映画の備忘録。どんどん記憶が薄らいでいってしまう。
先週の金曜日21日にシネマリンへ。
11時頃だったからか、この日もラーメン二郎関内店には行列。どこの二郎にも一度も入ったことがない。ただ二郎はほかのラーメン店とは区別され、この店に足しげく通う人々はジロリアンと呼ばれるそうだ。無駄口をたたかず、○○マシマシとか言って注文、黙々と残さずきれいに食べる・・・。なんだか「道」がつきそうな。
シネマリンのロビーでコンビニで買ったおにぎりを食べる。今日の映画は長い。料金も一般2500円、シルバー2000円。
『君が死んだあとで』(2021年製作/200分/日本/監督・制作・編集:代島治彦)
途中10分間の休憩が入ったが、 200分が長いとは感じなかった。面白く見ました、といったところ。
こうした映画は必ずしも当時の様子を忠実に再現しているわけではなく(できるはずもないが)、ドキュメンタリーと言えども(だからか)つくり手の思いからの出演者のチョイスや編集がなされるのだから、ああこういうことがあったんだというより、こういう見方の映画なんだとみるべきだと思う。
そういう見方とは、私は違うと見終わって思った。
同時代を生きた人などはいやいやあれは違う、あのときはこうだった、などと云いたくなるだろうが、激動した時代、どこに立っているか、31メートルずれても違うものが見えたのではないか。それでもしゃべりたがる全共闘世代に、若いころは何度もへきえきした。
こんなふうに思うのは、私は山崎さんが亡くなったとき中学2年生。年齢差はさしたる物はないが、立っている位置も時代の見え方もずいぶん違うからだ。
なぜ山崎君は殺されたのかを追及する映画ではない。この映画は、山崎君の周囲にいた多くの人々がかたる群像青春劇。有名人も登場する。三田誠広さんなんか登場はするが、どうも本筋からは離れたにぎやかしだ。
詩人や元教師、友人が、詩を朗読したり、追悼文を再現したり、歌を歌ったり。正直、違和感がある。なぜ山崎君が死んだか、よりも山崎君の死によって自分はどんな転換をしたかが語られている映画。
大枠としては、新左翼の政治党派間の争いと武装闘争によって短い70年闘争が終わっていくなかで、『わたしたちはどう感じ考えていたか』が語られる。
その後の人生と山崎君の死がどうかかわっているかはあまり語られない。引きずっていると言えなくもないが、私にはみな違う人生を生きてきたんだなあという印象が強かった。
救援に係った水戸喜世子さんのお話。公安につけ狙われ、それでも党派に無関係に救援を続けだんなも子どももなくしてもなお、当時の活動に誇りを持っている語り口が印象に残っている。
私は街頭で国家権力と明確に対峙したことなどなかったが、仕事をしている間中、超少数派の労働組合員としてぼんやりとした「国家」に向き合ってきたという実感はある。
仕事はやめたけれども、それが明確に終わったとも思わないし、自分なりの方法で「ぼんやり」にむきあうことは続けていきたいと思っている。
だから、詩を朗読はしない、歌も歌わない。って云ったら嫌味だろうか。
世代的にもこの人たちとは違う時代を生きてきたことを確認できた映画だった。