三島は1000人の学生に対し、まったく臆することなくひたすら誠実に「いっしょに闘おうじゃないか」と言い続けたのではないかと思う。

金曜日。宣言解除後二度目の映画館。

 

三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』(2020年/108分/日本/監督:豊島圭介/ナレ―ター:東出昌大

 

封切りは3月20日だったか。早くみたいと思っていたが、ようやく。

 

 

1000人の東大全共闘を相手に三島由紀夫が何をどう話したか。

三島は1000人の学生に対し、まったく臆することなくひたすら誠実に「いっしょに闘おうじゃないか」と言い続けたのではないかと思う。

学生は三島の発言を途中で遮ってはばからないが、三島は一度も学生の発言を遮らなかった。学生の先走った舌足らずな物言いに対して、自分の限界を堂々と明らかにしながら議論の糸口をちゃんと提示していた。

三島の小説家を超えたところでの誠実さに対し、学生もそれを認めざるをえなかった。議論は当初の殺伐とした空気が消え、三島のユーモアに応じる笑い声もまじった。

 

諸君が安田講堂に立てこもったとき「天皇」とひとこと言ってくれればいっしょに闘えた、と三島が云うのに対し、屁理屈で、つまり今この場で「天皇」という言葉をつかって自分たちも発言したのだから三島は「連帯する」というべきだと学生は応じる。

三島からすれば軽く一蹴してよいところだが、彼はそれをしない。

三島がいうここでの「天皇」というのは、もちろん昭和天皇のことではなく、社会を根底から覆していくときのイデオロギー的な政治的幻想のことだった。日本を変えるのに「天皇」を使うのは、多くの歴史上の人物が考えてきたことだ。

三島は一年後市ヶ谷で自衛隊にも決起を呼び掛け自害したが、ここ駒場の教室でも三島は全共闘に対しともに立ち上がろうと呼び掛けた。

三島は、自決という行為で自らのイデオロギーを決着、完結させたが、それが悲劇的であればあるほど、やや滑稽な非政治性をあらわしてしまい、非イデオロギー的な楽観主義に陥っていたようにみえる。

小説家としての自分の立場を固守するだけならば、学生の先走った理屈に対して、突き放すような叩き潰すような議論も可能だったと思う。それをしなかったのは三島の中に「共にたたかおう」というメッセージがあったからではないか。

1970年11月25日、高校2年生だった私は会津只見線を走るC11が牽引する客車の中にいた。どこからともなく、「三島由紀夫が自決したらしい」という話が聞こえてきた。携帯もメールもなかった時代である。

次の日の新聞の一面は三島の首の写真が載っていた。

 

全共闘運動に乗り遅れた世代だからこそ、全共闘を長く引きずらざるを得なかった。

でもいまでは、彼らとは違う道を歩いてきたと云える。

 

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みょうが