の継承の現代的な在り方ではないか、という容認の視点も私は100%否定しない。一方で趙さんの自らの出自に立った際立つ批評性はヒロシマ・原爆文学の領域を超えた重要な指摘である。この国の「文学」の足腰の強さ、奥行きの深さを求める視点からして、欠かすことのできないものだと思う。

 

前出のOさんが関わった被爆者の人生を支えたもの―臨床心理士によるインタビューからー』(被爆者の心の調査プロジェクト編 渓水社 2018年 2500円+税)

をいただいた。戦後70年を経ての被爆者へのインタビュー集である。

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たくさんの被爆者へのインタビューを読んできたが、いままでのものとは趣をかなり異にする。引き込まれるインタビュー集だった。

被爆者の講話は、たとえば原爆資料館に記録として残されているものは、被爆体験の中心的な部分に焦点が当てられているが、時間的に短く、例えば戦後のことや、原爆以前のことなどの生活誌的な部分はほとんど語られてない。

一方、私が中学生とともに修学旅行で何人もの方から伺ったお話は、被爆体験を中心にほぼ1時間近いものでかなり詳細に体験が述べられる。しかし、家族関係や親戚との関係の軋轢や鬱屈した感情などは、「配慮」から省かれてしまうことがほとんどだった。

いきおい、被爆者の講話は被爆者という属性のみが前面にでたものになりがちで、最後に「二度と戦争はいかん、原爆はだめ」という、紋切り型でまとめられてしまう。中学生もまたこの紋切り型で感想をまとめがちだった。

 

このインタビュー集は、その意味で今まであまり目にしたことのない被爆者の証言集である。

誤解を恐れずいえば、被爆体験はその方の人生のワンノブゼムであり、被爆体験をかかえながらの長い戦後の生活の、避けては通れなかった紆余曲折と、喰うために自ら培ってきた処世術の数々、あるいは人生訓のようなものがリアルに述べられている点で、これまた誤解を恐れずに言うが、きわめて新鮮であった。

これは聞き手の姿勢によるところが大きい。聞き手が落としどころを安易に準備せず淡々と聞いているため、話者の方もその枠組みにとらわれず、思いのたけを自由にのびやかに話しているという印象を受けた。

 

はからずもここでは「空白の10年」だけでなく、被爆後70年を生きてきた人々の意識の変遷が浮き彫りになっていると思った。

 

今一番しんどいのは、自分が被爆者ということが言えないことです。被爆者ということがわかったら、絶対によく見てもらえませんから。気の毒とかそんなことは受けたことがありません。被爆者の方はみんなそうだと思いますが、構えたような感じになります。知られたくない。お金がかかわるからややこしんですが、40万円とか出たりしますでしょう。みなは税金払っているのに、「おまえらは」という感じですよね。

 

しかし定年になり、原爆資料館でボランティアになろうと決心し、そのための講座を受けた。その一つとして、資料館の地下室に案内され、そこに納めてある被爆遺留品の匂いを嗅いだ瞬間、原爆の光景を一気に、全部、思い出し、原爆の外傷体験とともに生きざるをえなくなった。

 

触りたくない気持ちの方が大きいです。子どもの時、あまりにたくさん死んだ人を見すぎました。目に浮かんできたらどうにもなりません。

 

可部の河原での、ポンポン内臓が破裂する音が思い出されたら、もういけません。叔父もそこで、家の者が焼いたんです。誰も焼いてくれませんから。自分で家族のものが。

                        (加納博道さん)

 

 

Q奥様が、すごく心の支えになったというふうに思われましたか。

いや、思わんです(笑)言うことを聞かない女でね(笑)。右と言えば左を向くし、「気 をつけろ」と言えば火をつけるし、「しっかりしろ」と言えばうっかりするし、言うことを聞かない女だった。

Q奥様が亡くなられたのは今年ですか?

三月です。この間四十九日を済ませて。

Qこっちへ越してこられてからですか?

そうです。

Qずっと看病されて?

ええ。

Q奥様も原爆の影響が強い?

強いですね。膀胱がんだったと?

Qええ。最後、十分にしてあげられたんですね。

毎日、毎日、見舞いに来ましてね・・・(沈黙)。最期は元宇品にある病院。あそこへ入れたら終わりですね。ただ、栄養の点滴を打って、酸素を吸わせる程度で。

Q場所はいいところにありますけど。

・・・行ったら「今、亡くなられました」と。間に合わなかったです。人間死ぬのもあっけない。うまいこと死ねばいいが、ああいうふうに、毎日見舞いに行かないといけないのも大変です。

姉も4,5年前に死にました。これもがんで死にました。肺癌じゃないかと思うんですが、記憶ないです。死ぬのは癌ですね。被爆したら。若いころから、癌とか病気の不安は、ずっと持ってきました。いつ死ぬんかと思うてきたけど、死なない、これが。もう大概の病気はしました。ただ、子宮癌はしていませんがね(笑)

                     (大草節郎さん)

 

Qご主人は被爆者の集いにはいかれますか?

夫 行きませんね。原爆の話を聞くだけで嫌ですね。トラウマみたいなのもあります。今でもときどき飛行機が高いところを飛んでいる音を聞いても、ハッと、一瞬、いやな思いがよみがえります。特に胡麻油ですね。被爆したときやけどした人に、みな、油を塗っている臭いが鼻について、今でも胡麻油の臭いがダメですね。

妻 家では胡麻油は使いません。

Q 8月6日はどうされていますか?

夫 でじっとしています。昔、まだ学生の頃でしたが、原爆の日というと布団にもぐっていたこともあります。思い出すのが嫌で。

                    (佐藤茂さん)

 

70年を経てもなお被爆者が被爆者と名乗れない事実。引け目を感じながら生活している実態が随所で述べられる。

また、「臭い」や「音」に関する証言は想像を超える。

 

貴重な証言集である。