豪雨による被害が続いている。
4年続けてハウスが被害を受けたという方の記事があった。気の毒である。
こちらはそれほど激しい降雨はないが、不順である。毎日断続的に雨が降り続いている。風が出ることも多い。
雨が上がるのを見計らって散歩に出かける。
一昨日、久しぶりにカワセミをみた。突然のことだった。
「カワセミ、最近全然見なくなっちゃったね」と話していたのだ。
水面を飛んできたはずだが、それは全く見えず、1㍍ぐらいのところにとまろうとしている時に気がついた。不思議なものだ。大ぶりのブルーのカワセミは、私たちの足下にはとまらずに葦の茂みの方に飛んでいった。
こんな時にいつものカメラのおじさんに会う。帰途である。
このあいだも久しぶりにカワセミを見かけときに、直後にこの方に会った。
今日も長い望遠レンズのついたカメラを提げている。みたことを告げると、残念そうである。
マスクが少しずれただけで注意される。
給食のときの小さな声のおしゃべりも注意される。
躰をぶつけあうことはとにかくいけないこと。
いつも、ともだちの顔が小さくしか見えない。
禁止事項は、いつの間にか契機や理由を置き去りにして独り歩きし始める。
監視する側はわずかな逸脱が気になって仕方がなくなる。
そっち側に長くいたから、その感覚、よく分かる。
そうなる心理の狭さをに気がついて、はじめて「適当さ」の意味の確かさが見えてくる。
毛布をかぶって眠る癖のある佐久間清太郎の反撃は、わずかな逸脱すら許さない看守に対し、「お前のときに出てやる」と宣言することだった。そう言い続けることで関係は逆転する。そうして佐久間は実際に脱獄した。(吉村昭『破獄』)
子どもはそんなふうにはできていない。
佐久間には並外れた胆力と計り知れない体力にあわせて、鉄格子を味噌汁を垂らして腐らせるとてつもない持続力があった。
子どもは何度も注意されると、ただただ気力が萎えてくるのである。
マスクがずれた理由を言いたいけれど、聞いてもらえない。
「ダメなものはダメ」「もし感染したらどうするの」「みんなが迷惑するんだよ」
どこから見ても正しいように見えるものは、どこかに大きな陥穽を内包している。
面白いことがあったら誰かに言いたくなる。あたりまえのこと。
ちょっと鼻マスクにするぐらい、なんだというのだ。
気持ちが沈んでいく。
内に溜まったものを適度に外に出していかなければ、自分の中に沈殿していくだけだ。
手が荒れるほどの消毒を100%ウイルスを通してしまう布マスクをかけながら手にこすりつける。
完璧にウイルスをシャットアウトすることなどできない。
大人の日常生活では、できることをほどほどに継続する。それでいい。
教育の場の容赦ない潔癖主義は、ウイルスより、生きて動くための酸素を奪ってしまうようだ。