「5月のあれこれ③」を書いたのが6月20日。備忘録を書かぬ間に時間はすごいスピードで過ぎていく。
今日は6月28日。今月も残すところあと2日。
勝手に追われているのだけれど、追われすぎるのも面倒なので、「6月のあれこれ①」をコンパクトに。
6月3日〜5日 一年ぶりに広島へ。
6月3日、一番の目的だった「生ましめんかな」の詩人栗原貞子の資料室訪問。案内してくださるのは土屋時子さん。資料室は広島女学院の図書館の中にあって、ふらりと訪れることはできない。中澤晶子さんが間に入って見学の段取りをとってくださった。
土屋時子さんとは、3月のギャラリー古藤での公演「神部ハナという女の一生」の時に初めてお会いした。
広島文学資料保全の会の代表でもある土屋さん、演劇女優でもあり、ミュージシャンでもある。旧陸軍被服支厰の保存を求めるための運動の一環、hifukusyoラジオの司会も務めている。さらには『ヒロシマの河 劇作家土屋清の青春群像劇』(2019年・藤原書店)の著者の一人でもある。
再会のチャンスがこんなに早く訪れるとは思わなかった。
わざわざクルマでホテルまで迎えに来てくださった。恐縮。
女学院までの途中、新サッカースタジアムの正面に移転工事中の太田洋子の碑を見せていただく。
碑文は、『屍の街』の中から抜き出されたもの。
少女たちは
天に焼かれる
天に焼かれる
と歌のように
叫びながら歩いて行った
移転工事中の碑
碑の設計は画家四國五郎さんによるもの。スタジアム建設による移転だが、土屋さんは「たくさんの人の目に触れるのでいいかもしれない」。
四国五郎さんについては昨年、息子の光さんの手によって『反戦平和の詩画人 四國五郎』(2023年・藤原書店)がある。力作。
土屋さんは資料室がある広島女学院に長く勤務された。新しい図書館に栗原貞子資料室を創設するときも、中心として動かれたそうだ。
フロアの一角にある栗原貞子資料室。目に見えるところだけでなく、奥の奥までさまざまな資料を見せていただいた。
途中から広島文学資料保全の会の事務局長の川口悠介さんも加わり、貴重な資料を見せていただいた。
2時間もいただろうか。
昨年、貞子の旧宅から直筆の新資料、メモや日記など100点が見つかったとのこと。
これらの調査も土屋さんら保全の会が行っている。
実際に見せてもらった講演のための膨大な読み原稿などもこの時に見つかったものだそうだ。手書きの原稿にはなんとも言えない迫力がある。
栗原貞子という詩人の面だけでなく、活動家〜被曝体験を継承しようとする〜としての一面も凄まじいほどの気力で屹立していることを、膨大な資料から感じ取ることができた。
93年4月に栗原は、次のように書いている。
一度目はあやまちでも
二度目は裏切りだ
死者たちへの
誓いを忘れまい
加害者としての立場を常に念頭において詩作に向かった詩人だった。
帰りも土屋さんが、平和公園近くの広島工業大学広島校舎まで送ってくださる。
5月1日に事前学習の講師として訪れた晴海中の3年生が、ここで被曝体験者のお話をクラスごとに聴くことになっている。
担当のR先生のクラスに入ってお話を伺う。
その後、平和公園の中をボランティアで案内してくださる方に5班ずつついて公園内を碑めぐりをする。
市立高女原爆慰霊碑 原爆死没者慰霊碑 韓国人原爆犠牲者慰霊碑 原爆供養塔 などをめぐる。
韓国人原爆犠牲者慰霊碑の英文の説明板を読む中学生
私が最後に中学生を引率したのは10年前。
あの頃と違うなあと思うのは、先生たちがほとんど大きな声を出さないこと。
中3になりたての生徒たち。こうして外に出るとつい調子に乗ってやらかす生徒がいるものだが、ここにはそんな雰囲気もない。
「大声で制止する」や「怒鳴りつける」というのも最近はあまり流行らないらしい。
大声が通り相場だった私など、その意味では今なら文字通り「前世紀の遺物」ということになる。
陽が傾きかけた頃、生徒たちは宿舎へ。
まだ開いていた国立祈念館の企画展「暁部隊の救助」を見る。
原爆投下直後の広島に入った中学生たちの証言。
30分ほどの映像だが、丁寧に作ってあった。
夜、毎日新聞の記者宇城昇さん、中澤さんとタイ料理のお店で会食。
宇城さんとはメールのやり取りはあったが、2年前にお会いして以来の邂逅。
「グランデ広島」などに書かれている文章にはいつも驚かされている。
GRANDE ひろしま(2024年夏号)
6月4日
7時50分、原爆の子の像の前に晴海中の生徒たちが集合。快晴。暑いぐらい。
名付けてピースセレモニー。
実行委員会の生徒たちがつくった平和宣言
合唱「H EIWAの鐘」
献花・千羽鶴献呈
そして8時15分の黙祷
最後に中澤さんのお話。
生徒たちは、『ワタシゴト』の著者のお話を初めて聴く。
平和宣言は5人の生徒による呼びかけ方式。しっかりしたもの。
合唱の集中ぶりにも驚かされた。
このあと、記念写真を撮って広島駅へ向かうという。
ここで離脱。広電で広島駅。
9時29分の呉線快速安芸路ライナーで広駅。駅前からバスに乗り下蒲刈島へ着いたのが11時頃。
蘭島閣美術館別館の須田国太郎展を見ようと思っていたのだが、残念ながら火曜日は休館。
島の中をのんびり散策。ほとんど人の姿は見えない。
海は凪いでいるのだが、潮の流れがくっきりと見える。良い漁場があるのだろう。
バス停で地元の高齢女性とおしゃべり。地の言葉、イントネーションが心地よい。
ホテルに戻り小休止。
今回、3つ目の目的である「お墓」へ。
平和記念公園の南に歩いてすぐのところに西応寺という小さな古刹がある。
ここに峠三吉のお墓がある。
墓所はそれほど広くなく、お墓は15m✖️6列ほど。
しかし4往復ほどしてもなかなか見つからない。
スマホでネットの写真を見て、周辺のお墓の様子を見てあたりをつけ、ようやく見つかる。題字は「峠家累代之墓」。三吉の名はない。
お寺の入り口に「被爆者が描いた絵を街角に返す会」の陶板画の碑。B4ほどの絵が2枚。
作家の早坂暁さんらが提唱した運動で、市内86箇所に碑を置いたその第一号だそうだ。
ひとり呑みに出かける途中、袋町電停の近くの旧日銀広島支店へ。
「近代広島の歩みと海外移民」。かなり中身の濃い展示。
3月にここで山内若菜さんの個展がひられた。
まだ少し明るいが、広電に乗り銀山町電停下車。2年前の訪れた「Aya - coya」へ。
小体(こてい)なカウンターだけの店。2年前は6人で。ほとんどそれで満席状態。
この日は客は私一人だけ。
話の面白い女性店主とよもやま話を重ねて2時間あまり。つい飲み過ぎてしまう。
5日、もう一つのお墓へ。
昨日に続く快晴。広電で八丁堀。白島線に乗り継ぐ。
終点の白島から歩いてすぐのところに円光寺。ここに原民喜の墓がある。
こちらの題字は「倶会一処」(処は旧字)。右側側面に6名の方のお名前が。
3番目と4番目に民喜と文彦の文字。民喜の没年は昭和二十六年三月十三日四十六歳。
となりの文彦さんは昭和二十年八月六日七歳。
文彦さんは民喜の次兄守夫さんの子だそうだ。
歩いて近くの中国郵政局へ。
ここに栗原貞子の「生ましめんかな」の碑がある。
朝早いせいか、広い前庭を清掃している女性が二人。丁寧に挨拶をされる
生ましめんかな
栗原 貞子
こわれたビルデングの地下室の夜であった。
原子爆弾の負傷者達は
暗いローソク一本ない地下室を
うずめていっぱいだった。
生ぐさい血の匂い、死臭、汗くさい人いきれ、うめき声
その中から不思議な声がきこえて来た。
「赤ん坊が生まれる」と云(い)うのだ。
この地獄の底のような地下室で今、若い女が
産気づいているのだ。
マッチ一本ないくらがりでどうしたらいいのだろう
人々は自分の痛みを忘れて気づかった。
と、「私が産婆です。私が生ませましょう」と云ったのは
さっきまでうめいていた重傷者だ。
かくてくらがりの地獄の底で新しい生命は生まれた。
かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。
生ましめんかな
生ましめんかな
詩の中では産婆は亡くなったことになっているが、後年、生存されていることが確認された。栗原は直にその方にお会いしている。
昼前、旧知の友人Uさんと会う。40年ほど前、職場の同僚だった方。
比治山下の豆腐料理のお店でランチ。庭の見える静かな部屋。ランチとしては少し贅沢。互いの病気が話のテーマになるのは仕方がないこと。
タクシーで広島駅。14師29分ののぞみ。19時には自宅に。