22日に、イタリアの死者4825人と書いたが、昨日の発表では6077人に。
生産活動はほぼ全面的に中止。
日本は終息とは云えないが、感染者も死者も急増しているわけではない。
「自粛を強くお願いする」
という不思議な言葉の使い方が蔓延している。
最近、印象的だったことば。
「人類が新型コロナウイルスに打ち勝つ証しとして完全な形で実現することで支持を得た」(16日 G7の首脳テレビ会議)
オリンピックとコロナウイルスを並べることのおかしさ。この人のアタマのなかには、オリンピックしかないのだろう。
その人がもろとも問題で自殺した赤木さんのメモに対し、
「赤木俊夫さんのメモには新しいことは何も書いていない。究極の第三者委員会の検察が問題なしとしたことだ。再調査はしない」。
これに対し赤木さんの妻
「2人は調査される側で、再調査しないという発言する立場ではない』
痛烈。地獄を見た人のことば。
さて、ヒロシマ講座第100回の後半、西尾静子さんのお話。
こちらも地獄を見た女性だ。
当日の自分の粗雑なメモからの起こしなので、以下つじつまが合わないところもあるかもしれない。
西尾さんは当時6歳。1か月後には高橋国民学校への入学を控えていた。
3月9日は22時ごろには寝ていた。
深夜に父親にたたき起こされる。父親は内科小児科医院を開業しており、この夜は、警察医として救護所に詰めていた。
家族は、母と引越しの手伝いに来てくれていた従姉と看護婦、お手伝いさん。
みなで庭につくられた防空壕に入る。ここには2畳のたたみが敷かれていて、1週間分の水、食料、薬品が備えてあった。
1時間後、父親が戻ってきて
「高橋国民学校へ行け」
そう云われて、少し先に向かった従姉と看護師、お手伝いさんはと高橋国民学校に入れたのだが、少し遅れた自分をおんぶした母親は、目の前で締め出されてしまった。
そこでやむなく向かったのが深川国民学校だったが、ここでも入れてもらえず、西尾さん母子は隅田工業学校の地下室に入れてもらうことに。そこはコンクリートの打ちっぱなし、床には水がたまっていてかび臭かったのを憶えている。
気温はこのとき3℃~4℃。坐る込むこともできず、焼夷弾が落ちてくる音を聞きながらみな子どもを抱いたまま立っていた。
ここに70人の人たちが避難していた。小2以下の子どもたち(3年生以上は学童疎開)と、小さい子をおんぶした母親たち、そして老人が中心。
鉄扉が閉められる。外からはものが燃えさかるすごい音が聴こえる。扉のすき間からは煙が入ってくる。子どもたちはみなぐったりしている。
その時、外から激しいノックの音。
「入れて、開けて」という女性らの声。
しかし、大人たちは扉を開けない。
そのうちに悲鳴のような声で
「開けろ!入れろ!」と大声で叫ぶ声。
しかし大人たちは開けようとしない。
西尾さんはこの時のことを60年間、誰にも言わずに自分の胸にしまってきた。
ふたをしなければ、自分が壊れてしまうという思いだったという。
10日朝、5時30分。空襲が終わる。
大人たちは鉄扉を開けようとするが、どういうわけか開かない。
ようやっと鉄扉を開けた時、そこには2㍍の高さの焼け焦げた死体の重なりがあった。
この時、千葉方面に地平線が見えた。何もかもなくなっていたということだ。
自宅の焼け跡に戻ると、一晩中焼夷弾のなかを任務のために走り回っていた父が、ボロボロの毛布を抱えて呆然と立っていた。
私たちの姿を見るなり、父は、「静子!生きていてくれたか!」と言いながら、うわっと声を出して泣いた。
大人が泣くのを初めて見た。
高橋国民学校に入った従姉と看護婦はいつまでたっても帰ってこない。
あとから分かったことだが、高橋国民学校の防空壕に避難した人たちは全滅。蒸し焼きのようになって亡くなっていたということだ。
八王子の母方の祖母(80歳)のところへ以降という父に、母は「夕方まで待つ!」と云ってきかなかった。
母は、実の妹の娘に疎開の準備をさせた、その結果がこんなことになるなんてという深い悔いがあったのだと思う。
市電の線路はあちこち溶けていて、東京駅まで歩いて行った。
死体をまたぎながら3時間の道のりだった。
女声のおなかから胎児が飛び出していた。
おじいさんがうつろな目でフラフラと歩いてきた。おじいさんの背中には死んだ男の子が負ぶわれていた。
隅田川は死体でおおわれていた。
交番の中に人がぎっしりはいって、立ったまま皆亡くなっていた。
西尾さんは、子どもたちに体験を語るときに使うマッチ箱を取り出して
「これと同じなんです」
マッチ箱を開けると、マッチ棒は軸を上にして盾に並んでいる。人間が焼けてくっついて、アタマだけが黒くなっているさまだという。
5,6個の交番をみたが、みな同じようだった。
犬や馬が焼け焦げていた。
東京からは省線(中央線)の八王子方面行きが2本だけあった。
その1本に乗せてもらえたが、7人掛けの椅子をみたとたん、母が気絶してしまった。
父はもっていたビタカンファー(ビタミン剤とカンフル剤を合わせた薬品)を母に注射、ようやく母は目を開けてくれた。
八王子には1週間お世話になった。その後、母の里である岐阜へ祖母もいっしょに帰り、小学校入学する。
その八王子は、8月2日に市街地の80%が焼ける被害を受けた。
西尾さんはいくつかの場面で「心がこわれた」と話した。
目の前で起きたことを納得して自分の中に上手にしまうには、6歳の女の子は小さすぎた。
ただただ「ふたをする」ことで、西尾さんは60年を過ごしてきた。
言い方を換えれば、あの日のことを話せるようになるまで、60年の時間が必要だったということだ。
以下、資料等から。
*3月10日の空襲は、一晩で約10万人が犠牲となり、100万人が負傷した。その大半が民間人。焼夷弾で発生した火災は約41平方㌔を焼き尽くした。これにより100万人が住居を失ったという統計もある。
一日での死者の数では、ヒロシマ・ナガサキを上回るといわれる。
*B29
ルーズベルトは1939年に第二次世界大戦に参戦した国々に対し、民間人への爆撃は非人道的かつ野蛮であるとしてこれを行わないよう呼びかけた。しかし、1941年の真珠湾攻撃以降、日本への報復を決断、本土爆撃に到る計画を立案、その中心的な役割を担うのがB29だった。
*縦列編隊
戦略爆撃として中島飛行機を中心する軍事工場を標的とする空襲とともに、国民の戦意喪失を目的とした無差別爆撃のために開発されたのが焼夷弾。それを落とすためにルメイ将軍は、一般的には複数列の編隊を組むのに対し、一列縦隊の低高度での夜間攻撃を指示。敵(日本)の戦闘機からの防御よりもより多くの焼夷弾を積み込み落とすことを最優先した。搭乗員の息子ジェームズ・ボウマン氏は父親からの聞き書きとして、こう書いている。
「その日、ブリーフィングルームをあとにしながら、二つのことを確信していた。ひとつ,ルメイは気がふれている。ふたつ、多くの隊員と今日限りで会えなくなるだろう」
*9000㌔
超空の要塞と呼ばれたB29は、長距離戦略爆撃機。航続距離9000㌔。サイパン、テニアン、グアムから飛び続け、爆撃の上余裕をもって帰還できる。高度10000㍍を飛びながら、乗務員は軽装で行動できたという。
*この日、落とされた爆弾は32万7千発のM69焼夷弾。
1発およそ3㎏のものを38発ずつ収納した親爆弾が空中で開裂すると、落下時の姿勢を安定させるためのリボンをつけた子爆弾が盗ヴィだし、地面に到達する。その衝撃で内部の燃焼材が発火。
アメリカは1943年5月ソルトレークシティの実験場で、日本の労働者の社宅を想定した木造家屋を再現。座卓、座布団、障子、ふすままで正確につくり、M69の貫通力を試した。この実験を繰り返し、鯛かを引き起こすために必要な爆弾の量を計算した。それをもとに1945年1月に名古屋、2月に神戸、25日に東京と空襲、どこまで燃え堀賀れば消火不能となるかを確かめたという。
その意味で、B29の数と被害は比例していないことが理解できる。アメリカ軍は最も効率の良い方法を3月10日にとったということだ。それは,夜間、低高度、縦列編隊、照明弾としての大型爆弾を先制させ、その後にM69 焼夷弾の親爆弾を投下するという方法だ。
*日本側の防御はどうだったのか。
一枚のポスターがある。(2020年3月3日東京新聞から)
帝都翼賛壮年団が掲示したもの。
一番上に「初期防火第一へ!」と横書き。
真ん中に縦書きで「消せば消せる焼夷弾!」
右側に縦書きで「空襲災害は最初の1分!退くな、逃げるな、必死で消火!」
左側に縦書きで「退避は待機、焼夷弾には突撃だ!空家の絶滅、空事務所の宿直強化!
」
敵の戦力を見極め、丸腰の民間人が助かるための避難訓練がきちんとなされていれば、犠牲者の数はかなり減ったはずである。
制空権を失っていながら、民間人を盾にして闘った多くの空襲、国家賠償の対象になるのは当然だと思うが、どの空襲に対しても日本は賠償をしていない。
80年代、ヒロシマ・ナガサキや東京大空襲について話す人に対し、加害者としての日本の責任はどうするのだという声が多く聞かれた。加害者としての戦争責任があるからと云って、被害者の面を帳消しにはできないと思う。どっちがどっちではないのだ。両方ともきちんと向き合わねばならない問題だ。
西尾さんが元国立感染症研究所の研究員だったことを記した。
この日、西尾さんは新型コロナウイルスについても発言をしている。
それは、また次回に。