『最後の決闘裁判』決闘ならばどちらかが死ぬことで白黒がはっきりつくが、現代においては裁判を何度重ねても、被害者に対するねじくれた感情は消えることなく澱のようにたまり、また同じような事件が起きると攪拌されて水面に浮かび上がってくる。 この感情は、中世における女性への視線とどこが違うのだろうか。

109シネマズグランベリーパーク。11月4日。

『最後の決闘裁判』(2021年製作/153分/PG12/アメリカ/原題:The Last Duel/監督:リドリースコット 出演:マット・デイモン アダム・ドライバー ジョディ・カマー/日本公開:2021年10月15日)

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1386年、百年戦争さなかの中世フランスを舞台に、実際に執り行われたフランス史上最後の「決闘裁判」を基にした物語を描く。騎士カルージュの妻マルグリットが、夫の旧友ル・グリに乱暴されたと訴えるが、目撃者もおらず、ル・グリは無実を主張。真実の行方は、カルージュとル・グリによる生死を懸けた「決闘裁判」に委ねられる。勝者は正義と栄光を手に入れ、敗者は罪人として死罪になる。そして、もし夫が負ければ、マルグリットも偽証の罪で火あぶりの刑を受けることになる。人々はカルージュとル・グリ、どちらが裁かれるべきかをめぐり真っ二つに分かれる。「キリング・イヴ Killing Eve」でエミー主演女優賞を受賞したジョディ・カマーが、女性が声を上げることのできなかった時代に立ち上がり、裁判で闘うことを決意する女性マルグリットに扮したほか、カルージュをマット・デイモン、ル・グリをアダム・ドライバー、カルージュとル・グリの運命を揺さぶる主君ピエール伯をベン・アフレックがそれぞれ演じた。

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西欧の中世ではまだ子どもはまだ発見されていなかった(フィリップ・アリエス)。そこにいたのは労働力としての子どもであり、子ども期を生きる存在としての子どもが発見されるのは18世紀まで待たねばならなかった(ルソー『エーミール』)。

女性も単なる性行為の対象であり、産む性としての存在価値だけが求められる「もの」だった。

リドリー・スコットは14世紀の欧州を舞台として、そこに近代以降の価値観を微塵も持ち込むことなく、西欧近代とは全く異なる男の欲望と暴力の世界を描き切った。

 

圧巻と言っていい。

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騎士カルージュの留守中に訪れたカルージュの旧友ル・グリは、カルージュの妻マルグリットを凌辱する。

この事件が国中に広がり、国王の前での審問が開かれ、事実関係がそれぞれの主張で食い違う。結論として両者の決闘で勝った者の主張が「正しい」ということになるという

トンデモ裁判。

もちろん、闘技場における二人の男の『決闘』が見ものであることは間違いないし、この迫力はすさまじい。

しかしこの映画の見どころは、被害者の夫、加害者の男、被害者である妻の3つの視点から「事件」が検討されていく点だ。

かといって

3者の視点が全く違っているかというと、その違いはわずかなものでカメラの位置がずれている程度のもの。だからわたしたち観客は何度も似たようなシーンを見せられることになるのだが、ここがこの映画の面白いところ。真実というものは、起きたことは変わらなくてもその人の勝手な思い込みと社会システムの中でつくられていくものだ。

カルージュは妻の誇りを守るというようなことを言うが、これはためにする理屈で、肚の底にはル・グリとその庇護者に対する憎しみと自分自身のプライドをいかに守るかだけがある。

ル・グリは、凌辱はなかったとするのかと思ったら、性行為は間違いなくあったがそれは互いの恋情によるものだと主張。

妻のマルグリットだけが間違いなく強姦だったと主張。

しかし、裁判が進行する中、マルグリッドは妊娠してしまう。

教会の審問では、女性は性行為で頂点に達したときだけ妊娠するという俗説を根拠にマルグリットに性行為は合意の上だったのではないかと詰め寄る。

マルグリットは最後までそれを否定。

そうして決闘裁判に。

決闘裁判で負ければ、カルージュは死ぬだけだが、マルグリットは吊るされ、生きたまま体を引き裂かれることになっていることをあとになって知る。

 

この映画のすごいのは、決闘シーンの周囲に、この決闘をわくわくして楽しみにしている王族たちやマルグリットの主張を最後まで認めない親しい女性、さらには多くの決闘を愉しむ群衆を配していることだ。

 

結果はカルージュが辛くも勝つ。

国王に称賛され群衆のほめそやされるカルージュ、意気揚々と馬に乗って引き上げるカルージュへのマルグリットのひそやかな憎しみの表情が、なんともいい。

中世だろうが現代だろうが、男のプライドなどつまらぬもの。抑圧される立場にあるもののの中にある普遍的な怒りの火は簡単には消えない。

現代の日本においてもそれは変わらないのではないか。

山口敬之が伊藤詩織さんに対して行った性暴力=強姦事件では、未だに山口は無実を主張、合意があったと言い、世間もまた伊藤さんに対するどこかねじくれた感情を隠していない。

決闘ならばどちらかが死ぬことで白黒がはっきりつくが、現代においては裁判を何度重ねても、被害者に対するねじくれた感情は消えることなく澱のようにたまり、また同じような事件が起きると攪拌されて水面に浮かび上がってくる。

この感情は、中世における女性への視線とどこが違うのだろうか。

中世の考証をこれ以上ないまでに極めておいて、リドリー・スコットは、中世を鏡として脈々と現代につながる男の業を見返せとでも言っているのだろうか。

 

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