『ジャズロフト』ユージンの人生も語られるが、映画はジャズメン同士のセッションの中でつくられた素晴らしい音楽に収れんされているように思った。

このところ5℃を下回ることが多くなった。今朝も3℃。本格的な冬の到来。

日曜日は0℃を下回った。

散歩の途中、まだ踏まれていない氷の張った水たまりを見つけると、割りたくなる。

 

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風がないと、歩き始めて30分もするとからだが温まってくる。

それでも冬にはすぐに尿意のやつがやってくる。

散歩コースは、トイレを迂回するように変更する。

 

川辺にはサギやコサギの大群がカワウと一緒に群れている。相性がいいのだろうか。

カメラを持った滝田さんに会う。

「今日はみませんね。声も聴こえないし」

「姿」も「声」も交わされる会話ではすべてカワセミのこと。

 

帰り際「朝食の時間がすぎたからかな」と話しているときに

「チイ」

水面すれすれを羽ばたきもせず素早く滑空するカワセミ

一瞥できただけで満足して帰途に就く。

 

映画備忘録。12月13日。

『ジャズロフト』(2015年製作/87分/アメリカ/原題:The Jazz Loft According to W. Eugene Smith/脚本・監督:サラ・フィシュコ/日本公開:2021年10月)

 

1950年代半ば、マンハッタンのとあるロフトで気鋭のジャズミュージシャンたちが繰り広げた伝説のセッションを、写真家ユージン・スミスが記録した録音テープと写真をもとに構成したドキュメンタリー。戦場カメラマンとして活動後、雑誌「ライフ」などで意欲的な作品を多数発表、70年代には水俣病患者を捉えた写真集で世界に衝撃を与えたユージン・スミス。彼が50年代半ばから住んでいたマンハッタンのロフトには、当時絶頂期にあったセロニアス・モンクやまだ名を馳せる前のカーラ・ブレイら多くのジャズミュージシャンが出入りし、連日連夜ジャムセッションを繰り広げていた。スミスは彼らの自由奔放な演奏をつぶさに録音し、何千枚もの写真を撮影。約8年間にわたって続いたというユニークなコラボの様子を余すことなく伝え、ミュージシャンたちの圧倒的存在感と刹那的な生き様を浮き彫りにする。さらに、ユーモアと気難しさを併せ持つスミスの複雑なパーソナリティが多くの証言者によって明かされる。

                        ー映画ドットコムから画像2

 

この説明を読むと、写真家ユージン・スミスが写真だけでなくジャズミュージシャンたちの演奏録音にいそしんだかのように読めるが、少し違う。

ユージン自身は、サイパン硫黄島、沖縄に従軍してライフ誌に写真を提供。戦争カメラマンとして名をはせるが、1945年、沖縄で米歩兵と行軍中、日本軍の迫撃砲の攻撃を受け、負傷。2年の療養生活を送るも以後長く後遺症に悩まされることになる。

1947年~1954年までライフ誌で「フォトエッセイ」を連載。1954年に編集部と編集方針をめぐって対立。ライフ誌を去る。

 

この映画はその3年後、家族をニューヨーク州エストチェスターに残し、マンハッタン6番街のロフトに移り住んで以後のユージンを描いている。

このロフトに多くのジャズメンが集い、昼と夜とジャムセッションを繰り広げたわけだが、1965年頃までの間、ユージンは常軌を逸するような執拗さで彼らの演奏を録音し写真を撮った。残された4000時間のオープンリールでの録音と4万枚の写真を構成してつくられたがこの映画だ。その動機は映画を見てもよくわからない。

 

前半は、ユージンの録音に熱中する姿が描かれる。階段や床や天井までマイクを仕掛ける友人の姿は異様だ。

だが、ここに集うジャズメンたちもまた当時としては異様そのものだ。

というのも、時はスイングジャズがおわりをつげ、チャーリーパーカーなどを嚆矢とするビバップの時代。ダンス音楽に飽き足らず、楽器の限界を求め、さまざまな技術を駆使したアーティスティックなジャズが競うように繰り広げられた時代。セロニアス・モンクエリック・ドルフィー、アートブレーキ―、マイルス・デイヴィスなどが活躍したころだ。

その後、ジャズ界はフリージャズに向かうが、未だに私が聴くのはこのビバップのころの演奏が多い。今聴いても私には古さが感じられない。

酒を飲み、薬をやりながら、明け方までセッションをするプレーヤーをユージンは目いっぱい受け止めたようだ。ただユージンのジャズということについて映画ではさほど語られていなかった。

 

映画は動画が少なく、写真と録音だけなのでナレーションが中心になるが、今では考えられないような彼らの生活が日常のごく当たり前のことのように語られる。

いつしかユージンは後景に引っ込み、ジャズメンたちの話が中心となっていく。

門外漢ゆえそのプレーヤーの名前も知らないが、あるクラシック出身のホルン吹きは、うまく彼らのビートの乗れないでいると、セロニアス・モンクがそれを指摘せずに、何とダンスで彼の演奏を修正するきっかけを示してくれたと話す。この話がとりわけ印象に残っている。実際にモンクがダンスを踊ってリズムを示す姿はどんなだったろうか。

 

ユージンの人生も語られるが、どちらかというとジャズメン同士のセッションの中でどれだけの素晴らしい音楽がつくられたかに映画は収れんされているように思った。

 

ユージンが富士フィルムのコマーシャルに出たり、日立製作所のPR写真を撮ったりしながら、水俣に行きつくのが1971年。2度目の妻アイリーン・美緒子・スミスと結婚、水俣を撮り始めるのは、先般公開された『MINAMATA』に詳しい。

 

2つの映画はまったく別々につくられたものだが、ユージン・スミスという人に近づくためには互いに補完するところがあるように思う。もちろん、それでも彼の人生の、たぶん10分の1くらいのものだろうと思うが。画像6

ロフトにはサルバドール・ダリも姿を見せていたという。