この講座、以前にも触れたが、2016年から始められ今回で100回。
主宰は元高校教員の竹内良男さん。たった一人でテーマ設定、講師選定、交渉、会場準備、資料作成を手掛けている。
その回数と内容たるや、刮目して見るべし、である。
もともとこの100回目の講座は、3月9日に武蔵大学で開かれることになっていたのだが、会場の武蔵大学が学内のイベントすべて中止を決めたため中止となった。
その時のテーマは、広島旧陸軍被服支廠保存問題の4回目、それはまた別の機会に開催されるとのこと。
今回は東京大空襲。
講師お1人目は山辺昌彦さん。
現在、東京大空襲・戦災資料センター主任研究員でわだつみのこえ記念館館長も兼ねておられる。
それ以前は、豊島区立郷土資料館学芸員や立命館大国際平和ミュージアム学芸員を務めてきた方。専門は日本空襲と平和博物館。
私の東京大空襲の最初は、早乙女勝元さんの『東京大空襲―昭和20年3月10日の記録 (岩波新書 青版 775)』。衝撃を受けたことを憶えている。
この本が出版されたのが1971年。私が読んだのは、70年代の終わりごろだったと記憶している。
その後、90年代初めからヒロシマ修学旅行を企画するにあたって、下町の被害をめぐるフィールドワークに何度か参加したり、生徒や保護者とともに『東京大空襲・戦災資料センター』を訪れているが、その程度である。
まとまったお話を聴くのは初めてのことだ。
はじめに山辺さんは、東京大空襲は米軍による『戦略爆撃』であるとして、その目的を「空襲のみで相手を降伏させること」であり、
1戦争遂行能力の破壊(精密爆撃・軍事工場の破壊)
2戦意の喪失(無差別爆撃・住宅の焼き払い・民間人の殺戮)
を具体的なねらいとしたと規定する。
東京大空襲と云うと、1945年3月10日の東京下町を襲ったB 29による爆撃を思い浮かべるが、それはまさに本格的空襲の開始であって、東京区部が被害を受けた空襲は全部で60回を超える。最も早い空襲は、ドウリットル空襲と呼ばれるB25による爆撃で、1942年4月である。
また、軍事工場、とりわけ陸軍の施設や中島飛行機への空襲の詳細は一覧表にまとめられて提示されているが、米軍側の資料も含めて夥しい数の空襲が繰り返された。
そのあたりの実証研究は、早乙女勝元さんの『東京大空襲』時よりかなり進んでいるように思われた。
山辺さんのお話を聴いて自分の勘違いに気がついた。
3月10の空襲が東京に最大の被害を与えたことは間違いないが、飛来したB29の数は必ずしも被害に比例していないことだ。
私は3月10日が、物量的に最大の空襲と考えてきた。
4月13日~14日には東京西北部の陸軍兵器工場を狙って328機のB292038トンの焼夷弾と82トンの爆弾を投下している。このときの死者は2000人。
5月24日には520機のB29が大森区、目黒区、芝区を中心に3646トンの焼夷弾を投下、このとき死者は500人以上。
5月25日から26日にかけての空襲は その北側、皇居あたりを狙って行われ、このときは464機のB29が3258トンの焼夷弾と4トンの爆弾を投下している。3350人が死亡。
このときは目標が都心の為、構想のコンクリートの建物が多いことから、貫通力の強い焼夷弾が使われたという。
これに比べ、3月10日の空襲はB29 が279機1665トンの油脂焼夷弾を投下、約10万人の人々が亡くなっている。
米軍の戦略は、3月の風の強い夜間を想定、まず中心地4点に大型の50キロ爆弾を投下し、これに照明の役割をになわせ、その後、小型の油脂焼夷弾を目標地点に集中して投下するという攻撃方法をとった。
結果として北風や西風の強風もあって、火災地域が広がり、多くの死者を出すことになった。
10万人の死者の多くは、焼死、窒息死、水死、凍死。
犠牲者が多かった理由は、攻撃の物量的な問題というより、米軍の作戦とさまざまな偶然、必然が重なったものだったということが分かった。山辺さんによれば、被害の甚大さの理由は、
・空襲警報が遅れたことで、奇襲となり、人々の避難が遅れ、逃げ遅れたこと。
・木造家屋の密集地に大量に焼夷弾が投下され、折からの強風で大火災が起きたこと。
・川が縦横にあって、多くの人々が安全な避難場所まで逃げられなかったこと。
・避難場所も火災に襲われたこと。
・踏みとどまって消火しろとの指導が徹底していて、火叩き、バケツリレーなどの非科学的な消火手段がとられ、火災を消すことができず、逃げ遅れたこと。
が挙げられている。
アメリカ軍にとっては、さまざまな条件が重なり、「効果」的な爆撃となったことになる。
私は今、5月24日の520機に比べ、3月10日は279機のB29と約半数であることに驚いたと書いたのだが、もちろん数字だけでは分からないものがたくさんある。
よく東京大空襲の被災者の話で、空が真っ黒になるほどのB29、という話が出てくるが、房総方面から空を覆うように入ってくるB29が、270機でも520機でもど、れほどすさまじいものかと思う。だいたい、私は2桁の飛行機が空を覆うのさえ見たことがない。
次々と戦隊を組んで空に現れる大型の爆撃機、そしてその轟音とともにものすごいスピードで落ちてくる焼夷弾を想像すると、恐ろしい。
逃げまどう人々の悲鳴や、周囲に立ち込める建物や人が焼ける臭い、私は今まで生死の境などさまよったことのない人生だったから、その恐怖感たるやこれは想像もできない。
焼き尽くすことを狙いとして東京を潰すために開発された焼夷弾、大量の焼夷弾、爆弾を搭載できるように開発されたB29。
B29は人や家屋だけでなく、橋を破壊し、人々の逃げ道をふさいだ。行き場がなくなって激しい炎に取り巻かれ、空から落ちてくる焼夷弾の音。
想像を絶する。
多くの国民学校が避難場所となっていたため、そこの防空壕や地下室に避難した人も大勢いたという。
東京下町の国民学校は、関東大震災後の復興事業でほとんどが鉄筋校舎だったからだが、内装は木造であったため激しい火災が起こり、避難していた人たちが焼死することとなった。
火災による気温上昇が激しく、地下室や防空壕で蒸し焼き状態で亡くなる人も多かった。
3月の東京とは言え、気温3℃から4℃で川に飛び込み凍死するように亡くなった人もいれば、熱さに苦しんで亡くなった人もいた。
怪我をして生き延びた人のその後の辛苦、当時97000人の朝鮮人がいたとされるが、その犠牲者数も不明、疎開しているあいだに家族が亡くなり、帰る家がなくなり浮浪児となり、苦しい生活を強いられた多くの子どもたち。
被害の数字に表れない被害は、75年を経てもいまだに続いているし、国家補償を求めている人たちもいる。
民間人を狙った空襲という攻撃は、もとはと云えば、日本軍が重慶に対して行ったのが最初といわれるが、75年を経てもその正当性はどこにもない。
山辺さんのお話は、A3版17枚にも及ぶ膨大なレジュメと資料が用意されていた。
恬然とした語り口は、資料にものを言わせようとする研究者の執念を感じさせるものだった。
貴重なお話を伺った。
もうおひとり、体験者の西尾静子さんのお話は次回に。
西尾さんは、元国立感染症研究所・主任研究官という別の顔も。新型コロナウイルスについてもお話を伺うことになった。