有観客にこだわったのは日本側と東京スポーツ。 コロナインパール作戦はつづく。  小池都知事、入院。何かある?勘繰りたくなる。  文科大臣、徳島と福島くらい区別をつけてほしい。  『路上』150号=終刊 創刊は1966年1月、60年安保闘争は「路上」でこそ行われた。

きょう、沖縄慰霊の日。

報道がずいぶん少ない。埋め草のような記事はたくさんあるのに。

 

きのう、『百日告別』(2015年)という台湾の映画をみた。主人の一人シンミンは婚約者を交通事故で亡くす。二人で訪れるはずだった沖縄へシンミンは一人で船で向かう。

ある町の急坂を上るおばあさん、追いついたシンミンはつかず離れず一緒に坂を上る。おばあさんは亡くなったおじいさんのことをひとりごとのように。ウチナーグチは難しく日本語の字幕が出る。もちろんシンミンにはわかるはずもない。上りきったところで、おばあさんはふところから飴玉を一個取り出しシンミンに手渡す。「わたしは飴玉、食べちゃいけないんだどねー」。微笑みかわすふたり。シンミンはひとことも話さない。穏やかいいシーンだった。

 

 

 

5者協議で「有観客」を主張したのは、IOCのぼったくり男爵たちではなく、日本側だったことを東京スポーツが報じたとのこと。今朝、Twitterで知った。東スポは、

 

 

 複数の関係者の証言によると、今回発表された「有観客」に最後までこだわったのは、日本側だったという。ある組織委関係者は「IOCはテレビ放映権料さえ手に入ればいい。むしろさっさと無観客を発表し、日本の世論を納得させてほしいという声もあった」と明かす。  

 バッハ会長、ジョン・コーツ副会長(71)ら〝五輪貴族〟による日本国民を軽視する発言が飛び出した先月には、国内で中止論が噴出した。その時点で強行開催するための最終手段として「無観客」のカードを切る手もあったが、政府と組織委はあくまで有観客にこだわった。その理由について前出関係者は「チケット収入もあるが、やはり少しでも祝祭ムードの中で五輪を成功させたという事実が欲しかった」と打ち明けた。やはり、各方面で指摘されてきたように、秋の衆議院選挙を見据えたものだったのか…。

 

 

またアクセル、だ。ワクチンというブレーキを踏みながら、有観客に酒もつける。

酒については、今朝の報道だと販売しない方向とのことだが、持ち込みはどうなるか。大声での応援や座席間の距離など、現場対応は苦慮することになるだろう。

 

専門家会議の意見を適当にちりばめながら本質的なところは換骨奪胎。大博打に出たということだ。

 

定員の50%で1万人以内、というが、それは「観客」に限るのだそうだ。観客でない主催者や招待者などの関係者は数には入らないと武藤事務局長。この人物、いつも思うがどうも怪しい。

 

人間にどんなレッテルを張ろうが、物理的には感染の可能性のある一個の人間にかわらない。コロナはレッテルで人を判断しない。

開会式の観客以外の「招待者」が1万人いるという話。ここに関係者が加わる。お手盛りで3万人になるのではないか。

 

後先の判断などまったくない「突撃!」だ。あとは野となれ山となれ、か。撤退を言い出せないまま進軍ラッパを吹く輩はいつだって責任をとらない。

2021年コロナインパール作戦の開始。

 

小池都知事は体調不良で入院。額面通り受け止めるわけにはいかない。都議選の告示は25日。オリンピック、コロナ、都議選・・・病室で丸山、橋本、菅とは一線を画して情勢をにらんでいるはずだ。なにか「政局」を企んでいるのではないかと勘繰りたくなる。

 

 

21日の文科相会見。冒頭。

 

大臣)
 おはようございます。
 冒頭、私からは1件です。大学拠点接種については、昨日の12時までに文部科学省に対して261大学から相談が来ており、そのうち、174大学が既に申請を行ったと聞いています。このうち、現時点で、21日から接種開始の目途が立っているのは16大学となっており、このほか、21の週から接種開始に向けて、調整している大学が数大学あると聞いていますが、なお、各大学に状況を確認しているところです。21日からワクチン接種を開始する大学の事例として、これまで発表した東北大学広島大学弘前大学のほか、例えば福島大学は、近隣の鳴門教育大学の学生・教職員及び留学予定者の接種を実施をする予定、また、神戸市看護大学が近隣の神戸市外国語大学の学生・教職員への接種を実施予定となっているなど。

事務方)
福島大学ではなく徳島大学です。

 

揚げ足をとるようだが、「福島大学は近隣の鳴門教育大学の・・・」といった段階で気がつかないものだろうか。書いてあるものをそのまま読んで気がつかない大臣。

あとはあまり面白い話題はなかった。

 

 

 

仙台在住の佐藤通雅さんの個人誌『路上』が終刊を迎えた。150号。創刊は1966年1月。55年間刊行を続けられた。私は熱心な読者とはいいがたいが、25年ほど講読した。

タイトルの「路上」は、1960年安保が闘争が路上で行われたことによる。

私はこの路上を「現場」と読み替えてきた。

短歌や、短歌評論は難しくてなかなか読み込めなった。往還集という佐藤さんの日録は欠かさず読んだ。ことに3・11以後、この欄は読むのがつらい時が多くなった。

 

寄稿の依頼があったのが8回。「試写室への招待」という自著を紹介するコーナー、「つぶて時評」という状況論のコーナー、それと学校問題の特集などだ。誌面の格調に耐えうる文章だったかというと、はなはだ心もとない。

 

これほどの長いタームで、自分の位置と他者の位置、そして社会のありように丹念に向き合う形で発信を続けてこられたこと、私には想像を絶すること。深く敬意を表したい。

 

終刊号『ゆきしろ庵雑報』(編集後記のようなもの)の末尾

  

  私の表現活動は、以後も可能な限り続けるつもりですが、どのような形に

  するかは未定です。もしかしたらこどかで、またお会いできるかもしれま

  せん。皆様のご健闘をお祈りします(通)

 

 

 

  老いのさきに死のあることのまぎれなさ藍重くして梅雨の花垂る

                           「強霜」 から

 

 

 

 

仙台を中心に文化のあれこれをweb上で発信している「レコーダ」というブログから

佐藤通雅さんの紹介を使わせていただきます。

 

◇私は高校までを岩手県水沢市(現奥州市)で過ごし、1960年(昭和35)の安保闘争の翌年、東北大学に入学しました。学生運動の盛り上がりがまだ残る中、自分の表現のあり方を考えた私は、あらゆるジャーナリズムから自立した個人編集誌を出したいと思うようになります。吉本隆明らが編集・発行する『試行』、村上一郎の『無名鬼』、北川透の『あんかるわ』などを読んで、自分の力で表現を開いて行こうとする姿勢に共鳴したのです。

 主に費用の問題から、短歌や評論を掲載する『路上』を創刊したのは就職後です。教員1年目の1月にわずか70部で出発し、年に2回から3回のペースで出し続けて今に至ります。「何ものにもおぶさることなく、宣伝もせずにやっていこう」と決め、費用はボーナスを丸ごと注ぎ込みました。

 しだいに購読者が増え、部数も増えて行きました。仙台駅の西口にあった「八重洲書房」に置いた50部、60部が、たちまち完売するようになります。権威にとらわれない姿勢に共鳴し、『路上』に作品を発表したいという方も集まって来ました。今では高名な歌人になった方々が原稿料も無しに書いてくださるなどして、『路上』は文学・思想の総合誌に成長します。

 しかし一人で原稿を書き、編集をし、校正をし、印刷所とやり取りをし、発送までするのですから、500部が限度、最高は600部でした。千部単位の発行を望む声もありましたが、共同作業を導入しなければ不可能です。考えて、私は個人で出し続ける道を選びました。

 『路上』を発行し続けて、今年は50年目です。励みにしていた先行する自立誌も、今では一つも続いていません。私がここまで続けられたのは、栄誉を求めず、ただ文学的な価値だけを追求してきたからだと思います。そしてもう一つ、一人でやって来たからこそだ、とも思っています。

 

◆佐藤通雅さんは現代の代表的な歌人の一人。1943年(昭和18)岩手県に生まれ、東北大学教育学部卒業後、宮城県の高校教員として勤務した。歌集『昔話(むがすこ)』(2013年/いりの舎)、歌集『強霜』(2012年/砂子屋書房:第27回詩歌文学館賞短歌部門)、歌論『宮柊二 柊二初期及び『群鶏』論』(2012年/柊書房)など多数の著書がある。

 

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