前回、タイトルで『レ・ミゼラブル(2019)』を見にいく、と書いておきながら本文に映画への言及がなかった。昼食をはさんだため。
『レ・ミゼラブル(2019)』(2019年/104分/フランス/原題:Les miserables/監督:ラジ・リ/主な出演:ダミアン・ボナール/アレクシス・マネンティ/ジェブリル・ゾンガ/イッサ・ペリカ)
2012年にトム・フーバー監督の同名ミュージカル映画があり、評判を呼んだ。ミュージカルは嫌いではないが、この映画、私はちっともいいと思わなかった。理屈ではなく、気持ちが泡立ってくるような感興を感じなかった。
日本でも繰り返し同名のミュージカルが上演されているが、見に行ったことはない。日本の上演回数○○○回!というのは、劇団四季を2回見て以来、あまり興味がない。
で、本作。ヴィクトル・ユーゴーの小説のタイトルだが、内容は小説とは全く関りのないもの。
映画の舞台となっているのがモンフェルメイユという小説に出てくる街であり、最後のシーンと小説で描かれる「六月暴動」のイメージが重ねられているようだ。
モンフェルメイユという街は、パリの中でも「移民や低所得者が多く住む危険な犯罪地域」(公式サイト)だそうだ。
一度だけだが、数日間、パリに滞在したことがある。もちろん観光でだが、モンフェルメイユのような街には足を踏み入れなかった。
この映画、不親切というか、とにかくいっさい細かな説明がない。フィクションにしてもノンフィクションにしても、観客を取り込むためには、相応の説明を必要とするが、
この映画、自分のもっている知識と記憶を最大限動員して、今どこで何が起きているかを注視し続けなければならない。
もうひとつ、いくつかの立場があるのだが、どの立場に対してもつくる側の思い入れのようなものが感じられず、素材をそのまま眼前に投げ出してくるような無造作な素振りがある。
ふたつとも、成功していると思う。
少しだけあらすじを。
パリ警察の警官の2人組クリス(白人)とグワダ(黒人)のコンビに、シュエルブールからステファンが転任してくる。
クリスは横暴な街を牛耳る悪徳警官。グワダは何となくクリスについている。
クリスはやりたい放題。バス停でタバコを吸っている十代の女子を見つけると、執拗に麻薬を疑い、わざと体を触る。そこをスマホで撮影しようとする友達からスマホを取り上げ、壊してしまう。
街の子どもたちに対しても、抑圧的に対することで、秩序を保っていると自負している。
スラム化した街には、「市長 Le maire」というネームを入れたベストを着ている黒人のボスがいる。日常的に街を自分の監視下に置き、人々を守るとしながら、商売も手掛けている。
このボスとクリスは敵対関係にあるが、もうひとつのグループはクリスと友好関係にある。
さらにムスリムのグループがある。こちらは禁欲的で子どもたちのめんどうも良く見るグループ。
警官を入れると、街は4つの勢力のバランスの中にある。
ある日、サーカス団の団長がボスの所に、ライオンの子が盗まれた、盗んだのは黒人の子だ、見つけて連れてこないと街をめちゃくちゃにしてやると押し掛ける。
これをか帰結することで優位に立とうとするクリスが街を動き回る。
イッサと云う男の子が盗んだことがSNSで分かると、必死でイッサを追い詰める。
しかし子どもたちの激しい抵抗に遇い、グワダはゴム弾を発射、イッサは負傷してしまう。
この場面を件のドローン少年が空から撮影、人権を侵す暴力行為として告発されることをおそれたクリスは、この少年を追い詰める。
ムスリムの店に逃げ込んだ少年を、クリス、ボス、そしてもうひとつのグループが取り戻そうとするが、ステファンがムスリムと話し合い、イッサをあずけ事態の収拾を任せる。
転任してきたばかりのステファンが、ここでクリスの上に立つことになるが、クリスはもちろん認めない。
しかしドローンで撮ったSDカードはステファンが持っており、どうにもできない。
3人の警官は、イッサを連れてサーカスに子ライオンを届けるが、ここでサーカスの団長はイッサを親ライオンの檻に入れる。
とにかくどっちを見ても、力関係と暴力だけが街を支配している。
恐怖から小便を漏らしてしまったイッサの顔は、グワダのゴム弾で腫れあがっているが、クリスは経緯を誰にも言わないようイッサを脅かす。
これで事態はいったん終わったかに見える。
子どもたちが、かわいいライオンの子を盗む。秩序はないがまだ無邪気ではある。
しかし、大人にとってはライオンの子一頭の問題ではすまない。
大人の都合に翻弄され、力で抑え込まれてしまう子どもたち。子どもたちの中にたまっていくマグマのような怒りの感情。これがこの映画のテーマである。
ラスト30分のすさまじいシーンの連続の前に、3人の警官の家庭が描かれる。
ステファンは、別れて暮らす息子に電話する。グワダは、老母とハグし涙を流す。クリスは、いうことをきかない姉妹を怒鳴りつけ酒を飲む。
日本の家庭と変わらない風景。まるで緩徐楽章のようだ。
最後の30分。書かない。みる価値はある。
マグマのような怒りに共感し、あと押しするような描き方はされていない。
ひたすら私たちに「お前はこれをどう見る、これをどう考えるのか?」と問いかける。
子どもたちの暴虐を、肯定も否定もしていない。
一方、いつの間にか恐怖に震えてしまう大人の側に、反省をもとめているわけでもない。
善も悪もない。あるのは怒りの爆発だ。
ラストシーンがいい。火炎瓶をもったイッサと拳銃を構えるステファン。
子どもたち、とりわけイッサにとって最も理解のある大人とイッサは、最後の最後に対峙する。
私は、荒れた中学で過ごした11年間を思い出していた。
街のもつ空気感や子どもたちの独特のアナーキーさ。容赦ない暴力といじめ、
理解しようとする大人への拒否。
あんな目をした子どもたちが確かにいた。
教員に何ができる、学校に何ができる、と考えた末に辿り着いた「どうにかしようなんて思わない。できるのは、とりあえずそこにいるということ」。
それでも事態は好転などしない。
「信頼関係をつくる」という教員の意識がどれほど得手勝手なものか、思い知らされた時間。
教員は暴力はダメと言うが、子どもたちはまるごと暴力の中で生きていた。子どもたちのリアリティは、簡単に教員のアタマの上を越えていった。
この映画も、こうして生きている子どもたちが、そこにいる、そうやって生きているということを、まずはしっかり見なさいと云っているようだ。
物語や解釈や価値判断をさしはさまずに、暴力はダメという前に、暴力をちゃんと凝視しろと云っているようだ。
監督のラジ・リはこの街で育ったという。
キワモノでない映画になったのは、子どもたちだけでなく、難民や移民をみる彼独特の視点と思想があるからだろう。
アカデミー賞の外国長編映画部門にノミネートされたというが、『パラサイト』と比べ、見たあとの感興は本作の方が深かった。