『空白の天気図 核と災害 1945・8・6/9・17』(単行本1975年 1次文庫1981年 ともに新潮社刊)台風以前の8月6日から予想をはるかに超える巨大台風を受けるまでの1か月間余、広島がどんな様子だったのか、多くの被爆者はどう病み、生きのび、逃げたのか、家族の捜索はどうなされたのか、人々の精神がどんなふうに追い込まれていったのか。

3月終わりに開いた『中澤晶子さんを囲む会』(オンライン)で、中澤さんが広島市の江波山の気象館のことに触れて、柳田邦夫『空白の天気図 核と災害 1945・8・6/9・17』(単行本1975年 1次文庫1981年 ともに新潮社刊)を紹介してくださった。

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新潮社刊 単行本表紙 1975年

 

私が今回買い求めたのは、東北大震災を契機に文芸春秋から新版の文庫として2011年9月に刊行されたもの。450ページを超える大作。

 

1945年8月6日の原爆によって打ちひしがれた広島の人々は、その1か月余り後、枕崎台風という未曽有の暴風と洪水に襲われた。

広島県下の死者及び行方不明者の数は2012人。原爆による死者が20数万人に上ったことに比べれば、比較にならない数字だが、台風の被害としては大変な数だ。台風の上陸地九州地方の死者442人と比べてみればその異様な多さがよくわかる。

 

柳田は本書執筆の動機として次のように書いている。

 

戦争の時代と戦後史との接点にある、この事件の知られざる部分に光を当ててみたいというのが、私のそもそもの出発点であった。もちろん私の意図は、単なる事件の発掘の実にあったわけではなく、原子爆弾による殺戮と台風による災害という二重の苦難の中で、人々がどのように生きあるいは死んでいったのかを知りたいというのが、私の根底にあった意識であった。とりわけ私の心をひきつけたのは、死傷者や病人が続出し、食うや食わずやという状況に置かれながらも、職業的な任務をしっかりと守り抜いた人々が実に多かったという事実であった。

 

焦点があてられたのは、広島地方気象台の台員たちだ。

気象にかかわる仕事について全く知識のないが、軍の統制下にあった原爆投下の前後も、とりわけ事後も「欠測」をすることなく、観測を続けた人々がいたことに驚かされた。

なにゆえ枕崎台風が、未曽有の被害を広島県民に与えたのか。それは暴風と洪水の規模が予想をはるかに超えたすさまじいものであったことにとどまらない。

1941年12月8日以降、日本の気象台は天気予報を発してこなかったし、枕崎台風を観測した台員たちも途絶した通信網にかなうわけもなく、正しい予報を各所に届けることができなかったのだ。広島県民は、未曽有の規模の台風が襲来することを予想できず、ようやく雨露をしのぐ程度の掘っ立て小屋をつくったばかりのころのことだった。その意味で被害の大きさは、人為的なものともいえる。

 

このノンフィクションは、原爆でほとんどの資料が失われていた中で、まだ当時の人々が健在であった時期、と言っても30年近くあとのことだが、にインタビューを重ねて当時の様子をしっかりと記録したことに大きな意義がある。

とりわけ、台風以前の8月6日から予想をはるかに超える巨大台風を受けるまでの1か月間余、広島がどんな様子だったのか、多くの被爆者はどう病み、生きのび、逃げたのか、家族の捜索はどうなされたのか、人々の精神がどんなふうに追い込まれていったのか、を浮かび上がらせた。

台風の調査を重ねるなかで、台員たちは「黒い雨」が8月6日にどのような時間にどの範囲でどんなふうに振ったのかについては、生き残った人々から見聞することになる。

今に至るまで黒い雨の第一次資料としての価値を有する調査を、当時の気象台の職員が行っていたのだ。

原爆の調査に入っていた京都大学の研究者たちも山津波に襲われ、何人も命を落とす。

当時の救助に至るまでの経緯の中には、交通、通信、医療などがどのようなものだったかがよく表れている。

 

昨年、『黒い雨』未認定被爆者に対して、広島地裁は全員を被爆者とする判決を示した。未認定被爆者は認定被爆者の外にいて戦後ずっと埒外におかれてきた少数の人々だ。ようやく彼らに光が当てられたのもつかの間、広島市と県は国の意向を受けて控訴した。

 

国の論拠となっているのは、「科学的・合理的な根拠」だが、結果として

 

小川一本で被爆者と非被爆者を分けるという科学的でも合理的でもない境界線を今日まで維持し、固定化することに帰結している。そしてこの「科学的・合理的な根拠」により、固定化された被爆者と非被爆者を分ける境界線こそ「黒い雨」』未認定被爆者のマイノリティ性をもたらした要因であった。」『周縁に目を凝らす』(2021年 彩流社 刊 第5部「黒い雨」未認定被爆者カテゴリの構築 より)

 

国は、被爆直後の広島県内をくまなく歩いて「黒い雨」の実態を調査した広島地方気象台の人々の調査に依拠せず、「小川一本」を境界に被爆者と非被爆者を分けるという愚策を続けてきた。75年を経た今も、そのか細い根拠にすがって未認定被爆者の存在を認めようとしていない。

 

もっともっと読まれていい作品だと思う。