昼間の気温が、連日25度を超えるようになった。二十四節季では芒種。
境川沿いの普段は歩かない下流の脇には田んぼがあるが、10日ほど前に田植えは済んでいる。
芒種の季節にはややずれる。気温の上がり方は平年並みか。
目が覚めて、テラスのガラス扉を全開にする。”さわやかな初夏の空気”に忍び込んでくるわずかな湿気。
庭のアジサイが色づいてきた。
GO TOキャンペーンの1兆7千億円はおかしい、と第一次補正予算がでたときに書いた。他の給付金等に比べて、「コロナ後」の観光等の消費喚起策の財源としては膨大すぎると感じたからだ。
今度はその一部3000億円の委託費問題。経済産業省が委託先を公募している。
経産省自らは手を付けずに、事業を委託先に任せるやり方。下請け、孫請け、ひ孫受けとその都度上前(うわまえ)をかすめとるやり方。
すでに持続給付金でも、ユーレイ会社が受注し、それを最大手の電通に丸投げする実態が明らかになっている。
かすめ取られたお金の一部は、巡り巡って政治家に還流され、ユーレイ会社は官僚の天下り先となる。税金を寄ってたかって「食い物」にする仕組み。
給付金が間に合わず、つぶれている会社、失業する人が増えているのに。
死者が少ないのは民度が高いからだと麻生大臣。
政治の練度が低いから、相対的に民度だけが高いかに見えるだけ。
政治で防げた悲劇がたくさんあるのに、外国人らしい相手は「絶句して黙った」とは。「絶句」は言葉が出ないこと、つまり黙ることだ。
あいかわらず、だ。
きのう、朝日はオクスフォード大学の苅谷剛彦さんのインタビューを掲載。
9月入学論に対して緊急に調査を始めた理由として、
「エビデンスに基づいて検討する機会がないまま議論が進むのを恐れたからです。エビデンスとは実証的な根拠のことです。大きな政策を実施したとき、どのような影響が出るのか。それを推計した社会科学的試算がないまま9月入学への移行が実現したり見送りになってしまう事態をおそれました。」
推計についてはチームのメンバーは無償で、支援スタッフへの謝礼は「僕のポケットマネー」だったそうだ。
結論は「見送り」になったが、チームの推計はこの結論に影響を与えたかという質問には、
「わかりません。日本に居れば見えるのかもしれませんが」
議論の仕方は変えられたかの質問には、
「コメントを見てがっかりした。(反対者の多くは)「ありがたい試算が出た」
(賛成派の人たちは)「反対勢力による推計だから信じるな」と。
「自分たちを利する結果かどうかに着目している点では同じ」
苅谷さんの研究の軸には「不平等は不正義」であり、
「不平等をなくしていく努力は、正義が軽んじられない社会をつくるために重要です」
という考え方がある。
そのために公正なエビデンスを示していくことが重要だということだ。
新しい公的事業が提起されると、民間のいわゆる「シンクタンク」が調査に入る。
かつて、有能なシンクタンクの一員だった方に話を聴いたことがあるが、事業を実施しようとしている事業主が望む数字を客観的に見せながら出すのが「仕事」だ、と。
結論が先にあって、それに合わせた「エビデンス」を見繕うというのが、「推計」だったり「調査」だったりする。
かつて、横浜市で文科省の役人が教育長に天下ってきて、学校二学期制が提案したことがあった。さまざまな調査が行われたが、笑ってしまうほど「ためにする調査」だった。選択肢の設定や配置を換えれば、いくらでも実施主体に都合の良い結果が出せるものだということを思い知った。
教育問題の議論は、昔から「過度に子どもたちの立場に寄り添う」言説が、議論のバランスを欠く要素となってきた。
「子どもたちは苦しんでいる」「子どもたちの叫びに耳を傾けよう」「学校が子どもたちを殺す」といったエキセントリックな子ども中心主義が、客観的な現状把握を拒み、いびつな政策批判を容認してきた。
教員になって10年間は、私もそういう言説をわがものとしていた。
小さな運河のある地域にある中学校に赴任して、地域や地域のおとな、そして子どもという森に深く分け入ったとき、自分の足元がそれほど強固なものでないことを思い知らされた。
「あるべき論」から発想せずに、目の前の現実をそのままフィルターをかけずに受け止めるべきなのではないか。
そこが出発点となるべきだと考えるようになった。
この姿勢は、苅谷さんの姿勢と通じるものがあると、今でも思っている。